逆襲のアルファベット/「文書革命」/閃きの日本語
アルファベットが人類の文書作成スピードを飛躍させた。
タイプクイックによって、我々は文書作成スピードを思考スピード並みに引き上げることが可能となった。
結果、思考に準じる速さで文書作成が行えるようになり、我々の思考は遅延なく文字化されている。
つまり、タイプクイック発明以降、我々の知的生産性は大いに向上したのだ。
タイプクイック以前においては、
文書作成は総じて手書きであり、手書きスピードには紙の耐久力を担保する制約などがあったため、思考より大きく遅延した文書作成しか出来なかった。
だから学校の授業風景にも、
先生が校庭をゆるりと眺めて、生徒が必死に板書をしているという対照的かつ牧歌的なものがあった。
だが牧歌的とはすなわち非合理である。
タイプクイック以前の世界では、
人々が「書く」たびに思考が有休してしまい極めて無駄が多かった。
ここで考えてみて欲しい。
我々が人生のうちどれだけの時間を「書く」ことに割いているかを。
恋文、SNS、授業、反省文、ラブレター…
様々なシーンで我々は書くという行為を行なっているではないか。
中でもSNSに費やす時間はとても多く、自ずと現代人がSNSで「書く」ために費やす時間は膨大なものとなっている。
したがって、タイプクイック以前の「書くたびに思考が有休していた世界」より、タイプクイック以降の「書く動作と思考がシンクロして、思考の有休がなくなった世界」では、人々の実質時間が激増したのだ。
いささか逆説的なれど、
現代において膨大なテキストデータ作成が必須となるSNS成立の背景には、「タイプクイックによる文書作成の合理化・迅速化・実質時間の激増」を引き起こした「「文書革命」」がある。
SNSはもはや現代人を支えているといっても過言ではないコミュニケーションインフラである。
このSNSを可能にしたタイプクイックの登場は「革命」だ。
タイプクイック
文書革命
SNS
この3つの概念を1つの理路で貫くことが出来た。
では、ここからこの理路に考察をくわえ理論に昇華させていこう。
タイプクイック基軸言語/アルファベットの素顔
なぜタイプ打ちは日本語ではなくアルファベットによって出現し、今もアルファベットによってなされているのだろうか?
この問いに答えるためには、日本語とアルファベットの違いを吟味勘案しなければならない。
まず日本語の文字は、それ自体に意味がある「表意文字」だ。
例えば「時間」という単語。
「時間とは、時と時の間」という意味が時間という絵面に込められており、日本人はこの単語を観るだけでその意味を「共有」することができる。
一方でアルファベット文字は、それ自体に意味がない「表音文字」だ。
例えば「time」という単語の綴り。
この綴りを何百年睨もうがその意味するところは見えてこない。
「t」「i」「m」「e」
どの文字にも単体では意味はなく、それぞれが音を示す記号でしかないからだ。
このように、日本語とアルファベットには表意文字と表音文字という大きな違いがある。
一見すると、文字や単語の中に意味があり、それをただ観せるだけで文字の意味や価値観を人々に「共有させられる」日本語の方が優れているように思える。
実際、筆者はそういった趣旨の記事を何本も世に出している。
だが、何事も一長一短。
「価値観共有能力」のないアルファベットだが、優れた点がやはりあった。
それが「タイピングスピード」だ。
アルファベットはタイピングスピードで日本語や他の言語を凌駕するからこそ、タイプクイック基軸言語の座に君臨できている。
では、なぜアルファベットはタイピングスピードで他の言語を凌駕できるのであろうか?
雑念なきアルファベット
アルファベットは先述したように意味を含有しない表音文字だ。
表音文字はそれを使用するとき、「雑念」が発生しないというメリットがある。
timeと打った時。
時間と打った時。
同じニュアンスを文字にしているにも関わらず、言語によってまるで頭の状況が異なる。
timeと打った時には、その文字配列から何かを閃くことはない。
対して、
時間と打った時には、その文字配列から様々な概念が波及して頭に広がっていく。
「時」は「日」「土」「寸」に分解でき、日と土の組み合わせから「音」をイメージすることもあれば、土と寸の組み合わせから「寺」をイメージすることもあり、音と寺をさらに掛け算して……
このように、日本語を用いてフレーズを綴ると閃きが瞬き、どうしても雑念がよぎってしまうのだ。
雑念が過ぎるぶんだけ、日本語は文字を綴ることとその先にある思考スピードが遅くなる。
この論理を裏返せば、
閃きがなく雑念がよぎらないアルファベットは、「早く打つ」のに適した言語となるわけだ。
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