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「読書」 知の二刀流/1%も知らない知的錬金術

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〜12月7日 20:30

読書を習慣としている人は多い。
だがその中で本当の知性を感じさせる人は非常に少ない。
なぜ読書を習慣にしながら、知性をものに出来ないのだろうか。

「読書」

このわずか2文字の捉え方で、読者のこれからの人生がガラリと変わることとなる。


読むと書く

読書とは読むと書くの複合作業だ。

まず、「読む」ことで情報をインプットする。
然る後、「書く」ことでその情報を応用してアウトプットする。
これでようやく読書作業は完成を見るのだ。





「読む専」の問題点

ともすれば、「読む」ことが読書だと思われがちだ。
だが「読むだけ読書」は「「読」」にすぎない。
読むだけだと、情報をインプットするだけでその点検作業が疎かになってしまう。
すると、精度の低い情報がいつまでもその人の中で滞留することになる。

極論すれば人間は情報の塊だ。
極論すれば人間の「間」とは情報の質だ。
だから、精度の低い情報ばかりが滞留している人は人間として完成度が低い。
これを言い換えると「知性水準が低い」となる。
つまり、読書を読むだけだと捉え、情報インプットだけに終始して情報刷新が乏しい人からは知性を感じられないのだ。



読んで書く人々の特権/「知性」

一方で、読書を「読む」と「書く」の複合作業だと捉える人も少ないが存在する。
さしずめ「読と書の二刀流」である。

読んで得たインプット情報を、必ず書くことによってアウトプットして外部から反応をもらう。

時に厳しい意見が寄せられるが、その厳しい意見によって情報の過ちや修正点に気づくことができる。
結果、「読書二刀流」によって情報精度が向上し、人間の「間」の部分の新陳代謝が活発になる。
こうして常に新しい視点、構想力を兼ね備えた知性の人が誕生するのだ。



二刀流のひみつ/大谷翔平2つの二刀流

メジャーリーグ大谷選手の活躍は記憶にあまりに新しい。
大谷選手はピッチャーとして投げ、バッターとして打つ。

ピッチャーとしての失敗をバッターとして生かし、バッターとしての失敗をピッチャーとして生かし、ピッチャーとしての成功をバッターとして生かし、バッターとしての成功をピッチャーとして生かし……

といった情報刷新の好循環が生まれている。
大谷選手の中では、人間の「間」情報精度が凄まじいスピードで刷新されているのだ。

このように、二刀流には情報の刷新スピードを加速させる効用がある。
大谷選手が戦っているベースボールは身体競技だと捉えられがちだが、知性による部分も非常に大きい。
二刀流によるたゆまぬ人間刷新。
これが知の新陳代謝を飛躍的に活性させ、大谷選手が大活躍できる土壌となっているのだ。



読書二刀流のすゝめ

ベースボール以上に二刀流が効果的なジャンルがある。
それが読書だ。
読むと書くからなる読書だが、「書く」ことはおざなりにされている。
書くことの参加者は非常に少ないのが現状である。

本を一冊読んだだけで満足して、ソファーでインテリ気分に浸って「お・し・ま・い」。

こういう「読む専」が大多数なのが世界の読書事情である。
だから、チャンスなのだ。
書くだけで、大きな差をつけられる。
読書の「書」を意識して少し行うだけでいいのだ。

ベースボールにおける二刀流は、知性領域を弛まぬ情報刷新によって研ぎ澄ませた後、身体領域でその情報を実践にうつしさらに研ぎ澄ます。
つまり「投げる」と「打つ」以外に、知性領域と身体領域を横断した情報刷新の二刀流すらも求められる。
大谷選手は実のところ2つの二刀流を行っていたのだ。

こうやって言語化してみるとすごい☺️
書くことって本当に凄い。
あらためて大谷翔平はヤバかった。

さて、閑話休題。

ベースボールは知性領域と身体領域を横断した二刀流が必要となる。
他方において、読書は基本的に知性領域だけで二刀流が可能である。
読むと書くで情報を幾度となく往復させていく間に、情報精度が向上し人間の「間」情報精度の質が上がる。
結果、本格知性派の一丁上がりとなる訳だ。
これならば、大谷翔平でなくとも二刀流が可能なはずだ。



なぜ、老人の読書は未熟なのか?

老人は長く生きている。
だがなぜか知性を感じさせない老人が多い。
人間の中に奥深さがなく、かといって進取の気概もない。
そういった老人も多いのが現実だ。


なぜだろうか?


その原因は「本物の読書」をまっとうにしてこなかったためだ。
20世紀においてはインターネットがなかった。
インターネットでアウトプットすることができなかったのだ。
だから、読書がどうしても「読む」に偏重してきた。
したがって20世紀の人間の「間」情報精度は頭打ちを余儀なくされていたのだ。

アナログ情報媒体の性質上、どうしても人間刷新スピードに制約が生まれていたのだ。
だから、現在の若者から見ると、老人とその読書はどうしても未熟に映ってしまう。
しかし、そこにはやむを得ないテクノロジー制約があることをわかって貰いたい😉



史上最強の二刀流//「日本語読書」

だが、21世紀を担う若者は違う。
テクノロジーの制約による片手落ち読書はもはや「未熟人間」の言い訳にはならない。
インターネットが常に傍にあり、読むも書くも片手間で同時並行にて行える利便もある。
だから読書の二刀流によって、情報の自己刷新をおこない人間に磨きをかけることは容易である。

日本の若者が読書によって人間の質を高めることは、日本という国家を強く強く守ることに繋がる。
なぜなら、読書という概念を精度高くしっかりと捉えられるのは日本人だけだからだ。


思い出して欲しい。
この議論の出発点を。

読書を「読む」と「書く」に分けることから、この議論は出発している。
これは言語の中に漢字とひらがなが混在している「日本語」だからこそできた離れ技だ。

つまり、日本語を操る日本人だけが本当の読書とそこにある本当の効用を知ることができる。

「書く」がインターネットによって一般に解放された21世紀。
ここで日本人は外国人に差をつけることができるのだ。



筆者は1時間前つゆほども思っていなかった結論に辿り着いていた。
書くことで、読むだけでは到底辿り着けない領域にやってきていた。


書くことは「人の間」想像力を遠くに連れて行ってくれる。


このように、
「書いてみる」という行為は偉大なのだ。





2024年11月吉日
肌寒く、静かに晴れた朝
大阪淀屋橋カフェレクセルにおいて文をしたためる。

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