共感性羞恥心【きまぐれエッセイ】
あたしは「共感性羞恥心」という言葉を聞くと、思わず顔が赤くなる。だって、他人の失敗や恥ずかしい出来事に対して、まるで自分がその場にいるかのように恥ずかしく感じるんだから、まるで変なエネルギーをもらったみたいに。
たとえば、友人が大勢の前でスピーチをしていて、突然どもってしまう場面を想像してみてほしい。あたしはその瞬間、自分の足元が崩れるような感覚に襲われる。心の中で「がんばれ!」と叫びつつも、その場から逃げ出したくなるような、そんな複雑な感情。そう、それが共感性羞恥心ってやつだ。
この現象、実はかなり興味深いものなんだよ。なぜなら、それは人間が持つ強力な共感能力の一部だから。共感することで、他人の感情や経験を自分のものとして感じることができる。これが、社会的な絆を深めたり、他人に対する理解を深めたりする手助けになるんだ。でも、同時にそれが災いして、恥ずかしい場面に巻き込まれることもあるわけだ。
あたしは、子供の頃からこの共感性羞恥心に悩まされてきた。学校の発表会で友達がセリフを忘れて立ち尽くしてしまったとき、あたしは心臓がバクバクして冷や汗が出た。家に帰ると、その場面が頭から離れなくて、何度もその子の代わりに完璧にセリフを言い直してみたりした。どうやっても、その恥ずかしさは拭えなかったんだ。
大人になってからも、この感覚は変わらない。映画やテレビ番組で登場人物が恥ずかしい思いをする場面を見ると、あたしはリモコンを握りしめて目を逸らす。見続けることができないんだよ。まるでその場にいるかのようなリアルさで感じてしまうから。
それでも、この共感性羞恥心が完全に悪いものだとは思わない。だって、それはあたしが他人の感情に対して敏感であり、思いやりがある証拠でもあるから。友人や家族が困っているとき、あたしはすぐに気づいて手を差し伸べることができる。共感性羞恥心は、そんな優しさの裏返しなんだと思う。
だから、もしあたしがあなたの前で赤面しているのを見かけたら、それはあたしがあなたの気持ちに深く共感している証拠。恥ずかしいけど、それもあたしの一部。共感性羞恥心を持つことで、人とのつながりが深まるなら、それも悪くないんじゃないかと思うんだ。