日本ファルコムを訪れる理由がなくなってしまった
日本ファルコムの創業者で取締役会長の加藤正幸氏が12月15日に逝去された、と同社ホームページで17日に伝えられた。
1980年代後半雑誌付録ソノシートに『イース』と『ソーサリアン』収録(実際の収録はアレンジバージョン)の許諾を得るために日本ファルコムを訪れた。同社は立川駅の南口にあった。
加藤社長(当時)と許諾について話し終わったあとで、個人的に『イース』と『ソーサリアン』が気に入っていたのでムック(雑誌の別冊や増刊誌のようなもの)刊行の提案をした。それが形になったのが、1990年に発売された『FALCOM MAGAZINE』だ。
その後、日本ファルコムのオフィシャルマガジン月刊『ファルコムマガジン』がリリースされる。
うちの『ファルコムマガジン』はあなたが名付け親だ、と加藤さんに何度か言われたことがある。編集という仕事からすでに離れていたので悪い気はしなかった。
日本ファルコムは、その後立川駅の北口に移転。取材や相談事で何度も新社屋を訪問した。
あるとき社内数カ所に保管されている段ボール箱に、昔のゲームや資料など保存されていると思うが、何が入っているのかわからない、ということが話に出た。
それで、そのころ会長になっていた加藤さんに収納品リストを作成しましょうと余計な提案をした。
ゲームに詳しいライターたち数名と所蔵品リストを作った。
段ボールに収納されていたのは、昔のPCゲームソフトが大半だった。販促品も多かった。
同社が入っているビルの貸会議室を借りてもらい、パッケージごとに写真を撮りタイトルを確認しながら作業をしたので、思ったより時間がかかった。段ボール箱の搬入など社員の皆さんには迷惑をかけた。
その時の写真には以下のようなゲームがあった。どれも昔の日本ファルコムのタイトルである。
12月17日加藤会長逝去のニュースが情報サイトに掲載され、多くのゲーム業界関係者が追悼を述べていた。
その中で新聞社のニュース記事に、新海誠氏「日本ファルコム創業者の加藤正幸氏を追悼」という見出しで、僕にとっては唯一の師と呼べる人物が、加藤正幸会長でした、とあった。
本人が追悼のコメントをしていたので、日本ファルコムと新海さんのことにも触れておきたい。
コロナ禍の前、いつものように加藤会長と業界の昔話をしていたら、新海さんが同社のグラフィックデザイナーとして入社していたと話してくれた。
本人が嫌がるかもしれないのでこれまで話さなかったが、ということだった。話が一段落したところで新海さんが制作したグラフィックを見せてもらった。新海作品で見るような背景の描き方と色彩だった。
1980年代から現在に至るまで、ゲームとビジネスの両方を理解してバランスのいい経営を続けていたゲーム会社の創業者が1人いなくなった。業界の貴重な先達がいなくなってしまった。
長い間よく話し相手になってもらったものだと思う。それにしても昔のゲーム業界の話は毎回楽しかった。だが、日本ファルコムを訪れる理由がなくなってしまった。40年近く通った立川に行くことはもうないだろう。そう思うと寂しい。