読書は「すべて」になりうるか。
川口市出身の自称読書家 川口竜也です!
私事ですが、「東京読書倶楽部」の読書会を開催している理由の一つに、「自分が知らない世界」を知るのが楽しいから、がある。
ずっと一人で本を読んでいると、どうしても自分好みの本を選びがちになってしまうというのは、読書会に来る方の大半が抱えている悩みである。
読む本の系統が似通ってしまったため、違うジャンルの本を読みたい、すなわち違う世界を知りたいと思うからこそ、読書会に参加する(特に初参加の方はその傾向が強い)。
本を紐解けば、小説や文学だけでなく、哲学や歴史、政治経済、宗教、性に関する問題、仕事、人生、その他諸々の様々なものを取り扱っている。
まさに、この世界のすべてを取り扱っているとも思えてしまう。
そんな中、ふと会社の図書スペースにて面陳列されていた、雑貨屋「FALL」の店主 三品輝起さんの「波打ちぎわの物を探しに」晶文社が目に止まり、パラパラと紐解いていた。
その中に、「本はすべてか」という見出しとともに、アリ・スミス(『波』2022年8月号「表紙の言葉」木原善彦、新潮社)の一節が引用された。
著者がインスタグラムの自動レコメンドされた一節なのだが、それに対して、「ほんとう?」というコメントが載っていたらしい。
「本とはすべてだ」に対して、「本当に?」という問いを立てる。
私自身、どこかで本を神聖化しすぎている節があった。
自分が知らない世界は、本の中にある。本を読めばあらゆる世界に、いとも簡単に足を踏み入れることができると。
読書を「旅」に例える方は多い(私も含めて)。物理的には移動することはなくとも、本を紐解けばあらゆる世界を渡り歩けると。
だけど、「本の中にはあらゆる可能性がある」点は分かるけれども、それが「すべて」かと問われたら、確かに、首をかしげなくもない。
ふと思い出したのが、だいぶ前に知り合いに勧められた観た映画「グッド・ウィル・ハンティング」。
天才的な頭脳を持つウィルだが、過去のトラウマから「自分のこと」が話せなかった。
会話となると、書籍に書いてあることから引用するばかりのウィルに対して、心理学者のショーンがこう投げかける。
本を紐解けば、ありとあらゆる言葉や世界が広がっている。
村上春樹さんも、「本を読まないよりは本を読む人生の方がずっと良いです。」と述べている(新潮社「村上さんのところ」より)。
しかし、それがすべてになってしまうのは、目の前に広がる世界をおざなりにしてしまうことにも、なりかねない。
いくら旅行記を読んだとしても、自分で旅をする方が、ずっと良い。自分の目で世界を見ることでしか、得られないものはある。
そのときには、嫌な経験もするかもしれない。辛い思いをするかもしれない。
それでも、本がすべてになるのは、あまりにも惜しい。そう思うんだ。
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