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本とコンプレックスと消費社会

本というのはコンプレックスを隠すための道具となる。


特に僕みたいな腕力が大してない、顔もかっこよくない、言葉をこねくり回すことが好きな人間は、知識が結晶化された「本」というものが好きだ。

本を読むって言うと、けんかが弱くても、なんか頭良い人と思ってくれるし、どこか知的でクール、お前らバカとは違うんだぜ、えっへん^^となる


まあ、この思想は危険なのですぐ悔い改めたほうが良い。本だけを読んでても僕らは世界を知ることができない(すぐ梯子を外す)

言語情報は密度が高いけれど、1人で読む読書というのは、脳で勝手に変換が起こり、いかようにも自分の都合の良い解釈ができてしまうので世界の知識収集にどうしても偏りが起きてしまう。

あと、自分が読みたいジャンルの本を自分で選べてしまう、というのもある。ランダムにどれにしようかな、で選んだ本を読む、誰かからおすすめを借りる(自分では選ばない本を他者に選択してもらう)というのはいいかもしれない。

まあ、最近のぼくは本を読まなくても普通に誰かとおしゃべりするだけでいいなあと思ってるんだけど、皆なかなか忙しくて誰かと喋る時間すらなかなか取れないらしい。変な世の中だ。

心の声


さっきnoteでとても良い文章を読んだので、本の良さを語った後、好き勝手な話でもしようかなと思う。


ちなみに僕は持ち運びに便利だろうなーと思いつつ、買うのはやはり電子書籍ではなく「本」になってしまう。

電子書籍に懐疑的な人間である、ということを伝えておく。(まぁ、カッコつけて「本は紙派」を標榜してるだけかもしれない笑)


本の良さ

本(紙の本)と言うのはまぁ長持ちで、電気も食わず、現実世界に知識(情報の高密度結晶)をそこら辺にほっぽいておいてもいい。

そこらへんにほっぽりだし症の僕は電子書籍読むための板をきっと踏んで壊す。その点、本は踏んでも壊れない。(本を踏むな)

はい、本優秀。良い子良い子だね~😊

本を褒めるだらしない大人

HDDやフラッシュメモリなんてわざわざ電気を上げないといけないし、ちゃんと世話をしないと10年ちょいでダメになるから交換しないといけないし(僕らが見えないところでエンジニアはめんどくさいメンテナンスをしてます。)情報ごときが人間様の仕事を増やさないでほしい。(しかもムダな情報、人に害をなす情報もまあ膨大な量あるのに、それのために人間は自ら仕事を増やし続けてるわけで、、うっ、眩暈が、、)

機械科の工学部出身で技術屋の僕が言うのはちょっとウケるかなと思って色んなところで言ってるんだけど、人間はなんでもかんでも精密機械にすれば便利になるとは限らないし、機械は弱いし脆いし実は結構クソ雑魚。手がかかるベイビーだ。(特に最近の機械は)
ひと昔前、ウン十年使える剛健家電製品や何しても壊れないゲーム機作ってた国はいったいどこへやら。

心の声

モニターで文章を読むのがめんどくさい僕は論文もわざわざ印刷して読んでたし、まだ実家にクソ重たい論文のリングファイルが何冊もあるけど、モニターで論文って読みにくくない?(印刷し放題の研究室で良かった)

知識を運ぶにはやはり紙一択。皆で記念にするなら石ってのもいい。皆で日本のどこかにオベリスクを建てたい。

一年後くらいには価値が下がってBOOK・OFFで実質タダみたいになるところもとても良い。人に貸せるのも良い。

電子書籍なんて知識を独占しようとする傲慢な人間たちに負けず、大和男児はBOOK・OFFか図書館で紙の本を読めばいい(思想がでてきたな..?w)


僕らはなんで本を買うんだろう。

情報ならたくさん手持ちの板でいくらでも手に入れられるし、調べれば、類似情報をいくらでも摂取できる。とゆうか図書館に行けば、所有せずともほしい情報はきっと手に入る。

どうやら”所有する”ということに価値を感じていそうだ。

自分のモノにして何かに使うんだろうな、きっと。


インスタグラムでこの本読みました!

最近インスタグラムでこの本読みました!てあげる行為がある。

この行動はかなり世相を表しているような気がするんだけど、この行為は僕/私はこうした本を読む人間です、この本を読んで知識を得ました!とインターネットの向こうの誰かに伝えようとしているわけだ。

これ、どういう気持ち?(想像はできる意地悪質問)

そのもらったいいねを頭の中で何に変換している?

(頭)いいね?(かっこ)いいね?(すご)いーね?


人間関係の薄まりとアピール合戦

こうした行為が生まれる背景に名前だけ知っている人間の数が増えすぎてしまったことがある。

よくあるだろう、友人関係は、広く浅くか、狭く深く、みたいな変な論争。

現在僕らの人間関係は、ひと昔前から見て(100年前くらいから見たら)全人類、超広く超浅くを半ば強制的に選ばされている。

お互いが誰かの一番になることはわりと不可能、奇跡に近い。

知り合いが多い(分母が大きい)ということは当然一人あたりの関係構築に使える時間は減る。当然、交遊にかけられる時間はどう頑張ろうが一日は24時間しかないし、忙しいと減りがちだし、増やすのはなかなか難しい。だのに、つながれる人間は、まあ数の多いこと、、、。そりゃあ当然人間関係は薄ーーーーーーーーくなる。

こーゆーこと。

知る人が増えれば増えるほど、人間関係はどんどん薄ーーーくなっていく。

1人当たりの対話が減り、互いを知る時間も少なく、関係性も希薄になって、自分をアピールしなければわかってもらえない!アイデンティティやキャラクターをアピールしないといけないと思わせてしまう強迫観念を生んでしまっているような気がする。

案外、そんなことをしなくても近くにいる人々には伝わっているからそんなことはしなくてもいいんだけれど、インターネットだけを眺めていると、皆がアピール合戦をしていることもあって、自分もどこかの誰かにアピールをしなきゃいけないのか?と錯覚をしてしまうのでこんなことになってるんだと思う。

だから、ぼくらはちゃんと関係を深めたい人を選び、自分の居心地の良いコミュニティを選び、取捨選択の勇気を持たないと、すぐ孤独になる。すべてを手に入れようとして、関わる人も究めたいものも増やし続け、かけられる時間を薄くし続ければ、結局ほしいものは手に入らないし、休日すら忙しくて常に疲れて休む暇がない。しかも、わざわざ、その道のプロとかと比べて勝手に落ち込む。

いいねを餌に人々を競争させる、消費大国のエリートたちが開発した承認欲求マッチポンプインターネットをあまり信用しない方が良い。

あれこれ手を出すけど、ほしいものが手に入らない、欠乏感を求めて、さらに新しいことを!というのは消費社会にとっては最適な消費者なので、企業や資本家にとってはありがたいことかもしれないけど、僕は誰かの思惑通りになるというのが悔しいガキで、そうゆうやつらに中指を立ててバーカバーカて言いながら生きていたい。

そういう意味で、いつでも暇な友人というのは、実は僕らの忙しい人生でかなりお助けキャラなんじゃないかなと思っている。僕は自分のことを暇人と高らかに宣言していて、皆が会いたいときにすぐ会える人間でいたい。話したいことはなんでも話してほしいし、特に話したいこともなければ、僕の雑談につきあってほしい。皆が忙しくなろうとしている世界で、暇なやつがありがたがられるというのも面白い。

心の声


消費世界に愛はあるのか

皆はそんなことになってないとは思うけど、これがひどくなると、自分が稼げない額を魔法のカードで買いたくなるし、意味不明な利子でお金を借りて消費しようとしてしまう。

テレビによく出ている人気の芸人が消費者金融のCMやってる国なんだ。

そこに愛はあるんか…??

ないだろ

最近、YoutubeでそうゆうCMが流れるのは僕が若い世代だからだろうか?(日本の若い人たちは、おそらく皆が思ってる以上に貯金がないその日暮らし。)

お金を借りる気はさらさらないし、そもそも借りなくても十分生活できているのだけど。

そうしたCMが日本中のお金のない若い人たちの手元で流れていると思うとちょっとゾッとしないか?


コンプレックスと誇り

ある意味、読んだ本を高らかに自慢するというのはそれまで自分が知らなかった、読んだことなかったという無知の証明であり、この本で気づきを得ました!なんて、僕は己の無知を露呈することで、人様に高らかに表明することじゃないと個人的に思う。特に僕の好きな千葉高生たちにはあまりしてほしくない(笑)

こういうのは、なんでもない会話をしているときにさらっと難しそうな本の名前、作家名を出してこそ、知性が見えてカッコいい(これは完全に僕の美学なのだけれども笑)

もっとね、僕は、僕が好きな千葉高生に、作家だろうと大物政治家だろうと、有名な社長だろうと、なめ腐って、これ読んだけど、クソ駄文だったわ!あー嫌いだわー!俺の方がもっと良いもん書けるわ~!!!ww

つって、もっと良い文章を書いたり、自分の論を展開したり、おじいちゃんたちばかりの錆びついた世界を看破していってほしい。


他人の文章を読んで、”気づき”を得てしまったなら、悔しいと思ってほしいんだ。

物理の公式、数学の定理を見て、証明を聞いて、あー、前時代に生まれて僕が思いつきたかったな、って思ってほしい。

君たちは幼少期コペル君たちではなかったのか。千葉高の恩師たちは本気でそれを期待して僕らと対峙してくれていた。

君たちなら、それくらい考える時間を与えられれば、誰かと会話し、世界をうろうろし、見聞きすれば、気づける。この世界にもっと良いものを創り出せる。

最近の”気づき”って言葉の使われ方、きら――いw

バカなお前たちに気づかせてやるよ?みたいにバカにされてる感じがする。

”気づき”とかいう無料同然のよくわからんものを商品にすんな、なめんじゃねぇぞw(#^ω^)👊

心の声

知識を愛する者たちなら、無批判全肯定世界には抗わないといけない。好きと嫌いは表裏一体の概念なのだから、好きなものがあれば嫌いなものがある。それを語るのは全然良い。とゆうかどんどんした方が良い。ぼくはそうゆうのをもっと見たい。

ただ、他人の知識や、威光を、自分の知識や力と錯覚して自慢するなんて愚者の行為は恥ずかしいからあまりしてほしくない。

それは自分の無知のコンプレックスを隠すために他人が書いた分厚い本を利用しているに過ぎない。(自戒)

無知のコンプレックスを持つというのは、まさに「無知の知」なので、一般的な人たちよりもソクラテスみがあるのでポテンシャルが高い。実はすごく良いことであるというのは補足。僕が尊敬できる技術者や研究者は例外なく無知コンプレックスを持っている。

無知コンプレックスは良いこと

そんなのは、高名な先生が書いている論文を無批判に通す研究者やセカンドオーサーで高名な先生の名前をくっつける研究者と同じに成り下がる。

どんな論文であろうと批判的に読んで、誰が書いたものでも自分の信念をもって知識に向き合わないといけないし、人の名前を借りて論文を出すに近しいダサい真似はしてほしくない。


誇りを失わず、知識を愛していこう。(自戒)

あとがき

いやー、自分(特に過去の)をぐさぐさ刺すものを書いたなー、今回は。


自傷行為かこれはwww?


わはは


僕なりの良い文(言い分)をかけた気がする。


おあとがよろしいようで。


ではでは✋

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