悩みや葛藤と生きる
*書いたのはだいぶ前です
このnoteは、僕自身が思い悩んだときに、どおすればいいか、今年一年の主な悩みから記しておきたいと思ったものです。
僕は精神が落ちている時、不安に毎朝つぶされそうになってました。鬱になりがちです。
カンボジアから帰った後から、基本的に今年は大体ずっっとしんどかった。暇やのに、虚無感と不安感と焦燥感に追われていました。
大失恋もし💔、カンボジア充実とのギャップ、ワンコの死を実感、就活も含め生き方や過去や未来の自分に絶望、、、もうポジティブな要素が思いつきませんでした。
僕は異常に他人の目や評価を気にし、また、将来を不安視し、悩んでいたこと。自己否定とプレッシャーを自分で与えて、でも何もできない自分に打ちひしがれることを繰り返してきた。
これは昔からで、いじられっ子でもあり、他人の目を気にするし承認を求めるし、それで持って自己肯定感が低いからなのかな。
自分という存在が何なのか、何者になりたいのか、わからないのが嫌で哀しくて苦しかった。
将来が不安になりがちで、
自分には価値ないと思っちゃいます。
今の選択に自信を持てなくて。
失敗して孤独になるんじゃないかと勝手に思い込んで。
今の生きてる自分に価値を見出せなくて。
こんな贅沢な悩みをしてる自分にもほんまに嫌気がさす。
生活の上で何かしなければと焦燥感に駆られて。
余裕がない。余白もない。作ろうともできない。生き急いでる。
SNSですごそうな人たちの勝手なこうあるべき価値観呟きを自分と比較して。
ひどい時は身近な人たちも含めSNSを全く見たくなくなってたり。
何もできない、スキル実績なしな自分に怯え。
みんなそれぞれ学んでいる。経験している。僕も学ばなければ。でも何学べばいいのか、学ばなければいけないと思い込みが多すぎて取りかかれない。やらなければいけないことが多い。
何もやりたくない。
何も楽しくない。
そもそも何したいのかもわかんない。
どう生きていきたいのかが全く見えなくて。
立派な自己実現を描かなければいけないなんて考えてたり。
ひたすら入ってくる他人の情報。
誰と比べてるかもわからない、自分は優劣の劣の劣だと、勝手に思い込むし、世界は広くていろんな人がいることを知ってるのに、狭めてしまう。朝。
社会問題について考えたら知らないことが辛かったりする。
その違和感に伴うような生き方、生活をできないできてない自分が情けないなと思い込んだり。
完璧、こだわり思考が働いて苦しい。頭の中は自分で整理してないと気が済まない。
マイナス刺激物を見ると何かしないととか、できない自分を責めしんどかったり。知らないことに虚無感を覚えたり。
正義感がつらい。
当たり前のことを無知すぎて辛かったり。
自然や動物に申し訳なくなるときがあって。
身の回りことに、なんで?や、裏側を知れてない自分が情けなくて。
それに甘えて消費社会の上辺で生きてきた自分が嫌で。
足りない心のざわつきが日常生活に支障をきたす。
これからもこんな弱いままの自分になるんではないか。誰も批判してないのに、自分で批判してて。
世の中に貢献していない無価値な自分。
頑張っている人がたくさんいるのに、俺はなにしてんだ?
何者でもない自分。
頭でっかちになってるとき。
内定も取れない。取りたいと思えないけど、義務感でやってて。そんな自分が恥ずかしいしプライドが邪魔してて、
何も見えなくて。
一生家で。オンラインで。孤独で。
新卒で何もできやしない自分ではやりたいことなんてできないし、生きていけないとか思ってたり。
それで海外に行ったところでどおするねんと孤独になりそうで。
家族からの心配があり、
家族の中での心配事があり。
兄としてしっかりしなければと。
経済的自立に怯え。
競争原理に怯え。
本気になったことない自分。
やりたいことを見つけなければいけないと思ってたり。
「こうあるべき」「しなければいけない」という雑音に惑わされ。
やりたいことってなんなんだよ。
挑戦しなければいけない。
何かしなければ、でも何も思いつかない。
自分に嘘ついて生きたくないけど、理想とはかけ離れてる現状に、苦しい。
そんなことを考えてたら、一日中部屋に篭ってグルグル考えてて。
コロナ疑惑の時はお坊さんの動画を一日中見てたり。
僕の場合、昔から家の中部屋の中でじっとすることは、心に負担があったことに気づいた。動いてないと、心が落ち着かなくなるのである。ざわつくのである。
それは心療内科によると、ADHD傾向、こだわり気質、0百思考という性質をもっている自分も影響してて、鬱が併発しやすいみたいで、辛かったです。まだ他にもあるやろな。
いっぱい自分の発達から知らないこと、知りたくないことも知った。
でも、なんか安心した。
そのときはもう欲なんてない。幸せの欠片もありません。
遊びも楽しくない。遊びたいとも思わない。
何するのも億劫で身体が重かった。
まじでメンヘラ。
ただ時間と劣等感に追われる感じ。
僕の場合は、対人関係で悩んでたわけではないですが、
見えない不安であることは確か。
承認を得れてない。
でも、そこまで悩んだら、そんな不安に思う自分は仕方がない、そんな弱い自分だ、と
自分で自分を認めてあげて、
ちょっと忘れてみて、動いてみました。
好きな人たちに会いに。自然豊かなところに。おもしろうな場所に。
昔からフットワークは軽いので。
すると、悩んでいたことがちっぽけに思えたりしました。
心地よかった。
世界はまず広くて、自分は一部でしかない。地球規模で考えると、米粒みたいな自分は、別になにしてたっていいってこと。
75億分の1でしかないということ。
その人間社会から外れたらほんんの一部。
そんなことで悩む前に、楽しもーよ。自由だ!
自分の感情を大切にしようと。
自分という存在を受け入れて、丸ごと愛してあげようと。
違ってていいんだよと。誰になろうとしてんの?
そして、温かさに触れたり、人にお世話になったり、活動してると、なんだか人間は人と人との間で生きていて、それだけで幸せになれたり。1人で生きているわけではないことはわかっていたけど、改めて真に感じれたり。
誰かと時間を共有するだけで、自分にとって大切なことを感じれたり。
人との何気ない他愛のない会話が愛おしかったり。
面白い人や世界に出逢えたり。
ワクワクする話をするだけで楽しくて。
悩みを打ち明けたりすることで楽になったり。
肯定してくれる人がいて、肯定される環境だった。
それで帰ったら、日常の幸せを思い出す。
幸せのためのいいもの持ってるよ。既に。
健康に精一杯生きてるだけで丸儲けよ。
体が不自由なく動くだけ奇跡。
家族、友達、できた素敵な縁がある。ちゃんと愛して見守ってくれる人がいる。
不幸感情なのは、感謝のの感情が抱くことが少ないからなんやろうな。
自然や動物を見てると、シンプルに生きてて、精一杯生きてますしね。
人間だけ、余計なことを求めたり、余計なこと持ったり、ややこしく考えちゃう。
なんだっていい。
生きるのに意味や理由なんて作ろうとしなくていい。
あとで作られるから心配しなくていいんだ。
せっかく奇跡的に生きてるんやから。
変に真面目になりすぎてる。元々そんなタイプじゃないんだから。苦しいだけだ。
百ゼロ思考で完全体になろうとする。しんどいしんどい。
そう思えて、じゃあ自分はどうしたくて、どう生きたいのか。心躍るのはなんなのか。心地よさはなんなのか。心の安穏はなんなのか。それだけ考えればいいし、計算は手放せばいいなって。
しなければいけないなんてない。
社会に依存しなくたっていい。
今の環境で、今の仕事で、今の人間関係、今の生き方で、まずは幸せの一欠片があるなら、それを認識するだけでも幸せになれる。
目の前の幸せを忘れちゃいけないし、迷ったら立ち返りたい。
自分を大きく見せなくていい。
意外と身近なところに自分の幸せやしたいことは隠されてるかもしれない。
悩みや不安は、足りないことばっかり考えたり、周りと比較して自分の嫌なところ、自分の思うようにいってないことばかりに意識を向けるから。
悩みの根本は、他との「比較」
世の中との、偉人との、憧れとの、他人との、足りない自分との、将来の自分との、社会との、見えない誰かとの。
何者かにならなければいけない。
何かになろうとする。自分を無理に変えようとする。
ありのままの自分が最高かもしれないのに。
余計な檻、枠。
自由だ。
人や世間は対して自分のことを意外と気にしていない。
自分がどうしたいか。シンプル。
ありのままの自分が、したいと「思ってしまった」か。
家で1人でグルグル考えても僕は答えは出せない。
何か動いてみる。散歩でもいい。
閉じこもっていても、頭でしか考えられない。
心の傾きや、言葉にできない気持ちがあるはずで、その腹底の正直な声に気づけるように、心地よさに耳を傾けてあげる。そしたら、楽になること多かった。
自分が行動したことは自分へのメッセージとしても、返ってくるのではないか。
意外と直感で行動したことは、理にかなっている。合理的に考えても自分にとって合ってるかなんてアホやからわからない。
もちろん、経験から思考することも大事。今までの道標だから。でもそれに縛られるのはもったいない。
心の安定のために、一歩踏み出す勇気。
そこからプラスの循環が生まれてく。
僕の場合それが、足を動かし、人の琴線に触れることだった。
というのが、今現時点で僕がたどり着いた、苦しんだときの途中解答です。
あくまで僕の場合、ですけどね。
今はというと、もうこんな自分サイコーだと思えてます。これからがワクワクです。一つ価値観の壁の乗り越えができました。
でも、朝にネガティヴや不安が襲ってきて、脳が布団から外の世界で生きることを拒む時がある。
たぶん大丈夫。葛藤をするということは、その分成長し、異色となってる証拠。
葛藤してない人より深くなるはず。
必要な時間だから、人間万事塞翁が馬を信じて。
もっとテキトーに、自分の欲に従って生きればいい。以前みたいに。子どもの時みたいに。
これからいろんな出来事が人生の中であり、悲しみ、怒り、悩みや不安、葛藤がいろんな形で出てくるだろう。
そんな時は、負わされず、自分のためにゆっくり必死に悩んだらいい。そして、ずっと悩んでてもしんどいから、また歩み出す。
time will tell by宇多田ヒカル