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【連載8】戦後の葦津 珍彦/当時の国内情勢・史料編(2/2)[停戦協定文書調印式の話]
【写真】ミズーリ艦上・停戦協定文書調印式にて署名する
日本政府代表者
(PHPエディターズ・グループ、2019年5月)より転載
【5月21日 加筆しました】
ごきげんよう。
この連載は、戦後より神道ジャーナリスト・神道防衛者として活躍した、
思想家・葦津 珍彦氏について卒論に基づいたお話。今は終戦直後の活動ついてのお話です。
はじめに
昭和20(1945)年8月15日、日本国が「ポツダム宣言」を受諾する旨を宣言したことにより、兵器戦は終結・停戦する方向へと向かいますが、
8月8日に突然宣戦布告通告をして参戦してきたソヴィエト軍との戦闘は続きました。
【参照資料】
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昭和20(1945)年8月10日付記事
以下、上記事一部内容を抜粋
ソ聯の宣戦布告文 (読み下し)
ヒットラードイツの敗北ならびに降伏の後、日本は依然として戦争の継続を主張する唯一の大国となった。日本武装兵力の無条件降伏を要求した
今年7月26日の三国すなわちアメリカ合衆国、英国ならびに支那の要求は、日本の拒否するところとなった
従って、極東戦争に対する調停に関するソヴィエト連邦に宛てられた
日本政府の提案は一切の基礎を失った。
調停に関する日本の降伏拒否を考慮し、連合国はソヴィエト政府に対して日本の侵略に対する戦争に参加し、戦争終結の時期を短縮し、犠牲の数を少なくし、全面的平和をできる限り速やかに克復することを促進するよう提案した
ソヴィエト政府は連合国に対する自国の義務に従い、
連合国の提案を受諾し、本年7月26日の連合各国の宣言に参加した
ソヴィエト政府においては自国の政府の右進路が平和を促進し、各国民を今後新たな犠牲と苦難とから救い、日本国民をしてドイツが無条件降伏を拒否した後、被った危険と破壊を避けしめ得る唯一の方途と思惟する
以上に鑑み、ソヴィエト政府は明日
すなわち8月9日よりソヴィエト連邦が日本と戦争状態に入る旨 宣言する
1945年8月8日
1面記事より抜粋
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昭和20(1945)年8月23日付記事
そして9月5日までの間に千島列島は占領されます。
私が元陸上自衛官の方から伺ったお話によると、ソヴィエト軍は北海道まで侵攻してきたので、武装解除状態の日本軍は奮闘して防衛したと聞いております。
この時のお話についてはこちらをご参照ください。
①「ソ連の占拠」
②「終戦特集~太平洋戦争の歴史~ソ連が対日参戦」
②『時事ドットコムニュース』ウェブサイト
【参照資料】
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昭和20(1945)年9月4日付記事
その後、満州国に居りました 57万人程の日本人がソヴィエト軍に捕虜として拉致されたのち (通称:シベリア抑留)
ソヴィエトの各地に送られて、インフラ整備・各施設建物を造るなどの強制労働をさせられまして、厳しい環境下でまともな食事も与えられず約5万5千人が亡くなり、長い人では10年程働かされました。
知人から聞いた話によると、親戚にシベリアから帰還された方がいらして、その方はいつもお寿司を三貫しか召し上がらず、もっと食べるように勧めても「おなか一杯だから」と申されておられた。とのことでした…
戦闘状態は、昭和31(1956)年10月19日に「日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との共同宣言」の署名がなされ、同年12月12日に発布されて終結するまで続きます。
【資料】
「日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との共同宣言」
「わが外交の近況」(昭和32年9月)「資料」より
今現在においても、日本の領空ギリギリまでロシア機が飛んでくる事例は多発しておりまして、そのつど自衛隊機はスクランブル発進しており、また、ロシア海軍艦艇による威圧的航行も行われております。
ロシアは2月以降、ウクライナ周辺における軍の動きと呼応する形で、オホーツク海等での演習等を通じ、東西に渡って活動し得る能力を誇示。今般の領空侵犯を含め、現下の情勢下において、我が国周辺海空域におけるロシアの活動の活発化は懸念すべきものであり、警戒監視に万全を期してまいります。 pic.twitter.com/QddrL47N1i
— 防衛省・自衛隊 (@ModJapan_jp) March 2, 2022
昨日、日本海及びオホーツク海において、領空侵犯のおそれがあったため、空自北部航空方面隊の戦闘機が緊急発進し、対応しました。防衛省・自衛隊は、引き続き、我が国の領域と国民の皆様の平和な暮らしを守るため、24時間365日、対応に万全を期していきます。※写真はイメージ pic.twitter.com/vGCghJGE5x
— 防衛省統合幕僚監部 (@jointstaffpa) March 18, 2022
3月14日、ロシア海軍艦艇計7隻が宗谷海峡・津軽海峡を航行しました。ウクライナ侵略と呼応する形で、2月以降にオホーツク海等で行われてきた特異な大規模海上演習に参加した艦艇等と考えられます。このような情勢下における、我が国周辺海空域におけるロシアの活動の活発化は懸念すべきものです。 pic.twitter.com/wTbyfLc00N
— 防衛省・自衛隊 (@ModJapan_jp) March 15, 2022
また、「ブルームバーグニュース」によると、
ロシア連邦・メドベージェフ元大統領(現在ロシア安全保障会議 副議長) は、自身の「テレグラム」チャンネルにて、北方領土問題に関する発言をされ「交渉は常に儀式的な性質を帯びていた」と主張したと報道されています。
【参照記事】
「北方領土巡る対日協議、常に『単なる儀式』-メドベージェフ氏」
令和4(2022)年3月22日付記事より
テレグラムとは、ロシア発のメッセンジャーアプリでLINEのようなチャットツール。
北方領土巡る対日協議、常に「単なる儀式」だった-メドベージェフ氏 https://t.co/Ml1mqoZ7xz
— ブルームバーグニュース (@BloombergJapan) March 22, 2022
さて、日本国内はこれより外国に占領されるという日本史上最大の危機を迎える事となり、国内の情勢は日々目まぐるしく変わっていきます。
この時に国内で起こった事の流れをある程度把握しておく必要があると思うので、本編では触れられなかったお話もしておきたく、
玉音放送がなされた直後の国内の様子について、参考資料の抜粋(抜き書き)を中心とするお話をいたします。
(前後編に分けました)
【前編】
米軍による日本占領 開始の話
昭和20(1945)年8月28日
アメリカ軍先遣(せんけん)部隊150名が、
輸送機により沖縄基地から神奈川県厚木飛行場に到着。
この先遣部隊が到着する以前にも、
皇族方のおはたらきによって、終戦の徹底がなされておりました。
【資料7】
皇族方による終戦徹底(文献抜粋)
この時のお話につきましては、
竹田 恒泰氏の著書『語られなかった皇族たちの真実』より、以下に抜粋いたします。
○竹田宮三度目の御召
(前略)
竹田宮が帰国してから2日後の8月22日、
昭和天皇から竹田宮に三度目の御召があった。
昭和天皇は連合軍の本土進駐(しんちゅう)のときに不心得があってはいけないと大変御心配になり、我が国最南端を守っていた福岡の陸軍航空部隊(第六航空軍)に行って、決して不心得なことをしないようによくよく自分の気持を伝えること、また宇品(広島)の陸軍船舶司令部が敵の上陸に備えて水上特攻を準備していたので、これにも自重するよう聖旨(せいし)の伝達を命ぜられた。竹田宮は直ぐに福岡、宇品に行って聖旨を伝達し、それぞれ矛を収めさせた。
また、23日には高松宮が海軍航空部隊へ出かけて行き、同じように天皇の思召を伝達した。そして25日に高松宮、久邇宮、竹田宮の三名は御所を訪れ復命(結果報告)した。
8月26日は、連合国進駐軍の先遣隊が神奈川の厚木飛行場に降り立つ日だった。その日までには日本の飛行機は全て武装解除し、飛べないようにしておく必要がある。しかし厚木飛行場の相模原航空隊は命令を無視し、進駐軍を撃退すべく演習を続けていた。海軍は強い態度でこれを抑えようとするが、彼らは決死の覚悟であり、容易に言うことをきかない。
そこで時の首相東久邇宮稔彦王は昭和天皇に高松宮の御差遣を願い出た。高松宮が直接説得することで、24日の夕方、飛行場を占拠していた強硬派の地上勤務部隊が海軍治安部隊に厚木飛行場を明け渡した。翌25日には米軍機が東京上空を盛んに飛んだため、もし厚木飛行場の武装解除が半日遅れていたら、日米の交戦状態に至った可能性もあり、非常に危険な状態だった。
天候の都合により、進駐軍先遣隊の到着は28日に延期され、マッカーサー元帥の到着も30日に順延された。
マッカーサー元帥は日本に進駐軍を送り込むに当たり、相当の混乱があることを予測していた。だが、8月30日、平穏のまま、マッカーサーはサングラスを掛けてパイプを咥えながら厚木飛行場に降り立った。
敵と向かい合っている部隊の一部は、8月15日に玉音放送で終戦が伝えられているにもかかわらず、また陸軍省から武装解除の指令が出ているにもかかわらず、いまだ武装解除することなく、上陸する敵を迎え撃つ準備を進めていた。だが皇族が出向いて直接天皇の御心を伝えることで、彼らは初めてポツダム宣言受諾、敗戦、そして武装解除を受け入れたのだ。この任務を遂行することができたのは皇族しかいなかった。
昭和天皇は27日、天皇の特使を果たした高松宮、三笠宮、朝香宮、竹田宮、閑院宮を宮城(皇居)の表拝謁間に御招きになり、御慰労をなさった〔朝香宮は体調不良につき欠席〕。この特使の任務は、混乱する最前線を転々とする極めて危険な任務であったため、ここに集まった皇族たちは生きて帰ったことの喜びを分かち合ったに違いない。
私が申し上げるには誠に畏れ多いことではあるが、
昭和天皇はその時分「すっかり憔悴」などと、御やつれになった御様子が伝えられながらも、滞りなく終戦を完遂させるために、誠に適切かつ迅速な御判断をなさっていらっしゃる。
(小学館、平成18年、初版第一刷)
149~151ページより抜粋
【資料8】
この時の厚木飛行場 現場内状況(文献抜粋)
この時の厚木飛行場内の状況のお話につきましては、
佐久田 繁 編『太平洋戦争写真史 東京占領』による説明文を以下に抜粋いたします。
厚木進駐軍 (カッコ内は筆者註)
戦争末期に首都防空部隊として戦った神奈川県厚木海軍航空隊(正式には302航空隊) は、終戦時になおゼロ戦、月光、彗星、銀河など170機に予備機を加えると500機近い飛行機をそろえ、人員5,500人、地下格納庫や弾薬庫に2年はもつと称された豊富な弾薬・食糧を備蓄していた。日本の飛行場でピカ一、最大、最良の設備だった。この飛行場を指定した米軍の諜報には関係者は舌を巻いたものだ。
8月15日正午、終戦を伝える天皇の玉音が放送されると、
司令の小園安名大佐は部下を集めて「終戦は赤魔の謀略である。厚木は抗戦を継続する」と宣言した。血気のパイロットたちは飛行場で全国を飛びまわり、厚木と呼応して立ちあがれ、と訴えるビラをばらまく。
米軍が進駐してくるとすれば、厚木は東京の玄関口になる。何とか説得で反乱を押さえようと、海軍首脳部が入れ代り たち代り厚木へ出かけたが、神がかり的精神家で知られた小園は頑として応じない。
(8月19日マッカーサー元帥に呼ばれて)マニラへ向かった(使節団)河辺軍使機(大本営参謀次長 ・河辺虎四郎中将一行)も、厚木のゼロ戦に見つかれば撃墜されるところだったが、進駐(の)打ち合わせで米側はすぐに厚木へ進駐すると言い出し、事情を明かしてやっと26日に延ばしてもらった。
日限(期日)を切られた海軍は、ついに武力討伐を決意するが、21日になって小園がマラリアの再発で倒れ、精神異常を来たしたので(真偽不明)、
ようやく狂熱もさめた。小園を病院に収容したあと、工事部隊を送りこんで突貫工事が進められ、無事に米軍を迎え入れることができた。
8月21日夜、302空飛行長 山田九七郎少佐は悠紀夫人と共に自宅で青酸カリをのんで自決、主だった士官は軍法会議にかけられた。無期禁錮、失官の判決を受けた
小園は昭和35年に死亡した。数年前に旧部下たちの運動で復権が認められた。
8月28日、夜の明けぬうちから降りた先遣隊につづいて、48時間のうちに厚木は第11空挺師団に占領された。
双発輸送機は何時間もの間、2分間隔で着陸した。マッカーサーの宿舎は、関東大震災に建てられた豪華なニューグランド・ホテルだった。
(月刊 沖縄社、昭和54(1979)年9月)
32ページより抜粋
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当時の厚木飛行場
外されたプロペラ群は特攻機のもの
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(左から2番目)
周囲は随員
【註】
マッカーサー元帥が日本政府に使節団派遣を要請してきたため
河辺 虎四郎 中将を団長とする総勢16名の代表団は、8月16日千葉県・木更津にある海軍基地からフィリピン・マニラへ向かわれました
この他にも、抗戦を継続しようとする動きはありました。
8月15日未明に起きた「宮城事件」
【註】
「宮城事件」については、以下の記事中
【玉音放送を阻止するクーデター未遂事件】の項目にてお話しております。
8月16日には、東京湾兵団参謀・中島 憲一郎中佐らにより、
日光に疎開中の皇太子殿下を奪取して、
天皇に立てて戦争継続を計ろうという、皇太子殿下奪取擁立構想がなされました。
8月17日には、水戸教導航空通信師団の400名前後が「宮城事件」情報に基づき合流しようと上京。無人であった上野公園内にある東京美術学校(現在:東京藝術大学美術学部)を一時占拠。19日に説得に来た、近衛第一師団参謀・石原 貞吉少佐を射殺。20日に水戸に引き上げ、
その後、幹部5名が自決した (10日間で4名が殺害される)
「上野公園占拠事件」が起きます。
8月24日には、埼玉県朝霞にて野営中だった、「宮城事件」にて森 近衛師団長斬撃に関わった窪田 兼三少佐は、予備士官学校生らと川口にある鳩ヶ谷放送局を占拠し、9時間にわたり関東地区の放送を不能にしたり、同日の島根県松江市では、皇国義勇軍48名が県庁、新聞社、放送局、発電所を襲い、県庁が焼失するなどの事件がありました。
【資料9】
当時のニュース映像
(米軍先遣隊 厚木飛行場に到着)
当時の9月12日に報道されたニュース映像 (音声あり)
参照【チャプター[1]】
「厚木飛行場に先遣隊到着 (8月28日)」
[公開日:昭和20(1945)年9月12日]
『NHK アーカイブス』Webサイト
「NHK 戦争証言アーカイブス ニュース映像」より
【註】
当時はテレビもインターネットも無い時代。
映像のニュースは、毎週映画館にて放映されていました。
テレビ放送は、8年後の昭和28(1953)年になってから開始されますので、
当時はラジオ放送と新聞が主要な情報源。
動画映像は映画館で視聴するのが一般的な時代でした。
マッカーサー元帥 厚木飛行場に到着
先遣部隊が到着した2日後の8月30日
連合国最高司令官 マッカーサー元帥が厚木飛行場に到着。
本格的に日本の占領がはじまります。
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【註】
マッカーサー元帥は、8月14日にトルーマン米大統領より連合軍総司令官に任命されました。厚木到着後は、宿舎として戦火を逃れた
横浜のホテルニューグランドに滞留。
元帥は7日後にホテルを出て、スタンダード石油・日本支社のマイヤース邸に宿舎を移します。
【資料10】
当時のニュース映像② (マッカーサー元帥到着)
参照【チャプター[2]】 (2分21秒~)
「マッカーサー元帥 主力部隊と厚木へ (8月30日)」
(公開日:昭和20(1945)年9月12日)
『NHK アーカイブス』Webサイト
「NHK 戦争証言アーカイブス ニュース映像」より
停戦協定文書・調印式の話
そして9月2日、東京湾上にいます
アメリカ海軍戦艦ミズーリ号の艦上にて、「ポツダム宣言」を受諾する文書の調印式が行われ、停戦協定がなされました。
【註】日本代表として
政府代表・重光 葵 外務大臣
軍の代表・梅津 美治郎 参謀総長
以下11名が艦上へ
(連合戦勝国代表・11カ国)
連合国は、昭和17(1942)年1月「連合国宣言」に署名した国および第二次世界大戦において署名国と共同行動をとり、日本、ドイツ、イタリアなどの枢軸諸国と交戦状態にあった国々の総称。
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【資料11】
ポツダム宣言受諾の詔書
ポツダム宣言受諾の詔書( 読み下し)
朕は昭和二十年七月二十六日 米英支各国政府の首班(しゅはん)がポツダムにおいて発し 後に蘇連邦が参加したる宣言の掲ぐる諸条項を受諾 帝国政府および大本営に対し連合軍最高司令官が提示したる降伏文書に
朕に代り署名し かつ連合軍最高司令官の指示に基づき 陸海軍に対する一般命令を発すべき事を命じたり 朕は朕が臣民に対し敵対行為を直ちに止め武器をおき かつ降伏文書の一切の条項並びに帝国政府および大本営の発する一般命令を誠実に履行せんことを命ず
御 名 御 璽
昭和20年9月2日
内閣総理大臣以下各国務大臣副署
(サイト左上「閲覧」をクリックorタップ)
『国立公文書館アジア歴史資料センター』Webサイトより
【註】
朕とは、私のことで、当時は天皇陛下が御自分のことをこのように申されるのが慣例でした。
【資料12】
当時のニュース映像③ (降伏文書に調印)
参照【チャプター[6]】(5分53秒~)
「帝国全権 降伏文書に調印(9月2日)」
(アメリカ国歌を流して報じているのが印象的です)
[公開日:昭和20(1945)年9月12日]
『NHK アーカイブス』Webサイト
「NHK 戦争証言アーカイブス ニュース映像」より
【資料13】
調印式当日に関する新聞記事
以下は「毎日新聞」昭和20年9月3日付記事1面
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昭和20(1945)年9月3日付記事
上写真記事文を以下にお書きいたします。
【記事文説明】
( ) カッコ内は筆者註。
旧仮名遣いでは、小さい「っ」は使わず
通常の「つ」の文字で表記されています。
新聞記事の文字を忠実に書いておりますが、表記出来ない漢字があった場合は現漢字を用いています。途中、旧漢字から現漢字に変化している個所がありますが、これは記事文のままです。
(1)詔書渙發・降伏文書に調印
昭和廿年九月二日午前九時四分 ミズーリ艦上にて
①重光、梅津代表出席
宣言を正式受諾 新日本發足の一瞬
正式降伏受諾の日は遂に來た、帝國として永久に忘れ得ぬこの日、二日は薄曇りで風はなく東京湾上は極めて波静かであつた、調印式は横濱沖に浮ぶ戰艦ミズーリ号上で行はれた、
席上には聯合國側代表としてマッカーサー最高司令官をはじめ中國、英國(イギリス)、ソ聯、濠洲(オーストラリア)、カナダ、佛(フランス)、蘭(オランダ)、ニュージーランド各國代表が列席、
また帝國代表は ※政府代表として重光外相、統帥府(とうすいふ)代表として梅津参謀總長が出席して 調印式は午前九時四分 極めて嚴肅裡に行はれた、
調印式終つて 重光、梅津両代表は正午首相官邸に帰着、東久邇首相宮と會見、調印を終了した旨を言上(ごんじょう)、かつ この日の情景につき御報告申上げた、
次いで一行は午後一時十五分 参内(さんだい)、首相宮 侍立(じりつ)の下に
天皇陛下に拜謁 仰付けられ謹んで降伏文書に正式署名を行つた旨を奏上した、
畏くも午後二時 詔書が渙発せられ同時に政府はこれに對する首相宮謹話、降伏文書、陸海軍に對する一般命令第一号(註2)を発表した、
畏くも詔書において陛下は ※この日をもつて戰鬪行為は一切中止し、國民が政府の指示に從つて新しき日本の向かうべき道を進まなければならない旨の有難き御諭しを賜はつた
【筆者註】※の濃い字は、紙面上では大きめの文字で記されている個所
【註2】
陸海軍に対する一般命令第一号 とは
降伏文書調印とともに連合国から日本政府に手渡された最初の指令。
(以下は前文・読み下し)
一般命令第一号
連合国最高司令官総司令部
連合国最高司令官総司令部
指令 第一号 1945年9月2日
1945年9月2日 日本国天皇および日本帝国政府の代表者ならびに日本帝国大本営の代表者により署名せられたる降伏文書の規定に従い
別添「一般命令第一号、陸、海 軍」および右を敷衍(ふえん)する必要なる訓令を日本国軍隊および日本国の支配下にある軍隊ならびに関係非軍事機関に対し遅滞なく発出しこれを十分かつ完全に遵守せしむべし
連合国最高司令官の指示により
参謀長 米国陸軍中将
R、K、サザーランド
②條項を誠實に履行
一切の敵對行爲終止 降伏文書
下名(文書下に記されている連合国各代表者名) は茲に合衆國、中華民國及 グレート・ブリテン國(イギリス)の政府の首班(しゅはん)か千九百四十五年七月二十六日ポツダムに於て 發し 後にソヴィエト社會主義共和國聯邦か參加したる宣言の條項を日本國天皇、日本國政府及日本帝國大本營の命に依り且 之に代り受諾す、右四國(上記載の4カ国)は以下 之を聯合國(連合国)と稱(称)す
下名は茲に日本帝國大本營 竝に何れの位置に在るを問わす
一切の日本國軍隊及日本國の支配下に在る一切の軍隊の聯合國に對する無條件降伏を布告す
下名は茲に何れの位置に在るを問わす 一切の日本國軍軍隊 及日本國臣民(国民)に對し敵對行爲を直に終止すること、一切の船舶、航空機竝 軍用及 非軍用財産を保存し、之か 毀損を防止すること及聯合國最高司令官又は其の指示に基き日本國政府の諸機關の課すへき一切の要求に應することを命す(命じる)
下名は茲に日本帝國大本營か何れの位置に在るを問はす 一切の日本國軍隊及日本國の支配下に在る一切の軍隊の指揮官に對し自身及其の支配下に在る一切の軍隊か無條件に降伏すへき旨の命令を直に發することを命す
下名は茲に一切の官廰、陸軍及海軍の職員に對し聯合國最高司令官か本 降伏實施の爲適當なりと認めて自ら發し又は其の委任 に基き發せしむる一切の布告、命令及指示を遵守し且之を施行することを命し竝に右職員か聯合國最高司令官に依り又は其の委任に基き特に任務を解かれさる限り 各自の地位に留り且引續き各自の非戰鬪的任務を行ふことを命す
下名は茲に ポツダム宣言の條項を誠實に履行すること竝に右宣言を實施する爲 聯合國最高司令官又は其の他特定の聯合國代表者か要求することあるへき一切の命令を發し且 斯る一切の措置を執ることを天皇、日本國政府及其の後繼者の爲に約す(約束する)
下名は茲に日本帝國政府及日本帝國国 大本營に對し現に日本國の支配下に在る一切の聯合國の支配下に在る一切の聯合國俘虜及被抑留者を直に解放すること竝その保護、手當、給養及指示せられたる場所へ卽時輸送の爲の措置を執ることを命す
天皇及日本國政府の國家統治の権限は本降伏條項を實施するため適當と認むる措置を執る聯合國最高司令官の制限の下に置かるるものとす(る)
千九百四十五年九月二日九時四分日本東京湾に於て署名す
大日本帝國天皇陛下及日本國政府の命に依り且其の名に於て
重 光 葵
日本帝国大本營の命に依り且其の名に於て
梅 津 美 治 郎
千九百四十五年九月二日午前九時八分東京湾上に於て合衆国、中華民国、聯合王国(イギリス)及ソヴィエト社会主義共和国聯邦の爲に竝に日本国と戦争状態に在る他の聯合諸国家の利益の爲に受諾す
聯合国最高司令官 ダグラス・マックアーサー
合衆国代表者 シー・ダブリュー・ニミッツ
中華民国代表者 徐 永 昌
聯合王国代表者 ブルース・フレーザー
ソヴィエト社会主義共和国聯邦代表者 クズマ・エヌ・ヂェレヴィヤンコ
オーストラリア聯邦代表者 ティー・ユー・ブレーミー
カナダ代表者 エル・コスグレーヴ
フランス国代表者 ジァック・ルクレルク
オランダ国代表者 シェルフ・ヘルフリッヒ
ニュージーランド代表者 エス・エム・イシット
1面記事より抜粋
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江戸東京博物館(撮影筆者)
【註】
上①②記事で述べられている
「降伏文書」と「陸海軍に対する一般命令第一号」の全文(英文・和訳文) は、以下のリンクより閲覧することができますので、ご参考ください。
「戦後70年企画『降伏文書』『指令第一号』原本 特別展示降伏と占領開始を告げる二つの文書」リンク
「外務省外交史料館」より
以下は同上「毎日新聞」(昭和20年9月3日付)記事の2面
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昭和20(1945)年9月3日付記事
上写真記事文を以下にお書きいたします。
(2)ミズーリ艦上に 暗雲低く垂る
重光全權 先づ署名
③横濵沖合ミズーリ艦上にて加藤同盟特派員発
聯合國(連合国)側と帝國との降伏文書調印式に記者等は特に許された二名の日本人記者として二日午前六時 米駆逐艦四六八号に乘組み 同七時半 戰艦ミズーリ号に到着した、この朝死んだやうに風は落ち、海は静かな凪だが、空には重い灰色の雲が垂れこめてゐた、
右舷に近く米戰艦アイオワ、それからやゝ遠く英戦艦キング・ジョージ五世が投錨(とうびょう)し、海面を走る舟艇にはすべて米國旗がはためいてゐた、導かれて記者は式場を後方から見下す高い狭い甲板に昇つた、調印式場にあてられたのは右舷の廿(20)坪 (畳約40畳分の広さ) 程の上甲板(じょうかんぱん)で、これを圍(囲)んで記者、寫眞班、ニュース映画班の席が設けられてあつたが、記者が到着した時にはこの式場にはテーブル一個が投げ捨てられたやうにおかれてあるばかりであつた
午前八時 軍樂の吹奏とともにミズーリ号の檣頭(しょうとう)高く米國旗が掲揚された、やがて式場には二尺(約60センチ)に八尺(約2,4メートル)程の長方形の机が運ばれ、白く緣取つた濃緑色のテーブル・クロスが掛けられ椅子が二個運ばれ、その後方にマイクロフォンが一個置かれた、
八時十五分式場より一段下の甲板に並んだ軍樂隊が突如吹奏を始め右舷のタラップを踏んでカナダ代表團(団)が姿を現し、引續きソ聯(ソヴィエト連邦)、支那(中華民国)、英國(イギリス)、濠洲(オーストラリア)、佛國(フランス)、ニュージーランド各國代表團が順次到着した、赤い肩章、軍帽にカーキ色の軍服を着てゐるのは濠洲、カナダ代表だ、英國代表は上下とも短袂(半袖)、半ズボンの白いユニフォーム、ソ聯代表は薄綠の上衣に黑地に太い赤線二本で飾つた長ズボン、フランス代表は綠の高い円い帽子に金モールを飾つてゐる、
午前八時四十五分、灰色の軍服を着たマッカーサー元帥がニミッツ元帥以下の米代表團(団)を從へて入場所定の位置についた、中央の机を圍(囲)んで正面は左から支那、英國、ソ聯、濠洲、カナダ、フランス、オランダ、ニュージーランドの順に各國代表が起立したまゝ並び、その後に随員が数名づつ從つてゐる、向つて右側には聯合國最高司令官マッカーサー元帥を先頭に、ニミッツ元帥以下の米國随員約六十名が起立して日本全權(権)の到着を待つのみとなつた
そのとき記者の左にゐた英人記者が記者の肩を叩いて『日本全權が來た』と囁く、ミズーリ号の右舷に米國團旗を掲げた小艇(小さい船)が接近してゐる、九時に十分前タラップを踏んで重光全權を先頭に、帝國全權團が姿を現した、ステッキをついて不自由な足を運ぶ重光全權に、白の背廣をつけた終戰連絡中央事務局第三部長 太田三郎氏がつき添つてゐる、その後を参謀総長 梅津代表が默々と上つて來る、
日本全權は聯合國側代表の立並んでゐる式場に入り中央の机の前五歩ぐらゐの所に三列に並んだ、第一列は重光全權を右に、その後二列に陸軍側 宮崎 中将、永井 少将、杉田 大佐、海軍側 留岡少将、横山少将、芝(柴)大佐、外務省側 岡崎 終戰連絡中央事務局長官、太田 同第三部長、加瀬書記官が並んだ、重光代表はモーニング、シルクハット、黄革の手袋をはめ右手に杖をついて立ち、梅津代表は陸軍大将の制服に参謀肩章を右胸に吊つてゐる
正九時マッカーサー元帥が机の後方、マイクロフォンの前に立つて淡々とした調子で所懐を述べた
戰争は終わつた、われわれは再びかういふことのないやうに平和のために こゝに集つたのだ、これからはよりよい世界の建設に進まなくてはならぬ
机の上に降伏文書の正文二通が置かれた、日本側の岡崎随員がマッカーサー元帥の前に進み 陛下の信任状を提出した、かくてマッカーサー元帥司會の下に調印式が開始されたのだ、
マッカーサー元帥の要求に従ひ まづ重光全権が加瀬随員介添への下に椅子に着席、シルクハットを右側に置き、右手の手袋をぬいで万年筆を取出し、上衣の内ポケットから紙を出してペン先の具合をためした後、二枚たたみとなってゐる二尺(約60センチ)に一尺五寸(約45センチ)程の大きさの降伏文書の右側の上辺に署名した、紙の白さが眩しい程光つてゐる、ついでもう一通の文書に署名した、ついで梅津全権は椅子に腰かけず胸ポケットから万年筆を取出し立つたまゝ上半身を曲げ机の上にかゞむやうにして署名し、後方に退つ(さがっ)て靜かに眼鏡を外し、バックに収めた
日本側の署名が終ると米國側随員の一人が進み出て降伏文書を逆に置きかへ 聯合國の署名が始まつた第一にマッカーサー元帥がマイクロフォンの前から進み無造作に着席した、その後に寄添ふやうにしてウェーンライト米中将とパーシヴァル英中将が立つてゐた、マッカーサー元帥は卓上に備へつけられた硝子のペン軸で最初の一通に署名すると振向きそのペン軸をウェーンライト中将に與へ、もう一通に署名したペン軸はパーシヴァル中将に與へた、マッカーサー元帥は再びマイクロフォンの前に立つ次に米國代表ニミッツ元帥が署名したが、その後にはハルシー代表とシャーマン提督がつき添つてゐた、
次いで支那、英國、ソ聯、濠洲、カナダ、フランス、オランダ、ニュージーランドの各聯合國代表が次々と二つの文書に署名した、フランス代表はマッカーサー元帥にキチンと起立の禮(礼)をとり、オランダ代表は肥大な身体を椅子に横づらしてマッカーサー元帥に署名個所を教へられてから署名する、
この間日本全権は身動きもせず靜 かに署名の有様を見守つてゐた、重光全権は右手に杖を持ち左手を腰に軽くあて梅津代表は両手を後ろに組んだまゝだつた、午前九時十五分前後にニュージーランド代表が署名して一對九 (1:9)の調印が終るとマッカーサー元帥は
これで行事は終つた
と宣言、署名の終つた降伏文書の正文一通を日本側に手交(手渡す)、日本全権はこれを受取ると直ちに退場した、重光全権は乗艦の時と同じやうに不自由な足を引摺つて下りて行つた、
緊張した式場の空氣がやは らぎ聯合國代表も退場を始めた、折柄(ちょうどその時)ミズーリ号の上空を轟々と爆音を轟かせ九機編隊のB29が翔び過ぎ、その後を数百機の聯合國側飛行機の大編隊が空を暗くして飛び去つた、軍樂 隊の吹奏が狂ほしいまでに耳を打つ、急に靜かだつた艦内が騒然と動きはじめ、式場に人の群が溢れた、ソ聯の一記者は机の上に置かれたインクスタンドにカメラを向けてゐた、いつの間にか雲が切れて薄陽が洩れてゐた、日本全権を乗せた小挺は白く光る浪間に次第に小さくなつて行つた
【筆者註】
調印で使った机は、アメリカ東インド艦隊司令・ペリー長官(当時)が使用していた机で、この日のために運び込まれ用意されておりました。
2面記事より抜粋
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待ち構える水兵とカメラマン。
『東京占領』説明文によると
右下の星条旗は嘉永6(1853)年に
ペリー提督が浦賀に来航した時に
掲げていたものと述べられています。
【註2】
重光外務大臣の右足は義足。
昭和7(1932)年4月29日、上海で行われた
天長節を祝う式典に出席中、爆弾が投げ込まれ爆発して重傷。右足切断の手術がなされました(1名死亡、重光外相含む3名重傷)
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日刊「毎日新聞」(昭和20年9月3日付)2面記事より
【註3】
以下のリンクに、上記事内容の諸場面の写真が掲載されております。
調印式の様子がよりわかる内容となっておりましたので、ご紹介いたします。よろしければご参照ください。
ブログ「昭和20年1945年9月3日 降伏文書調印の様子」リンク
平成30(2018)年5月17日付記事より
(3)戰ひの終止符
|マ元帥|ペン五本も使用|UP特派員の|手記|
④米戰艦ミズーリ號上にて二日UP通信特派員ティートソース手記
過去三年八ヶ月廿六日間継續した戰爭に正式の終止符を打つべき降伏文書調印式は かつきり(きっかり) 廿(20)分間で終了した、式は極めて順調にかつ厳かに行はれたが、その間 唯一の出來事としては聯合國側の第六番目の署名者であるカナダ代表モーア・コスグレブ大佐が日本文の降伏條文の間違つた方へ署名したことだけだつた、同大佐は自分の書くべき線の一つ下の線に署名してしまつたのだ、
それは最初誰も氣づかなかつた、最後に聯合國側の署名者たるニュージーランドのイシット空軍大将が署名しようとしたとき、ふとみれば最後の線は既に署名されてしまつてゐる、そこでマッカーサー元帥は一歩前へ進み出て最後の線のすぐ下の余白を指し示した、そこでやつとアイジット大将は署名することが出來た、調印式の司會者たるサザランド参謀長は右に関し日本側の諒解を求め、その場で訂正の後 再署名の手数は省くことにしてやうやく各自ほつと安堵の胸を撫で下した
調印式は午前八時五十八分に始まり、九時十八分に終つた、式がはじまるとマッカーサー元帥は聯合國最高司令官として調印のテーブルから数フィート離れたマイクロホンの前に立ち強い明瞭な聲(声)でゆつくりと語りはじめた、元帥は発言中、身体をやゝ右に向け左足を少し前に出してゐた
⑤手を震はすマ元帥
十一名の日本側代表がミズーリに到着したのは午前八時五十分で、駆逐艦ブキャナンからマッカーサー元帥が大股で勢ひよく乗り込んで來てから八分後であつた、
まづ重光外相が米海軍の小艇からミズーリのタラップに第一歩を印し、ステッキによつて義足をゆつくり進めて行つた 重光外相は光沢の悪い黑のシルクハットに燕尾服、黑の靴、黄色の手袋を着用、緣ある眼鏡を掛けてゐる、
日本側代表は五列に列んだ米将軍の傍、中央テーブル前に重光外相及び梅津大将を最前列に三列に列んでゐる
第二列にはシルクハットの随員二名と軍人三名、第三列には軍人三名と白い服の随員一名がゐる、日本代表一行は固い表情で無言である
中央テーブルは長さ八尺(約2,4メートル)、白と綠のビロードのテーブル掛があり、その上に黑と茶褐色の降伏書類が載つてゐる、
放送演説の原稿を朗讀(ろうどく)するマッカーサー元帥の両手は感激のためか眼にとまるほどふるへてゐる、三分の後 元帥は條文に署名するやう日本代表をさしまねいた、
先づ重光外相はシルクハットのまゝ前進してテーブルの椅子に腰を掛けシルクハットをテーブルの上に置いた後、机上のペンには手を触れず、自分の万年筆をもつて署名を了した、時に午前九時三分、次いで梅津参謀総長が入れ替わつてこれも愛用のペンで署名した、日本代表の署名が終るとサザーランド参謀長は條文書を一旦閉ぢて、マッカーサー元帥の背後に控へる聯合國代表の署名を求めるべく再び條文書を開き、これより降伏文書 署名式が行はれる旨 左(下)の如く放送された
『聯合國軍司令官は日本と交戰関係にありし諸國を代表し、今より署名を行ふ』
署名のペンを記念に
ついでマッカーサー元帥が
『ウェーンライト将軍、パーシヴァル将軍は前へ進み出て余(私)が署名する間、余と同行されよ』と述べれば、ウェーンライト将軍はマ元帥の背後右寄りに、パーシヴァル将軍は左寄りに起ち上つた
マッカーサー元帥は降伏文書に署名するため五本の万年筆を使用した、それはウェーンライト将軍、パーシヴァル将軍、米國政府、ウェストポイント陸軍士官學校にそれぞれ一本づつ贈り、最後の一本を自己の記念として残すためである、マッカーサー元帥の署名が終つた、その時『米國代表署名』と聲がかゝり、米國代表ニミッツ提督は起つて署名、續(続)いて 中國、英國、ソ聯、濠洲(オーストラリア)、カナダ、フランス、オランダ、ニュージーランドの順で各々署名を終つた、
この間日本代表はたゞ 黙々と起つたまゝ聯合國代表の署名ぶりを眺めてゐた
調印に際し全部で十八本のペンが使はれた、マッカーサー元帥は五本、英國のサー・ブルース・フレーザー提督は三本使ひ、テーブルの上に用意したペンを使つたのはカナダ代表のコスグレーヴ大佐たゞ一人であつた、フランス代表 ルクレルク大将は自分のペンを右手の第一指と第二指の間にしつかり握つて署名した
【筆者註】
記事はこのあと「全員調印後マッカーサー元帥は『世界再建を永遠に神に祈ろうではないか』と神への祈りの言葉を短く述べた」という内容が書かれていますが省略します。
2面記事より抜粋
以下のリンクに調印式当時の映像動画がありますので、ご参照ください。
ウェブサイトより
その一方で、ソヴィエト軍の一方的攻撃による侵攻は続いていました。
【参照資料】
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昭和20(1945)年9月4日付記事より抜粋
以上の文書調印はこれで終わりません。
この文書は、日本国軍隊および日本の支配下にある一切の軍隊に対して無條件降伏を布告する文書でありますので、ここから各国にいます、日本軍の各軍司令部においても署名・調印がなされました。
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9月2日パラオにいます米艦アミック号上にて
約1万人の部下を代表して署名する
第14師団長・井上 貞雄 中将
米海軍側は海兵隊 ロジャース准将
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5万人の日本軍を代表して調印する
第118師団長・内田 銀之助 中将
米軍に印として軍刀を差し出され文書に調印
この署名・調印は、10月25日まで続いています。
【参考資料】
「公文書に見る終戦・年表」リンク
「公文書に見る終戦-復員・引揚の記録-」より
また、敗戦を信じず投降しなかった将兵方もおられました。
【異なる終戦日の話】
第二次世界大戦の終戦日についてはそれぞれあります。
日本国内においては、
①玉音放送がなされた昭和20(1945)年8月15日
②ポツダム宣言を受諾する調印式が行われた9月2日
③「サンフランシスコ講和条約」が発効され、国際法上において戦争状態が終結した日の昭和27(1952)年4月28日
など諸説があり議論がなされているようです。
連合国側では、
9月2日を「Victory over Japan day(通称V-J Day)」と称して、
この日を「対日戦勝日」としております。
【参照資料】
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昭和20(1945)年9月4日付記事より抜粋
イギリスでは、8月15日
ソヴィエト連邦(ロシア連邦)、中華民国(台湾)などでは、
9月3日を「対日戦勝日」としております。
【参照資料】
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昭和20(1945)年9月4日付記事より抜粋
(一例資料)
また、ヨーロッパでは、1945(昭和20)年5月8日
ドイツが降伏文書に調印した日を
「Victory in Europe Day(通称 V-E Day)」と称して
ヨーロッパ戦勝日としており、
ソヴィエト連邦(ロシア連邦)では、5月9日としています。
米軍による占領開始
米軍は直ちに占領政策を遂行するための中央機関として
「連合国軍最高司令官総司令部(以後GHQ※)」を東京に設けます。
※GHQ(ジーエイチキュー)とは
General Headquartersの略。
【正式名称】
General Headquarters of the Supreme Commander for the Allied Powers
【日本名称】
連合国最高司令官総司令部。
通称・進駐軍。
庁舎として選ばれた場所は、皇居に近いところにある
「第一生命館 」地図リンク
【註】
現在は、第一生命保険株式会社・本社
戦時中は陸軍・東部(東日本)軍 管区司令部が置かれていました。
「第一生命保険」のホームページによると
9月7日にGHQより申し出があり、9月10日には日本政府から正式に「第一生命館」接収(せっしゅう)の通知を受けて、第一生命は移転先の確保に苦慮しながらも9月15日正午には引き渡されて「総司令部 本部」が設けられ、昭和27(1952)年9月17日には返還されたとあります。
【参照資料】
「マッカーサー記念室の歴史 PDF」より
『第一生命保険株式会社』webサイトより
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第一生命館
掲揚されているアメリカ国旗が
占領を象徴しています。
その他にも、米軍兵の宿舎や住居などの用途として、種々の建物・公園等が接収され、日本国民の立ち入りは禁止されました。

(江戸東京博物館にて)
(撮影:筆者)
そして、地方には6地方軍政部がそれぞれ置かれることとなり、終戦連絡事務局を通じて日本政府及びその行政官庁に命令が発せられる措置がとられました。
このGHQの内部機構に「民間情報教育部」があり、その下に「宗教課」がおかれて、ウィリアム・バンス博士(歴史学) が課長として日本の宗教一般の監督に当たりました。
【参照】
連合国最高司令官総司令部の組織図
こちらでは「民間情報教育局」表記。
下部の左から3番目
「日本国憲法の誕生」より
【参照資料】
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『太平洋戦争写真史 東京占領』より転載
宮中三殿にて執り行われた
「戦争終結親告の儀」
調印式翌日の9月3日
天皇陛下は宮中三殿において、
厳かに「戦争終結親告の儀」を執りおこなわせられました。
【資料14】当時の新聞記事
⑴日刊「毎日新聞」昭和20年9月3日付記事

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昭和20(1945)年9月3日付記事より抜粋
上写真・毎日新聞記事文を以下にお書きいたします。
聖上けふ御親告
二日の調印で大東亞戰爭は正式に終結を告げたので
天皇陛下には三日 賢所 皇靈殿 神殿において 親告の儀を執り行はせられる旨仰せ出された、同日 天皇陛下には御拜、親しく 皇祖皇宗(こうそこうそう)に戰爭終結を御親告遊ばされ、次いで 皇后陛下には 同十時五分御拜あらせらるゝ御豫定と洩れ承る
1面記事より抜粋
そして、終戦奉告のために、掌典長以下を勅使として、神宮(伊勢神宮)ならびに歴代天皇の御陵へ参向せしめられました。
⑵日刊「朝日新聞」昭和20年9月4日付記事


昭和20年9月4日付記事(1面)より抜粋
記事文は続きますが枠的理由で省略
以下は上写真・朝日新聞記事文
三殿に御親告の御儀
畏し、戰爭終結の御告文
大東亞戰爭は正式に終熄を見たので、
畏くも 天皇陛下には三日
宮中賢所、皇靈殿、神殿において厳かに戰爭終結御親告の御儀を執り行はせられた
陛下には午前十時 御束帯黄櫨染御袍を召させられ、側近奉仕者らを從へせられて出御、うやうやしく御拜禮、御告文を奏し給ひ戰爭終結を御親告あらせられて入御、
ついで 皇后陛下御拜禮 皇太后陛下の御代拜を室町祗候が奉仕、御参列の高松宮、三笠宮、東久邇宮、同盛厚王、竹田宮各殿下御拜禮、近衛國務相以下各大臣をはじめ参列の顯官(けんかん)、貴族院総代四條隆徳候外、衆議院総代 勝正憲氏外等の拜禮があつて御儀を終へさせられた
神宮、山陵に奉告の御儀
(カッコ内は筆者註)
畏き通りでは戰爭終結にあたり
神宮(伊勢神宮)ならびに各山陵および官國幣社に勅使として掌典を参向せしめられ、奉告の◆を左(下)の通り行はしめられる旨 三日 仰出された
<神宮 (外宮) 六日午前八時、三條掌典長
(内宮) 同日午後一時、同
<神武天皇(初代)山陵 七日午前九時、室町掌典、
<大正天皇(第123代)山陵 七日午前九時、◆田掌典
<仁孝天皇(第120代)山陵 八日午前八時、室町掌典、
<孝明天皇(第121代)山陵 同日 午前九時、同
<明治天皇(第122代)山陵 同日午後一時半、同
<靖國神社 同日 午前九時、矢尾板掌典
1面記事より抜粋
東久邇首相宮殿下による敗戦報告の御演説
そして、9月5日に国会議事堂にて行われた、第88帝国議会(臨時)第2日目において、東久邇首相宮殿下により、敗戦報告の御演説がおこなわれました。
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国会議事堂
【資料15】当時のニュース映像④
参照【チャプター[7]】 (7分08秒~)
「首相宮殿下御演説 第88臨時議会 (9月5日)」
東久邇首相宮殿下の御演説文(9月5日付)
先に畏くも大詔を拝し、帝国は米英ソ支4国の共同宣言を受諾し、
大東亜戦争は茲に 非常の措置を以て
其の局を結ぶこととなりました。
連合国軍は既に我が本土に進駐して居ります。
事態は有史以来のことであります。
3千年の歴史に於て、最も重大局面と申さねばなりません。
今日に於て尚、現実の前に眼を覆い、当面を糊塗(こと)して自ら慰めんとすること、又激情に駆られて事端(じたん)を滋く(増す) するが如きことは、到底国運の恢弘(かいこう)を期する所以ではありません。
一言一行悉く、天皇に絶対帰一し奉り、苟くも過たざることこそ、臣子の本分であります。
我々臣民は大詔の御誡めを畏み、堪え難きを堪え、忍び難きを忍んで、今日の敗戦の事実を甘受し、断乎たる大国民の 矜持(きょうじ)を以て、潔く自ら誓約せる ポツダム宣言を誠実に履行し、誓って信義を世界に示さんとするものであります。
今や歴史の転機に当り、国歩艱難(こくほかんなん)、各方面に亙る戦後の再建は極めて多難なるものがあります。戦いは終りました。
併しながら我々の前途は益々多難であります。
詔書にも拝しまする如く、
今後帝国の受くべき苦難は 蓋(けだ)し 尋常一様(じんじょう いちよう)なものではありません。
固より政府と致しましては衣食住、各方面に亙り、
戦後に於ける国民生活の安定に特に意を注ぎ、凡ゆる部面に於いて急速に萬全の施策を講じて参る考えであります。
併し戦争の終結に依って直ちに過去の安易なる生活への復帰を夢見るが如き者ありと致しますならば、思はざるも甚だしきもので、将来の建設の如きは到底期し得ないのであります。
我々の前途は遠く且つ苦難に満ちて居ります。
併しながら 詔書にも御諭しを拝する如く、我々国民は固く神州不滅を信じ、如何なる事態に於きましても、飽くまでも帝国の前途に希望を失うことなく、何処までも努力を盡さねばならぬのであります。
チャプター7文中より
[公開日:昭和20(1945)年9月12日]
以上の御演説がおこわれた後、米軍は占領活動を開始。
約40万の米軍将兵が日本各地に進駐してきました。
【註】
進駐軍のほとんどは日本国土内での決戦を予期しての戦闘部隊。
日本軍の解体・復員が順調に進んだので、
3年後の昭和23(1948)年には10万人にまで縮小。
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米第1騎兵師団
これより、昭和27(1952)年4月28日に「サンフランシスコ講話条約※」が発効されるまでの7年間、米国軍による占領・統治がなされる事となります。
※サンフランシスコ講話条約
昭和26(1951)年9月、アメリカのサンフランシスコで行われた講和会議にて、日本と連合国(48カ国)との間で結ばれた平和条約。
同時に日本と米国との間で「日米安全保障条約」が締結されました(戦争の終結は講和によって実現されるのが普通の慣わし)9月8日、日本代表として吉田 茂 総理大臣が調印。
この講和会議にて、当時ソヴィエト連邦(現在ロシア連邦)・ポーランド・当時チェコスロバキア共和国(現在チェコ共和国・スロバキア共和国)は調印を拒否。その他には、インド・当時ビルマ連邦(現在ミャンマー連邦共和国)・ユーゴスラビアは不参加。中華民国・中華人民共和国は招待されませんでした。
【資料】同条約の公布原本
「日本国との平和条約及び関係文書・御署名原本」
「公文書にみる日本の歩み」より
資料編は以上。次回から本編に戻ります。
ご拝読ありがとうございました。拝
【参照写真資料】
新聞記事以外の写真は
佐久田 繁 編『太平洋戦争写真史 東京占領』
(月刊 沖縄社、昭和54(1979)年9月)より転載