ごきげんよう。
この連載は、戦後より神道ジャーナリスト・神道防衛者として活躍した、
思想家・葦津 珍彦氏について卒論に基づいたお話。今は終戦直後の活動ついてのお話です。
はじめに
昭和20(1945)年8月15日、日本国が「ポツダム宣言」を受諾する旨を宣言したことにより、兵器戦は終結・停戦する方向へと向かいますが、
8月8日に突然宣戦布告通告をして参戦してきたソヴィエト軍との戦闘は続きました。
【参照資料】
以下、上記事一部内容を抜粋
そして9月5日までの間に千島列島は占領されます。
私が元陸上自衛官の方から伺ったお話によると、ソヴィエト軍は北海道まで侵攻してきたので、武装解除状態の日本軍は奮闘して防衛したと聞いております。
【参照資料】
その後、満州国に居りました 57万人程の日本人がソヴィエト軍に捕虜として拉致されたのち (通称:シベリア抑留)
ソヴィエトの各地に送られて、インフラ整備・各施設建物を造るなどの強制労働をさせられまして、厳しい環境下でまともな食事も与えられず約5万5千人が亡くなり、長い人では10年程働かされました。
戦闘状態は、昭和31(1956)年10月19日に「日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との共同宣言」の署名がなされ、同年12月12日に発布されて終結するまで続きます。
今現在においても、日本の領空ギリギリまでロシア機が飛んでくる事例は多発しておりまして、そのつど自衛隊機はスクランブル発進しており、また、ロシア海軍艦艇による威圧的航行も行われております。
また、「ブルームバーグニュース」によると、
ロシア連邦・メドベージェフ元大統領(現在ロシア安全保障会議 副議長) は、自身の「テレグラム」チャンネルにて、北方領土問題に関する発言をされ「交渉は常に儀式的な性質を帯びていた」と主張したと報道されています。
さて、日本国内はこれより外国に占領されるという日本史上最大の危機を迎える事となり、国内の情勢は日々目まぐるしく変わっていきます。
この時に国内で起こった事の流れをある程度把握しておく必要があると思うので、本編では触れられなかったお話もしておきたく、
玉音放送がなされた直後の国内の様子について、参考資料の抜粋(抜き書き)を中心とするお話をいたします。
(前後編に分けました)
【前編】
米軍による日本占領 開始の話
昭和20(1945)年8月28日
アメリカ軍先遣(せんけん)部隊150名が、
輸送機により沖縄基地から神奈川県厚木飛行場に到着。
この先遣部隊が到着する以前にも、
皇族方のおはたらきによって、終戦の徹底がなされておりました。
【資料7】
皇族方による終戦徹底(文献抜粋)
この時のお話につきましては、
竹田 恒泰氏の著書『語られなかった皇族たちの真実』より、以下に抜粋いたします。
【資料8】
この時の厚木飛行場 現場内状況(文献抜粋)
この時の厚木飛行場内の状況のお話につきましては、
佐久田 繁 編『太平洋戦争写真史 東京占領』による説明文を以下に抜粋いたします。
この他にも、抗戦を継続しようとする動きはありました。
8月15日未明に起きた「宮城事件」
8月16日には、東京湾兵団参謀・中島 憲一郎中佐らにより、
日光に疎開中の皇太子殿下を奪取して、
天皇に立てて戦争継続を計ろうという、皇太子殿下奪取擁立構想がなされました。
8月17日には、水戸教導航空通信師団の400名前後が「宮城事件」情報に基づき合流しようと上京。無人であった上野公園内にある東京美術学校(現在:東京藝術大学美術学部)を一時占拠。19日に説得に来た、近衛第一師団参謀・石原 貞吉少佐を射殺。20日に水戸に引き上げ、
その後、幹部5名が自決した (10日間で4名が殺害される)
「上野公園占拠事件」が起きます。
8月24日には、埼玉県朝霞にて野営中だった、「宮城事件」にて森 近衛師団長斬撃に関わった窪田 兼三少佐は、予備士官学校生らと川口にある鳩ヶ谷放送局を占拠し、9時間にわたり関東地区の放送を不能にしたり、同日の島根県松江市では、皇国義勇軍48名が県庁、新聞社、放送局、発電所を襲い、県庁が焼失するなどの事件がありました。
【資料9】
当時のニュース映像
(米軍先遣隊 厚木飛行場に到着)
マッカーサー元帥 厚木飛行場に到着
先遣部隊が到着した2日後の8月30日
連合国最高司令官 マッカーサー元帥が厚木飛行場に到着。
本格的に日本の占領がはじまります。
【資料10】
当時のニュース映像② (マッカーサー元帥到着)
停戦協定文書・調印式の話
そして9月2日、東京湾上にいます
アメリカ海軍戦艦ミズーリ号の艦上にて、「ポツダム宣言」を受諾する文書の調印式が行われ、停戦協定がなされました。
【資料11】
ポツダム宣言受諾の詔書
【資料12】
当時のニュース映像③ (降伏文書に調印)
【資料13】
調印式当日に関する新聞記事
以下は「毎日新聞」昭和20年9月3日付記事1面
上写真記事文を以下にお書きいたします。
(1)詔書渙發・降伏文書に調印
昭和廿年九月二日午前九時四分 ミズーリ艦上にて
以下は同上「毎日新聞」(昭和20年9月3日付)記事の2面
上写真記事文を以下にお書きいたします。
(2)ミズーリ艦上に 暗雲低く垂る
重光全權 先づ署名
(3)戰ひの終止符
|マ元帥|ペン五本も使用|UP特派員の|手記|
以下のリンクに調印式当時の映像動画がありますので、ご参照ください。
その一方で、ソヴィエト軍の一方的攻撃による侵攻は続いていました。
【参照資料】
以上の文書調印はこれで終わりません。
この文書は、日本国軍隊および日本の支配下にある一切の軍隊に対して無條件降伏を布告する文書でありますので、ここから各国にいます、日本軍の各軍司令部においても署名・調印がなされました。
この署名・調印は、10月25日まで続いています。
また、敗戦を信じず投降しなかった将兵方もおられました。
【異なる終戦日の話】
第二次世界大戦の終戦日についてはそれぞれあります。
日本国内においては、
①玉音放送がなされた昭和20(1945)年8月15日
②ポツダム宣言を受諾する調印式が行われた9月2日
③「サンフランシスコ講和条約」が発効され、国際法上において戦争状態が終結した日の昭和27(1952)年4月28日
など諸説があり議論がなされているようです。
連合国側では、
9月2日を「Victory over Japan day(通称V-J Day)」と称して、
この日を「対日戦勝日」としております。
【参照資料】
イギリスでは、8月15日
ソヴィエト連邦(ロシア連邦)、中華民国(台湾)などでは、
9月3日を「対日戦勝日」としております。
【参照資料】
また、ヨーロッパでは、1945(昭和20)年5月8日
ドイツが降伏文書に調印した日を
「Victory in Europe Day(通称 V-E Day)」と称して
ヨーロッパ戦勝日としており、
ソヴィエト連邦(ロシア連邦)では、5月9日としています。
米軍による占領開始
米軍は直ちに占領政策を遂行するための中央機関として
「連合国軍最高司令官総司令部(以後GHQ※)」を東京に設けます。
庁舎として選ばれた場所は、皇居に近いところにある
「第一生命館 」地図リンク
その他にも、米軍兵の宿舎や住居などの用途として、種々の建物・公園等が接収され、日本国民の立ち入りは禁止されました。
そして、地方には6地方軍政部がそれぞれ置かれることとなり、終戦連絡事務局を通じて日本政府及びその行政官庁に命令が発せられる措置がとられました。
このGHQの内部機構に「民間情報教育部」があり、その下に「宗教課」がおかれて、ウィリアム・バンス博士(歴史学) が課長として日本の宗教一般の監督に当たりました。
【参照資料】
宮中三殿にて執り行われた
「戦争終結親告の儀」
調印式翌日の9月3日
天皇陛下は宮中三殿において、
厳かに「戦争終結親告の儀」を執りおこなわせられました。
【資料14】当時の新聞記事
⑴日刊「毎日新聞」昭和20年9月3日付記事
上写真・毎日新聞記事文を以下にお書きいたします。
そして、終戦奉告のために、掌典長以下を勅使として、神宮(伊勢神宮)ならびに歴代天皇の御陵へ参向せしめられました。
⑵日刊「朝日新聞」昭和20年9月4日付記事
以下は上写真・朝日新聞記事文
東久邇首相宮殿下による敗戦報告の御演説
そして、9月5日に国会議事堂にて行われた、第88帝国議会(臨時)第2日目において、東久邇首相宮殿下により、敗戦報告の御演説がおこなわれました。
【資料15】当時のニュース映像④
以上の御演説がおこわれた後、米軍は占領活動を開始。
約40万の米軍将兵が日本各地に進駐してきました。
これより、昭和27(1952)年4月28日に「サンフランシスコ講話条約※」が発効されるまでの7年間、米国軍による占領・統治がなされる事となります。
資料編は以上。次回から本編に戻ります。
ご拝読ありがとうございました。拝
【参照写真資料】
新聞記事以外の写真は
佐久田 繁 編『太平洋戦争写真史 東京占領』
(月刊 沖縄社、昭和54(1979)年9月)より転載