タブーではなくなった現代でー生き方の多様性と共にあるべきものー
「おれは沖縄の綺麗な海に撒いてくれたらいいや」
誰かが逝去する度に冗談めかして父が話していた会話。
墓なんてめんどくさいし、親戚にも子にも死んでまで面倒かけたくない。
奔放で、常識にとらわれない、豪快な父らしい理想の自分の終い方。
3年前父が死んだ。
突然の末期癌の発覚からたった4ヶ月だった。
恐らく近い将来自分が死ぬことなんて想像していなかっただろう。
定年しても仕事を続け、働く場所があることが何より自尊心を感じられる心の拠り所であったはず。
そんな体力自慢の男もあっけなく病に冒されていった。
病床に臥す前のとある日、父は私に語った。
お金、交友関係、仕事のこと…。
泣きながら父は我が人生を伝えようとし、泣きながら私はそれを受け取った。
わずか半日だったが、この時間が持てたことにとても感謝した。
けれど、実際はとても足りていなかった。
父がいなくなって、何もかもがわからなかった。
言われた通りにしているのに、いくつもいくつも壁にぶち当たる。
その度に父ならどうするかを考えるが、本音は今となってはわからない。
お父さん、ごめんね。
本当はこんな風にしたかったんじゃないかもしれない。
迷いながらも、遺された家族が思い思いに父を弔い、日常を取り戻していく。
遺品整理の最中、一冊のノートが出てきた。
書きかけのエンディングノートだった。
それは、まだ先にあるいつかのために、作り始めたばかりの余白が目立つきれいなノート。
豪快さの中に生真面目さを持つ、父らしい行いだった。
冗談めかして散骨について話したあの日。
そうは言っても実際問題どうするよ?
海に撒くなら許可がいるよ?
お葬式はどうしたい?
会話をもっと掘り下げていたら、ノートはもう少し埋められていただろうか。
医療が進歩し、長寿が当たり前になった社会でも、死はひっそりとやってくる。
私はこのエンディングノートがもっと当たり前に作られる世の中になってほしいと願う。
それは高齢者だけでなく、生きる人みんなが持つべきともいえる。
生き方の多様性が叫ばれる社会で、死に方についてももっと議論されてもいいはずだ。
最期の望みを一冊のノートに託せるなら安いものだ。
何もそれが全て叶わなくたっていい。
一生を生きた人に敬意を持ち、想いを尊重しながらその生を閉じていく。
死が大切に扱われる社会こそ、生を大切に扱うことができる社会だと信じている。
父の困惑した表情を思い出しながら、私は自分の死を全うしたい。
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