世代間ギャップを乗り越える
・音楽に見る、いまの10~20代の消費行動・性向
40代に入り、下の世代も増えてきました。
今の音楽や、バラエティー番組で聞いたりする10代・20代の人の感性・・・そのリアルな声を聞いてみても、やっぱり、わからないこと、ピンとこないことは多いです。自分たちが思春期を過ごした90年代~00年代の音楽を例にとると、耽美ロックやポップス、あるいはラップ、浜崎あゆみや宇多田ヒカルなどの歌詞を見ても、メッセージが日本語で明確に歌われている・・・。そういうものが多いような気がします。ところが、今は時代も移り変わったのか、音楽のダンスミュージックを聴いてみても、ロックを聴いても、何を言っているのかわからない、英語の歌詞に薄ぼんやりとした日本語がリズムに乗ってくる。そういうものが多いです。アトモスフェリックとでもいうのでしょうか。そういう感じを受けますね。明確なメッセージ性を訴えるというよりは、雰囲気で気取ったかっこいい感じをぼやっとした感じで歌って終わる・・・。そういう感じを受けます。
そしてあんなにダンスなどで盛り上げていたEXILEなども、後進のバンドに引き継がれ、ダンスはますます若返り、歌詞は昔はもっと明確なメッセージがあり、「Rising sun、陽はまたのぼっていく~」とか言っていたような気がしますが、今はそういうわかりやすいメッセージを、キャッチーなメロディに乗せて歌うというよりは、なんとなくかっこいい英語の歌詞を早口で歌って、そこにぼやっとした、曲と曲を繋ぐための日本語の歌詞が乗ってきて、そこにダンス調のメロディが乗ってくる。そういうものが多い気がします。
真面目に集中して音楽を聴くというよりは、BGM的で、なんとなくスタバやコメダ珈琲の背後に流れている音楽というような位置づけです。
それがいいのかどうなのかは分かりませんが、みんな歌から明確なメッセージを受け取るというよりは、雰囲気的にかっこいい英語の歌詞をダンスで踊ってみる・・・、「香水」をつけるような感覚で、音楽を消費しているのかなという感じがします。
浜崎あゆみだと居場所のなさとかトラウマを歌った内省的なものも多いですが、いまはそういうアーティストはいても少数で、ダンスなどをグループでやりたい人は、バリの強さというか、かっこよさを前面に出した歌詞やダンス、態度が求められる時代なのかもしれません。
・世代間のギャップをどう受け止めるか
まあその辺の分析はもっとしていかないといけませんが、音楽一つとっても、自分の生きた時代や20代の頃とはまったく違う風景が広がっています。しかしながら、こういう感覚は、これからもどんどん広がっていくだろうし、新しい若い人はもっと増えていくでしょう(少子化とはいっても)。また海外の方が入ってきて、新しい文化を築き上げていくかも知れません。そうなってくると、ますます若い方の最新のトレンドも変化していくでしょうね。
そういった中で、自分たちはどう対応していったらいいのか。そういうことを最近考えます。
結論から言うと、その人その人を何か不可解な異邦人というか、自分には理解不可能な物体としてとらえるのではなく、ある特定の主観、解釈、視点、そして思想をもった一個の人ととらえるのがいいのではないか。このような感懐に達しています。
「人」も意味的にとらえるというか、その人の持つ“意味”、お金に価値観を置いているのか、確固とした地位・・・会社でのポジションや「母親」という役目が欲しいのか。人を意のままに操る権力がほしいのか。あるいはそんなものには関係なく、自分の好きな絵や文章や創作物を徹底して追求したいのか・・・。そのような、その人の持つ「思想」を中心に若い人を分析したいと思うようになっています。性格にしてもそうで、優しいのがいいのか、厳しいのがいいのか。両親との関係性は良好か、それとも険悪なのか。倫理観(善悪)の基準は何か。もっと哲学的に考察すると、観念的なのか、唯物論的なのか。人生の何に「価値」を置いているのか。そういう視点で見てみるということですね。
そうなると、若い、年寄り関係なく、百花繚乱、いろんな価値の集合体なのがこの社会なのですね。ある特定の価値観だけが偉いということはなく、下に学ぶ、上を見上げるということで、若い人からも学べることはあるし、勉強できるところはあるということになります。僕たちロスジェネ世代(の最後尾)にいる人たちは、どちらかというと就職超氷河期で、会社の大人たちから冷たくあしらわれた世代で、自己肯定感ってそれほど高いとは思わないし、そういう文学や音楽などが多かったような気がします。ところが今の子たちは、若いのに泰然としていて、落ち着いていて、自己肯定感も高い。それは僕たちの後の世代、ゆとり世代以後から顕著に変化してきたような気がします。
相対的に見て、バブル後、失われた30年といわれる時代を通過してきた、バブルの熱気とそれが消えていく時代を知っている自分たちと、デフレが基本カラーで正規・非正規の区別も常態化し、がんばって働いても貯蓄はあまりできず、大学生のデートでも、スシローで100円の皿を30枚くらい食べて腹を膨らませて終わる・・・。そういう風景を日常的に見ている世代とは、考え方も感覚も違います。
・ジェネレーションギャップと親ガチャとの関連性
そのような視点にたつと世代間ギャップ(ジェネレーションギャップ)を感じることも少なくないですが、しかし「そういう状況的なものは、親ガチャと同じで自分で選択して生まれることはできないから、考えても仕方ないよ」という人もあるかも知れません。しかし親がどんな思考・思想を持っているかを分析できれば、親とあうところは合う、合わないところは合わないで選択的に親と接することができます。
意味的に、思想を知って人と接するとは、そういうことです。親ガチャだから、親元を選んで生まれることはできないから、その環境はどうしようもないんだ、というのではなく、親も一人の人間だから中核に持っている欲求があるはずです。それがその親の「思想」を形成していきます。価値観は何か、やっぱり自立して生きる以上、お金は大事だよね、という親なら「金」という価値観が強固に持っている人ということになります。うちの親はそういう傾向が強かったです。反論しないと、言い合いになったときに、どちらの主張が通ったかが「真理」のようになる家庭でしたので、言い返さないといけないのですが、僕が親のいうことに言い返さずに、強く言われるとそれに従ってばかりいる感じでした。そのためいつも「言いたいこと」を内側に抱えたまま、それを言えずに、しかし親への愛情も強かったため、結果的に「親の意見に異論を唱える、そういう意見を持つ“自分”がいけないんだ・・・」と思い、自己否定ばかりしている子供に育ちました。
しかし、親も一人の人間で、言い返してもいいのだ、親にも思想=価値観があり、それが絶対的に正しいとは誰も言えない。ただ本人の人生経験の中で、それが正しいと確信しているものである。もし言い返さないと、親は強く言えば、何でも物事が通る、絶対的な権力者みたいな人になっていっていしまう・・・。そういうことに気がついてから、親にしっかりと反論できるようになりました。また反論していいんだ、という気持ちになりました。
・世代間の価値観の違いを“意味的に”理解することで、相互理解は可能である
同じことが世代間ギャップにも言えると思います。その時代に生まれたのは、その人の運命みたいなもので(仏教では過去世の業ということになりますが)、ある意味、選択の余地はない。しかしその中でつちかってきた思想=価値観は変化できるものだし、他者が分析できるものであると言えます。
それを解析した上で、接し、またその価値観は可変的で、いつでも変更できるのだと思うと、今の10~20代の世代の価値観が理解できると思います。思想や価値観は、決して固定したものではなく、可変的でいつでも変更可能なものである。そして若い世代の雰囲気や音楽、文学、芸術はあまり理解できなくても、その背後に流れている「思想」は分析できるし、意味を理解することもできる。そうすると他者理解が進んで、若い世代がいま何を思っているか、求めているかを知ることができます。
決して世代間ギャップは埋められないものではなく、その世代が持っている思想=価値観を分析することで、理解可能になる。僕自身はそういう風に、世代間の格差みたいなものを理解し、解釈しようと思っています。
「人間」という属性は同じでも、その中身、価値観は人それぞれかなり違います。そこをよく見ていく。年齢を経るにつれて、そのようになっていくように感じますね。違いを認めながら、相互理解を促進していく。懐の広い人間になっていきたいものです。