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人生のコンパス
・運命の前提
よく失敗したときに人を責める人がいますが、最終的には自分の行動を修正するところに、落ち着いています。
子供が忘れ物をしたら、「お母さん、なんで出るときに一声傘がいるっていってくれなかったの!?」と。そういいますが、最終的なところは「次の日雨が降るかどうか、スマホの天気アプリで確認して、チェックするようにしよう。傘は玄関の目立つところに置いておいて、必ず目に入るようにしよう」と、「自分の行動を変える」ところにいきます。
大人でも、上司が部下の失敗の責任をとらないといけなくなったとき、たとえば大事な書類をなくしてしまったとき、「なんでいつもいれているバインダーの中に入れておかなかったんだ!!」。そう言うことがあるし、そういう悲鳴めいた声を聞いたことがある人もいると思います。感情的で他責思考の強い先輩だなあ。自分に火の粉が飛んできてミスを指摘されるのが、絶対嫌なんだろうな・・・。そのように思うこともあります。
昔いた会社の上司は怒号を飛ばすだけで終わっていましたが、まともな上司なら、一時的に部下を責めていても、最終的には「大事な書類はちゃんと持っているか、紛失していないか、提出する数日前に確認し、前日にもなくしていないか確認するように、LINE(メール)を送るようにしよう」などと対処すると思います。つまりその人自身の行動を変化させているワケです。
絵を描いていても、文句なのか批判なのか、取るに足らないメッセージを受け取ることがあります。そういうとき、まったく自分に落ち度がない場合は、完全にスルーし何も感じませんが、それでも自分の絵の説明文に落ち度はなかったか、顔が他の作家さんと似たような感じになっていなかったか、自分の方にも原因がなかったか、確認をとろうとします。
ここにも自分のほうに原因はなかったか、落ち度はなかったか。そのように確認しようとします。
これは、私たちの運命の大前提として、「善い行いをした人は幸福に、悪い行いをした人は不幸になる」。そのような思想を自然と持っているからだと思います。一時的には感情的に相手を責めても、最終的なところは、あきらかに他人に非がある場合を除いて、自分の行動に原因がないか、自分の言動を反省し、直すべきところは直そうとします。こういう思想を大前提として持っている・・・。そのようなところがあると思います。
仏教では、このようなことを自因自果、あるいは自業自得と教えられます。「善因楽果、悪因苦果、自因自果」という思想です。
善い行いをした人は心が楽になる、幸せな心になりますよ。逆に悪い行いをした人は、心が寂しく、穢れて、苦しくなりますよ。善い行いをすれば幸福になり、悪い行いをすれば不幸になりますよ。そして自分の運命は自分に展開する。やった行いは、他の人のところには一切行かない。すべて自分に返ってきますよ。ということです。
そして順現業、順次業、順後業と言われ、いつ種が芽吹くか時間的な差異はあっても、遅かれ早かれ、善い種はよい結果(幸福)、悪い行いは悪い結果(不幸・災難)を招くのだ・・・。そのように教えられます。
自分の行いは、自分に返ってくる。
ニュースでは、ある党首の不貞行為を十数年前のブログと矛盾していることをやっているとひきつけて、「ブーメランだ」などと揶揄していますが、そのように書いている人にだって、鏡のように、蒔いた種(行為)の結果(運命)は返ってきているわけです。
この法則を知れば、その人が今どういう結果をうけているかを見れば、その人が過去にどういう行いをしてきたのか、今の運命を見ればすべて分かります。
どれだけ善いことをやってきた!と自信満々でも、展開している運命が不幸ならば、悪いことをやってきたということです。逆に幸福だ、と喜んでいるならば、その人は着実に、人の見えないところでもひたすら善につとめてきたということです。
「善因楽果、悪因苦果、自因自果」という法則に従えば、今の自分に展開している運命を見れば、過去にやってきたことの善し悪しがすべて分かるということになります。
・生きる指針があるか
現実面で不貞行為に走ったり、誹謗中傷をする人が後を絶たない。
一時のいびつな快を求める心に、理性が逆らえない。いや、そういうことをすればどうなるのか、という根本的なところを支える「思想」が、欠落しているように見えます。
道徳や倫理的なものを見て、「全部ウソじゃん」と。
教師、政府、親、宗教が都合よく人心を支配するために、つくり出した「ファンタジー」だと・・・。果たして本当にそうでしょうか。僕は常に疑問に思ってきました。
もしこの世に道理や運命を決める法則などなく、やりたい放題やっても、幸福な生き方ができるなら、果たしてだれが善などするだろうか。人の本性って、そんなにまっすぐで清廉潔白だろうか。汚れきっているとも思いませんが。
人が見ていようがいまいが、関係ない。こつこつ勉強をすれば、した分だけ、必ずその人は善い結果を得るのです。たとえ合格はできなくても、そこで地道に種を蒔いたことは、必ず、その人の人生にプラスに働きます。「合格という結果」に結びつかなかった、というだけなのですね。「筋肉」はしりませんが、「努力」は人を裏切りません。私たちの都合に関係なく、蒔いた種は必ず実を成らせる。善いものならば楽果を、悪いものならば苦しい結果を・・・。そういう道理があるからこそ、腐らずに善につとめようと思うのです。そういう法則があるからこそ、善に向かって生きる人は栄えていき、悪に向いて走るものは滅んでいくのです。
逆に努力しても、そのことを鼻にかけ、人を見下すために、人に勝って、優越感で勉強している人は、たとえがんばっていても、目的が悪ですから、必ずその報いをうけます。遅いか早いかの違いだけです。どんな理由があっても、因果の法則を曲げることはできない。そうやって手にした学歴や学問も、「人を見下し優越感に浸る」のが目的だから、人の失敗を嘲笑したり、学問の無い人を見ては「バカだ」と嘲り笑って、結局、自分も馬鹿にされ嘲笑されていくのです。
人が見ているところだけがんばる、見ていないところでは手を抜く・・・。そういうひとが最終的に得をするなら、この世は、いつも自分のできているところを強調し、自慢ばかりしている、見栄っぱりが勝者になっているはずです。しかし果たしてそうなっているでしょうか?
深く考えてみなければならないと思います。「あなたの、人生の指針はなんですか?」と。
人生の指針というからには、判断に迷ったとき、その羅針盤・コンパスをみて、生きていく方向を決めるということです。
深い迷いの森に自分がいるとすれば、それはなぜなのか。なぜ、いま、自分は迷っているのか。どの方向に進んでいけばいいのか・・・。
「その方向を指し示すコンパスはそもそも、ありますか。あるとしたらどんなものですか?」と。
「付け焼き刃の知識だけではなく、本質的な思想を。どんなときでも決して自分を裏切ることのない、信じ切れる人生の羅針盤を持て」。
そういうことを、昔は寺の和尚さんや親切な大人が教えてくれていたように思いますが、どうも最近、そういう人がいない。結果、ニヒリズム(虚無主義)や“科学的”と偽装された、物質主義・唯物論が着々と浸透しているように思います。
間違っていることをしている後輩の誤りを正し、善導してあげるのが、本当の意味の“大人”ではないでしょうか。
年は食っていても、後学の人に伝えるべき「思想」は何もない・・・。そういった“老害”にだけは、なりたくないですね。
本当の意味で、決して自分を裏切らない、人生のコンパスは何か。
そういうことを確認すべき秋(とき)にきていると、思われてなりません。