見出し画像

「自分の言葉を信じる」ということ

提示した概念の相反関係に気をつける


これまで、総じて自己肯定感や他者と比較することの不毛さ、絵を描く気が起きないときはインプットを大事に・・・など種々いろいろな“概念”を提示してきました。
それぞれに意味あることのように感じます。あとはそれらを信じる、という方向性にかかっているようです。
大乗仏教の学派の一つである唯識学派では、信じることー“信”は善の心所の一つとされ、善業と教えられます。
私たちの心のはたらきは唯識によれば、五十一あると教えられ(五十一心所)、その中の「善」の心所として、“信”(自己を真理に委ねること)が言われます。
もちろん「善因楽果、悪因苦果、自因自果」が仏教ですから、心が浄化され、穢れがとれる。心が楽に、幸せになる業だと言われるわけです。煩悩と闘ってさとりを得る上で非常に大切な信、真理をまっすぐに信じることそのことが大切であると教えられます。

この<善>の心所の最初は、自己を真理に委ねるはたらきの<信>です。龍樹菩薩の「仏法の大海は、信をもって能入となす」という有名な一文を引くまでもなく、仏の世界に順ずるためには、<信>の躍動は最重要事項です。

多川俊映「唯識 こころの哲学 138p」

引用中の龍樹の言葉は、『大智度論』にある言葉です。
浄土真宗の祖、親鸞も信心をきわめて強調した仏教者です。龍樹を七高僧の筆頭にあげていることからも、影響が強くうかがわれます。「涅槃の真因は唯だ信心をもってす」、などの言葉に見られるように、信心こそが浄土に入るただ一つの原因であると断じています。
しかし、この信心は、決して昨今の献金問題に見られるような“盲信”とは同じではありません。

仏教が考える「信」はこのように知・情・意にまたがる総合的なはたらきで、よいくいわれる盲目的信仰なぞとはまったく異質なものであることがわかります。とくに「実を信忍する」という知的なはたらきが最初に取り上げられている意味は、はなはだ重要です。

同p139

文中にある「実を信忍する」は、実とは存在するものすべてと、それを貫く真理を認識するということ。つまりこの世のあらゆるものは縁起(因縁生起)の存在であり、ゆえに不変の実体ではなく、つねに変化の中にあるとしっかりと了解するということです。
そういう知的な営みの上に、「信じる」ということが成り立つのですね。「知性も理性も捨てて、ただ人の言うことをそのまま信じていること」がすごいのだ、という考えとはまったく違うものであることが分かります。知的な営み、理性的判断を放棄せずに、その上で信じるということ。それこそが心の浄化を促していく、善なのだ───。
そのように主張しているように思われます。

・自分の言葉を信じていく

自分でも同じような似たようなことを繰り返し書いているなと思うときがあります。しかし、そこが問題の“底”であり、同じような課題に遭遇しているということは、そこが大きなウィークポイントであり、問題点であるワケです。
そう思ったとき、「ああ、また同じ事にぶつかっているな。これが自分の軸になる問題なんだな。乗り越えよう」と受け入れて進んでいけばいいわけです。
「自分の課題は、ここだ」と確信したら、あとはそのことを信じて、行動をし、やり抜いていく。らせん階段のように同じ所をぐるぐる回っているように見えて、じつは先に進んでいるのです。大学時代カウンセリング、心の治療も似たようなところがあると、教官から教えてもらいました。

たといためになることを数多く語るにしても、それを実行しないならば、その人は怠っているのである。牛飼いが他人の牛を数えているようなものである。

ウダーナヴァルガ(強調ー引用者)

修行僧は、つとめはげむのを楽しみ、放逸(なおざり)のうちに恐ろしさを見る。自己を難処から救い出す。───泥沼に落ちこんだ象のように。

ウダーナヴァルガ(強調ー引用者)


他人の牛を熱心に数えるのではなく、自分自身をまず救い、そして学んだことを他者に伝え、その人たちも救う。
そういう牛飼いのように、日々過ごしていきたい。
過去、自分が語ってきたこと、汗を流し取り組んできた内容を信じていくこと。
自分ほど大事なものはないのですから。

いいなと思ったら応援しよう!