【かつらのお話:月代】
月代。なんと読むのでしょうか。
こんにちは京都時代劇かつらです。
今回は時代劇はもとより、日本人男性の伝統的髪型の中で一番の特徴とも言える【月代】のお話です。
時代劇の月代
『羽二重』
【月代】は【さかやき】と読みます。
前頭部から頭頂部にかけて剃りあげている部分です。他に【逆気(さかいき)】、【月額(つきびたい)】とも言います。
時代劇のかつらでは【中剃り(なかぞり)】とも呼びます。
時代劇では、俳優さんの地毛を剃るわけにはいきません。月代の部分は、鹿革だのゴム製だの思われることが多々ありますが、【羽二重(はぶたえ)】を巻いています。
羽二重は、名前の通り紋付きの着物などに使われる高級白生地ことで、正絹の白生地に溶かした鬢付け油(びんつけあぶら)を染み込ませて作ります。
油を染み込ませた羽二重は強度が増し、頭にフィットするようになり、地毛を固定できます。また粘着性がでて、かつらのズレを防いでくれます。
舞台では、この羽二重にドーランで肌色、剃り跡に見えるよう月代部分に青黛(せいたい)を塗り完成します。
映像は舞台と違いアップになりますから、舞台の羽二重のままではおでこの境い目が見えてしまいます。境い目をわからなくするために、映画の羽二重には、つぶしと呼ばれる粘土状のものを塗ります。
皮膚と羽二重の境い目を埋込み、平らにし、その上からドーラン、青黛を塗り、まるで本当に剃りあげているかのように見せています。
最近の時代劇では画質が良すぎるため、特殊メイクで月代を作ることも増えてきました。
ともあれ、材料や仕様は違えども、月代は時代劇のかつらでも一番特徴のある部分ではないでしょうか。
『江戸時代は朝から大変!?』
そう言えば昔、ある俳優さんがメイク室で支度中
「昔の人は大変だね。毎日朝早くから羽二重を着けて、境い目を隠してかつらを掛けていただなんて。」
と、しみじみとおっしゃったことがあります。
毎日撮影続きで、夜も明けぬ早朝から羽二重を着けてメイクし、かつらを掛けて大変な思いをしていたその俳優さん。
江戸時代の人も自分と同じように羽二重を巻きかつらを掛けて支度していたと、勘違いからの言葉でした。
嘘のような本当の話で、たまに笑い話のように思い出す時があります。
さて、特徴的な月代ですが昔は当然、実際に地毛を剃り落としていました。
なぜ月代を剃り落としていたのでしょうか?
起源は様々あります。
その中でも【兜下の蒸れ防止】説が一般的です。
まずは時代は1200年近く遡ります
平安時代
『冠と烏帽子』
『光る君へ』の平安時代は貴族も庶民もまだ月代は剃っていませんでした。
総髪で髻(もとどり)をとり、その上から冠や烏帽子、頭巾を被っています。
髪をお団子のようにして頭頂部に纏めたり、頭頂部で髪を一束にして紐を巻き立たせ、毛先を切り揃えたりしていました。
冠(かんむり)や烏帽子(えぼし)はこの髻に笄や紐で固定します。
内裏雛の男雛を思い出してみてください。
頭に乗る立纓冠(りゅうえいかん・りゅうえいかんむり)には特徴的な筒状の出っ張りがあります。そしてその根元に棒状のものが飛び出ています。
筒状の出っ張りを巾子(こじ)、棒状のものを笄(こうがい)または、簪(かんざし)といいます。
この巾子の中に髻を入れ、笄で貫いて冠を固定していました。烏帽子は小結とよばれる紐を内側に付け、髻の根元に結びつけて固定していました。
『光る君へ』で柄本佑さん演じる藤原道長の、紗の立烏帽子から透ける髻がまさにそれで、匂い立つような色気が漂っています。
『月代の登場』
平安も後期になり『鎌倉殿の13人』の頃になると武士が台頭してきます。この頃から大鎧(おおよろい)が発達し、ご存じの兜(かぶと)を被るようになってきます。
当時の兜は頭頂部に穴が空いており、そこに髻を出して固定していました。
冠、烏帽子と同類の仕組みです。
しかし、重みを髻の一点で支えることになり、耐え難い強烈な痛みが襲います。
また、戦中の兜の中は大変蒸れ、汗が頭頂部に溜まります。決して清潔とは言えず皮膚病に悩まされた武士もいたそうです。
ここから蒸れ防止と頭の清潔を保つために、いよいよ【月代】が生まれます。
鎌倉時代
『実用の月代』
必要に迫られて生まれた月代ですが、最初期は剃らずに毛を抜いていたそうです。
なんと、毛髪を【引き抜く】のです。
剃刀を使わず引き抜くのですから、戦支度の時は頭は血だらけだったでしょうね。
ただ、この時代はまだ戦の時だけ月代を作っていたので、普段の生活に戻ると、頭も総髪に戻っていました。
普段は総髪に髻をとり、自分の領地で田畑を耕し、いざ戦へとなったら、髪を引き抜いて月代を作る。
美意識とはかけはなれた、なんとも驚きの風習だったのです。
戦国・安土桃山時代
『象徴の月代』
そこから時代が下り、『どうする家康』の戦国の世になると、自分の領地に戻る暇もないほど戦、戦の日々となり、月代も常に作っている時代に入ります。
寝る時ですら脱がなかった烏帽子もこの頃には着けなくなり、月代は武士の象徴となってきます。
戦う男のシンボルになったわけですから、落武者があのイメージなのも納得です。
『どうする家康』でも物語中盤から続々と月代姿へと変わっていました。
月代を剃るエピソードがあったのも、それだけ特徴的な出来事だったわけです。
ところで、「月代を剃っているのは年齢を重ねてきたときに、薄毛でもバレない為だ。」とか、「薄毛隠しに月代は合理的だ」などとたまに耳にします。
わざわざ剃るくらいなんだから、はじめから薄毛や禿げ(はげ)でも変わらないじゃないかとの考えだと思われます。
しかし月代は【毎日剃る】のが武士の身嗜み、ステイタスだったので、剃る毛がないのは憐れでみっともないと思われていました。
当時でも薄毛や禿げの人はコンプレックスに感じていたようです。
一説には、織田信長に「月代も剃れぬ」「きんか頭」と、事有る毎に薄毛をバカにされた明智光秀は、その積年の恨みから本能寺の変を画策したとかなんとか。
本当かどうかは分かりませんが、そんな説が出るくらい、月代を剃るのは武士のステイタスだったのでしょうね。
『憧れの月代』
鎧の拵えや、肩衣袴(かたぎぬはかま)や小袖の染織の意匠、髪型の目新しさと、武士はその存在が、流行の先駆者へと変わってきます。
そうするとファッションリーダーに続けとばかりに、月代も庶民の間に広がってきました。
驚きの風習であった月代に美意識が加わりお洒落の一つと変化します。
月代は奇異なものではなく、憧れの存在となっていったのです。ですから戦とは関係のない庶民まで月代を剃るようになったのですね。
ここから武士のステイタス【月代】は、より広く大きくなっていきます。月代のファッション性が強くなった証拠です。
ファッションはより大きく、より小さく、より広く、より狭く、より太く、より細くと、より◯◯に変化するものです。
戦国大名の肖像画をみると、烏帽子や冠を被ってない大名は月代が広く、そこに棒茶筅(ぼうちゃせん)や切藁(きりわら)の髷が描かれています。
広い月代に切藁や棒茶筅は今で言うと、フェードカットのような雰囲気でしょうか。
地肌が見える襟足から頭頂部へ向け綺麗なグラデーションで男らしさと力強さを全面に出し、そこにトップの毛流れとヘアグリースの艶感でお洒落感をプラスして。そんな雰囲気の髪型です。
北野武監督の『首』では、往年の黒澤映画を彷彿とさせる大きな月代に低い鬢(びん)、そこに切藁や棒茶筅の戦国らしい髷か彩り、東宝映画の伝説の技髪、山田順次郎師を思い出す出来栄えでした。
山田順次郎師は山田かつらの創業者であり、黒澤明監督が最も信頼していた技髪師(かつら師・床山)です。
京都は大将軍にあった日活撮影所を出発点とし、上京後は調布の東宝撮影所などでその技術を大いに発揮し、東宝に山田あり、黒澤組に山田ありと謳われた技髪師です。
山田順次郎師が基礎を築いた山田かつらは、映像の分野では最大手の会社です。時代劇だけでなく現代劇や舞踊に婚礼、またバラエティーでよく目にするかつらも手掛けています。
志村けんさんのバカ殿様の、あの印象的な棒茶筅のかつらも、山田かつらの作品です。
さて、話を月代に戻しましょう。
江戸時代
『礼儀の月代』
江戸も開府し、いよいよ天下太平の時代となると月代は元服後には必ず剃る日本男子の身嗜みとなり、一気に文化として様々な形、髪型が流行します。
何世代にも渡り月代を剃っていると、いつしか当たり前の身嗜みになったのです。
以前は寝るときまでも烏帽子は脱がず、
『頭頂部を見せるのは究極の恥』
だったのが、時代が経つと
『頭頂部を綺麗に剃り上げ、見せるのが礼儀』
に変わるのですから面白いですよね。
礼儀となった月代は、江戸の初期には威勢のよい闘犬額(とうけんびたい)や四角額(しかくびたい)が流行したそうです。これは月代を広く剃りあげた形であると文献にはあります。
が、なにせ写真も動画もない時代。しっかりとした絵も残っていないので、時代劇ですと、先ほどの東宝時代劇でよく目にする雰囲気なのかなと想像するにとどまります。
その他にも鬢を細くした糸鬢(いとびん)や、三味線の撥に似た撥鬢(ばちびん)も流行しました。
こちらも月代を広く大きく剃り上げます。
ただ、糸鬢くらいの鬢の細い、月代の広い頭となると、なかなか時代劇かつらでは再現できません。大昔の時代劇映画でチラっと見た覚えがあるくらいです。
映像では作り物はバレ物が多くなりすぎてしまうのです。
歌舞伎のかつらでは、幡随院長兵衛や団七九郎兵衛の子の役で、糸鬢を見ることができます。歌舞伎のかつらは、当時の髪型を受け継いでいるものが多く、大変勉強になります。
『色気の月代』
さてその後、江戸では本多髷(ほんだまげ)が大流行します。流行の中で数々の本多髷がうまれました。
この本多髷の中でも特に印象的なのが【疫病本多(やくびょうほんだ)】です。
放蕩が過ぎて病にかかり、毛髪が薄く窶れた(やつれた)雰囲気を出すため、わざと毛量を減らし月代を広くしています。
実際には病になどなっていないのに、わざわざ窶れた雰囲気にしているのです。
この髪型は、通人(つうじん)に非常に好まれました。通人とは花柳界に明るい粋な人のことで、「いやあ、ツウだねえ」なんて言われる人です。
血気盛んな男らしさより、どこか弱々しい中に世のあわれと色気を醸し出していたのです。
どことなく儚い姿に母性本能をくすぐられた花街の女性達に、疫病本多の男性達は大層モテたそうです。
ここにきて、男臭さより【色気】が重視される時代となります。
筋骨隆々な色黒短髪髭男子より、色白ツイスパセンターパートの美容男子が流行りな現代とも、なにか通じる所がありますね。
ものの儚さに美や色気を感じる。
日本人らしい感性の詰まった髪型とも言えます。
この【疫病本多】の月代と髷、これもまた時代劇のかつらで表現するのはなかなか難しい髪型で
す。
なかなかというか、ほぼ時代劇で目にすることはできない珍しい髪型です。以前、NHK金曜時代劇で見た覚えがあるくらいで、その後見たことがありません。
薄く透ける鬢、長楊枝を思わす細い髷。浮き根の根取り、だらりと垂れた髱(たぼ)の色気と、なかなか作り物では出来ない貴重な髪型です。
『忠義の月代』
さて、江戸も後期になると、月代の広さは徐々に狭くなり、髷は落ち着いた雰囲気の銀杏髷(いちょうまげ)で、武士の大銀杏(おおいちょう)、町人の小銀杏(こいちょう)が流行ります。
ほどほどの広さの月代に銀杏髷のスタイルは、現代で言うなら、綺麗に調髪された清潔感溢れる七三分けの爽やかサラリーマン、エリート銀行員のイメージでしょうか。
キリッと凛々しく、忠義に篤い。日本人と言えば礼儀正しく、誠実と海外の方が抱くイメージ。
日本人の気質の基礎を作った髪型とも言えるのではないでしょうか。
この月代・髷の時代は第11代将軍、徳川家斉公が治める時代と重なり江戸文化円熟の時代です。
大河ドラマではなかなか舞台になる時代ではなく、家斉公が出ている大河ドラマは今までないとも聞いたことがあります。
そんな平和で様々な文化が隆盛、円熟した時代が、蔦屋重三郎を主役にいよいよ大河ドラマで描かれます。
来年スタートの『べらぼう』です。
やっと家斉公も大河ドラマ初出演でしょうか。
一方、大河ドラマでは珍しい時代でも、テレビ時代劇では逆に定番中の定番です。
『名奉行遠山の金さん』『三匹が斬る!』『鬼平犯科帳』『剣客商売』など
東映時代劇、松竹時代劇に代表される、THE時代劇が舞台とする時代です。月代と髷の雰囲気も、「時代劇と言ったらこれ!」と思われる方も多いのではないでしょうか。
『矜持の月代』
その後、いよいよ江戸時代も終わりに近づき
『青天を衝け』の激動の幕末へと時代は移ります。
この時代の月代はさらに頭頂部が狭くなります。ただし額は広くとるため、こめかみの辺りの生え際、かつらでは小額(こびたい)と呼ばれる部分は剃り落とし、生え際は一直線になっていました。
これが時代劇のかつらの刳(くり・生え際)との違いであり、歌舞伎の羽二重かつらの方が、より幕末の月代に近い物になっています。
また講武所風(こうぶしょふう)と呼ばれた月代が、若侍や武芸者の間で大流行します。
極限まで狭く落とし、髷がのれば隠れてしまうほどの月代です。
長州の高杉晋作は、お対の着物に散切頭の古写真が有名ですが、武具に身をつつみ講武所風に落とした月代姿もまた古写真に残っています。
時代劇かつらでは、出島(でじま)とも呼ばれ、月形半平太の髪型でもお馴染みです。
月形半平太は時代劇オリジナルのキャラクターですが、そのモデルは、土佐藩郷士の武市瑞山(武市半平太)です。
武市瑞山の肖像画もまた講武所風の月代になっています。
また、出島の狭い月代に髷は弾き茶筅(はじきちゃせん)で後ろに垂らした幕末の有名人もいます。
新撰組の沖田総司です。
尊皇攘夷派の高杉晋作や武市瑞山も、幕府側の沖田総司も、講武所風の月代の侍達は日の本のことを想い、日の本の為に動きました。
若き志士達が誰かを想い守る為、人生を賭けた。そんな熱い想いが講武所風の月代には秘められています。
幕末の月代は、現代で言うなれば、マンバンのような感じでしょうか。
男らしさの中にお洒落感もありつつ熱き志で自分の人生を進んでいく、孤高の雰囲気をも持った、そんな髪型です。
幕末には日本にも写真機が上陸しています。
近年様々な幕末の写真が発見され、本物の月代を見ることができます。
本物の月代には、凛々しさと日本人としての矜持、そして色気も感じとれます。
明治時代
『月代の終焉』
しかし江戸時代の終わりが近づくにつれ、月代にも終わりが近づきます。
明治四年八月九日、散髪脱刀令が発布されます。俗に言う断髪令です。
西洋から学べ、遅れをとるなとの号令の中、次々と断髪し月代を伸ばす時代となります。
所謂、『散切り頭を叩いてみれば、文明開化の音がする』です。
誤解があるようですが、散髪脱刀令は、月代を剃り髷を結い上げるのを禁止するものではありません。
『頭髪は勝手自由。善きにはからえ』
との御達しです。
『今まで月代を剃り、髷を結い、身分や職業によって細かく定められていた頭髪を、もう散髪して皆自由にしていいよ。』
自由にしていいよで、禁止されたわけではないので、月代に髷のままでもよいわけです。
しかし富国強兵、西洋化が尊ばれた明治では、人々は次々に髷を落とし月代を伸ばしました。
そんな中、高齢の方は、月代を剃るのが身嗜みの常識として、生活に染み付いています。
「月代は剃るのが身嗜み、月代を伸ばして人様に会うだなんてみっともない。失礼だ。」
これが江戸時代までの常識でした。
「寝癖のついた髪で無精髭伸ばしてみっともない。社会人ならちゃんとしろ。」
現代で言うならこんな感じでしょうか。
ですから、ご高齢の中には明治の御代も月代を剃り、僅かに残った髪で結った髷、【ちょんまげ】を続けていた人もいました。
幕末明治が舞台の朝ドラ、『あさが来た』でも、明治に入り皆、月代を伸ばし髷を落とす中、近藤正臣さん扮する加納屋の隠居、白岡正吉は亡くなるまでずっと月代を剃り髷を結っていました。
一度染み付いた身嗜みの常識は、なかなか変えることはできなかったわけですね。
さて、明治20年も過ぎてくると、月代姿の人々も徐々に鬼籍に入ります。髷は大相撲に残りましたが、1000年以上に渡る日本男子の月代は明治の後期には遂に姿を消すことになりました。
1000年もの長きに渡り月代はなぜそんなに続いたのか。それは日本男子の美意識であり、何より誇りだったのではないでしょうか。
令和
『月代の復活』
姿を消してから百有余年。
時代劇でしか目にすることがなくなった月代ですが近年、月代姿が復活し、その輪が広がってきています。
地毛ちょんまげの皆さんです。
月代を剃り、地毛で髷を結い、日本古来の髪型を体現されている方々です。
今回、月代のコラムを執筆するにあたり、地毛ちょんまげの皆さんに並々ならぬご協力を賜りました。
貴重なお写真をお借りして、作り物ではない本物の月代と髷を、読者の皆さんにご覧いただくことが出来ました。
この場を借りて厚く御礼申し上げます。
ご協力いただきました、地毛ちょんまげの皆さんは個々でsnsもされています。リンクを載せておりますので、ぜひ皆さん覗いてみて下さいませ!
南部信風さん X @nobukaze_nambu
南部信風さんは戦国の世、特に織田信長公を敬愛されています。
信長公の肖像画に合わせ大月代を剃り、普段も着物しかお召しになられない本格戦国派のまさに武将です!
本格的な安土桃山様式の肩衣、袴をお召しになった姿は戦国大名そのもの。
鎧もお持ちで、全国のご当地戦国武将おもてなし隊より本格派です!
まげメガネさん
まげメガネさんは、地毛ちょんまげの皆さんの集まり【月代組】を主宰されていて、今回の私の取材に対し窓口にもなっていただき、並々ならぬご尽力を賜りました!
noteでは、日々徒然なるままに、毎日更新されています。また、沢山のsnsで情報も発信されています!
各snsのリンクまとめを作っていらっしゃいますので、様々なまげメガネさんを各媒体でご堪能下さいませ!
まげメガネさんは、疫病本多の色気を私に気付かせてくれた恩人でもあります。
井出雄斗さん X @tarakosan114
井出雄斗さんは、若さ溢れる20代。着物や絵画、和文化にも造詣が深く、月代と髷の美しさに魅了され、日々結髪を研究されています。
またYahoo newsや、Abema primeでもご紹介されたのでご存知の方も多いのではないでしょうか!
地毛ちょんまげ界のプリンス、もとい若様です!
中元義詮さん Instagram hagi_samurai
中元義詮さんは常に侍との意識を忘れず一本筋の通った、まさに令和の侍です。
また、山口県は萩でその名も【萩侍】と言うお好み焼き屋さんを営んでいらっしゃいます!Instagramでは、カッコいい侍姿と共に美味しそうなお店の雰囲気もUPされています!
お近くにお越しの際は、ぜひお立ち寄りくださいませ。
私もいつか萩へ行った際は、ぜひおじゃましたいと思います!
さて、次回はそんな地毛ちょんまげの皆さんに色々と質問します。
気になるあんなことや、こんなこと。
こんな機会はなかなかありませんので、私もとても楽しみです。
次回もどうぞお楽しみに!
※当noteでご紹介する写真は、全て筆者撮影のオリジナル写真です。
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