父は忘れる - 週刊カツオ #11
人は、初心を忘れます。
父親も、初心を忘れることがあります。
子どもが生まれた時、どれだけ嬉しかったかを。
年月は人を変える、といいます。
年月は、人を慣れさせます。
慣れとは恐ろしいもので、家族がいるのが当たり前、子どもがいるのが当たり前という感情が湧いてきます。
家族がいることが当たり前になると、ちょっとしたすれ違いが生じたときに、「父である自分を大切にしてくれない」と感じたり、子どもたちが自分の思い通りにならないと、怒鳴ってしまったり。そして、気持ちが落ち着くと、自分の犯した過ちに「なんてことをしてしまったのか」と後悔し、反省します。
本当は、もっと大切にしたい。仲良くしたい。自分の知っていることを全て教えてあげたい。なんなら、自分がどうなってもいいから、子どもには、家族には、どうか幸せになってほしい。本当にそう思える存在なのです。
それだけ尊い存在であるにもかかわらず、人間は弱いもので、自分自身が可愛いときもあり、子どもや家族と行き違いが生じることもあります。
例えば、反抗期を迎えた子どもが返事をしなかったことに腹を立てた私は、子どもを叱りつけますが、その叱ったことに反論され、叱った後の空気の悪さだけが残ることがあります。返事をしなかったことに対する改善どころか、さらに関係が悪化したような状況です。
叱った後、少し気持ちが落ち着いてくると、もっと違う言い方ができたのではないか、という後悔の念が湧いて来て、大切な人のことを大切にできない自分が情けなくなります。
そういう時に自分ひとりで悩んでも堂々巡りに陥るので、本の助けを借りることがあります。私が本棚から取り出し、反省しながら読む本が2冊ありますので、ご紹介します。
デール・カーネギー「人を動かす」
書名の通り、人を動かす、つまり人間関係について書かれた名著です。私は20代でこの本に出会い、以来、悩んだ時に紐解いては、著者のカーネギーさんから厳しく優しい言葉をいただき、自分を立て直しています。
さて、この本には、有名な詩が載っています。
リビィングストン・ラーネッドという人の書いた、「父は忘れる」という詩です。
少し長いですが、読むたびにハッとする詩なので、あえて要約などせず、全文引用します。
父は忘れる
坊や、きいておくれ。お前は小さな手に頬をのせ、汗ばんだ額に金髪の巻き毛をくっつけて、安らかに眠っているね。お父さんは、ひとりで、こっそりお前の部屋にやってきた。
今しがたまで、お父さんは書斎で新聞を読んでいたが、急に、息苦しい悔恨の念に迫られた。罪の意識にさいなまれてお前のそばにやって来たのだ。
お父さんは考えた。これまで私はお前にずいぶんつらく当たっていたのだ。
お前が学校に行く支度をしている最中に、タオルで顔をちょっとなでただけだといって、叱った。靴を磨かないからと言って、叱りつけた。
また、持ち物を床の上にほうり投げたといっては、どなりつけた。
今朝も食事中に小言をいった。食物をこぼすとか、丸呑みにするとか、テーブルに肘をつくとか、パンにバターを付けすぎるとかいって、叱りつけた。
それから、お前は遊びに、お父さんは停車場へ行くので、一緒に家を出たが、別れるとき、お前は振り返って手を振りながら、「お父さん、行ってらっしゃい!」といった。すると、お父さんは、顔をしかめて、「胸を張りなさい!」といった。
同じようなことがまた夕方に繰り返された。
わたしは帰ってくると、お前は地面に膝をついて、ビー玉で遊んでいた。長靴下は膝のところが穴だらけになっていた。お父さんはお前を家に追いかえし、友達の前で恥をかかせた。「靴下は高いのだ。お前が自分で金をもうけて買うんだったら、もっと大切にするはずだ。」― これが、お父さんの口から出た言葉だから、われながら情けない!
それから夜になってお父さんが書斎で新聞を読んでいるとき、お前は、悲しげな目つきをして、おずおずと部屋に入ってきたね。うるさそうにわたしが目を上げると、お前は、入り口のところで、ためらった。「何の用だ」とわたしが怒鳴ると、お前は何も言わずに、さっとわたしのそばに駆け寄ってきた。両の手を私の首に巻き付けて、私に接吻した。
お前の小さな両腕には、神さまがうえつけてくださった愛情がこもっていた。どんなにないがしろにされても、決して枯れることのない愛情だ。やがて、お前は、ばたばたと足音をたてて、二階の部屋へ行ってしまった。
ところが、坊や、そのすぐ後で、お父さんは突然何ともいえない不安におそわれ、手にしていた新聞を思わず取り落としたのだ。
何という習慣にお父さんは、取り付かれていたのだろう!
叱ってばかりいる習慣―まだほんの子供にすぎないお前に、お父さんは何ということをしてきたのだろう! 決してお前を愛していないわけではない。お父さんは、まだ年端もゆかないお前に、無理なことを期待しすぎていたのだ。お前を大人と同列に考えていたのだ。
お前の中には、善良な、立派な、真実なものがいっぱいある。お前の優しい心根は、ちょうど、山の向こうからひろがってくるあけぼのを見るようだ。お前がこのお父さんに飛びつき、お休みの接吻をした時、そのことが、お父さんにはっきりわかった。
ほかのことは問題ではない。お父さんは、お前にわびたくて、こうしてひざまずいているのだ。
お父さんとしては、これが、お前に対するせめてものつぐないだ。昼間こういうことを話しても、お前には分かるまい。だが、明日からは、きっと、よいお父さんになってみせる。お前と仲良しになって、一緒に喜んだり悲しんだりしよう。小言をいいたくなったら舌をかもう。そして、お前がまだ子供だということを常に忘れないようにしよう。
お父さんはお前を一人前の人間と見なしていたようだ。こうして、あどけない寝顔を見ていると、やはりお前はまだ赤ちゃんだ。昨日も、お母さんに抱っこされて、肩にもたれかかっていたではないか。お父さんの注文が多すぎたのだ。
そう、お父さん(私)の注文が多すぎたことを思い出します。そして、私の言い方では、子どもに伝わらないから、もっと工夫しようということなのだと思います。
人を動かすには、自分はまだまだ修養が足りません。「人を動かす」を読み返すたびに、いつの日にか、「父は忘れない」と言いたいと思うのです。
青山美智子「猫のお告げは樹の下で」
2冊目は、この小説です。
7つの短編集で、それぞれの話の主人公がふと立ち寄った神社で出会う、お尻に星のマークがついた「ミクジ」と呼ばれる猫がもたらす「お告げ」の書かれた葉っぱ。思い悩む主人公は、書かれた言葉に初めはピンと来ないのだけれど、壁にぶつかって「お告げ」の言葉の意味に気づくと、運命がガラッと変わっていくというお話の集まった、優しい一冊です。
この本の中の2話目、「チケット」には、中学生の娘と仲良くなりたい父親のストーリーが描かれています。
思春期の娘を持つ父は、娘を心配に思うあまり、ついつい何でもダメだと言ってしまいます。
娘の好きな人気アイドルグループのライブのチケットにまつわるストーリーで、親娘は少しずつ距離を縮めていきます。そして、物語のラストに父は思い出すのです。
「お母さんのおなかにおまえがいるって知ってから、おまえに会うのがすごくすごく楽しみだったよ。大好きだって思ったよ」
不思議な猫、ミクジからの「チケット」というお告げが、思い出させてくれたのでした。
子どもが生まれた時のことを、父は覚えています。鮮明に覚えています。人生最高の日のことを、ホントは忘れるわけがないんです。
でも、父は忘れます。
そして、思い出しては後悔し、反省します。
結構、何度も繰り返してしまいます。
この繰り返しを防ぐために、私は繰り返し、この2冊を読んでいます。
読んで思い出し、また少し忘れては後悔し、反省し、また読みます。
「父は忘れない」と言える日まで。
今回もお読みいただき、ありがとうございました。