言葉のない対話
前回、伊豆に行った際、絵をいただきました。
兄弟子からのプレゼントです。
そもそも、絵とはほぼ縁がありません。
描くのも、観るのも。
兄弟子は前職?が絵に関するお仕事をしていて
時々、絵に関するお話を聞くことがあります。
そんな兄弟子からのプレゼント。
いただいた時の第一声は、
「これって何の絵ですか?」
パッとみて、梵字?リーゼント風な髪型?
何が描かれているのか、まったく分からず
咄嗟に聞いてしまいました。
「そんなことは絵に聞け」
というのが兄弟子の答えでした。
まあ禅僧らしい答えではありますが•••
普段の兄弟子はこんなことを言う雰囲気の方
ではありませんので、ちょっと驚きましたが、
やっぱり兄弟子も禅僧なんだ
と再認識しました。
当たり前といえば当たり前ですが。
せっかくの兄弟子からのプレゼントですので
東京に戻り、毎日、絵と向き合っています。
坐禅をする際に、前に置いたりもしています。
それ以外の時も、時間があるときは
できるだけ、絵を眺めるようにしています。
2週間経って、
何の絵なのかは•••
さっぱり分かりません。
「絵に聞け」
と言われましたが•••
なかなか絵はしゃべってくれません。
これも当たり前といえば当たり前ですが。
ただ、向き合い方が少し変わってきました。
はじめのうちは、
この絵は何だろう?
ということを考えながら向き合っていました。
というよりも、
この絵は何の絵なんだろう?
ということを考えるために向き合ってました。
それが2週間経って、
最近は、あまり考えなくなりました。
諦めたのか、めんどくさくなったのか。
あるいは興味を失くしたのか。
この絵は何だろう?
ということは抜きにして、ただ単に
絵と向き合っていることが多くなりました。
考えてみれば•••
絵がしゃべるはずがないんです。
絵が言葉で何かを伝えてくれるなんてことは
あり得ません。
絵が自分に何かを伝えてくれるとすれば
それは、言葉ではない何かによって
伝えてくれるんだと思います。
不立文字
禅の教えは文字や言葉では伝わらない
そういうことを教えている言葉です。
言葉のない対話
兄弟子が教えてくれたのは、絵と自分の
こういう対話だったのかもしれません。
そして、目的や課題、問いをもった時点で
言葉ではない対話は生まれないものなんだ
と思います。
目的も何もなく目の前にあるものと向き合う。
絵と自分が一体になるような向き合い方。
そういう向き合い方の先に
言葉のない対話
が生まれてくるのかもしれません。
しばらくはこの絵とただ向き合ってみたいと
思っています。
•••そうすれば、何の絵かがわかるかも。
ついついそう考えてしまう自分の未熟さが
かわいくて、ほほえましいです。
宗慧
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