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気がつけばお寺の住職⑥

20年くらい前に聴いたお坊さんのお話。

・世の中は思い通りにならない

・なのに思い通りにしたいと思うから苦しい

・思い通りにしたいのは自己への執着(自分が何より大切だと思う気持ち)があるから

・でも、そもそも執着しているはずの自己なんていうもの自体がない

・いろいろ考えてみると、確かに、普通に自分自身の実感としてあるような独立した自己なんていうものは存在しない

・絶えず動き回っている素粒子が遍満した空間のここからここまでが自分なんだと勝手に主張し、それが事実であるかのように思い込んでいるだけ

・そんなそもそもの存在自体があいまいな自己なんていうものに執着して、自分自身を苦しめているなんて、バカらしい

だから・・・苦しみがなくなって、もっと楽に生きていけるはず・・・でしたが、決して楽にはなりませんでした。

このときの気持ちは、誇大広告や誇張宣伝を信じて買ったにも関わらず、これまで使っていたものと、何ら違いがなかったときのガッカリ感と似たようなものでした。

一方で、「まあそんなに甘くはないよね」、「宗教なんてそんなもんだよね」っていう醒めた自分もいました。

それからは、仏教や宗教について考えることもなく、それまで通りビジネスマンとして忙しい日常を過ごしていました。

そんな日常が1年くらい続いたある日、たまたま今の老師と出会いました。

老師とは、以前にお会いしたことがありましたので、正確には再会しました。

ただ、老師との初めの出会いは、僧侶なんだという認識のない出会いではありました。

場所は東京の八丁堀にある喫茶店の喫煙室。

たまたま時間調整のために入った喫茶店で、たまたま時間調整のために入って来られた老師との再会。

しかも、会ったことがあるとは言っても、そこまで深く面識があったわけでもありませんので、おそらくお互いに狭い喫煙室に入らなければ、存在に気づくことも、声をかけることもなかったはずです。

はじめのうちは当たり障りのない雑談をしていましたが、老師が僧侶であるということを聞いて、少し前にお坊さんの話を聴いたこと、仏教を学べば苦しみがなくなり、楽に生きられると思ったのにまったくそうはならなかったこと、そんな話をしてみました。

老師はニコニコと自分の話を聞いていて、

まあそんなもんだ

といわれました。

自分の中ではどこか、老師に「こういうふうに考えれば苦しみはなくなる」というアドバイスが欲しかったんだと思います。

でも、老師からもらったのは、

まあそんなもんだ

という素っ気ない一言でした。

僧侶であるこの人が、こんな感じであれば、仏教なんてしょせんそんなもので、苦しみをなくしてくれるような画期的なパワーなんてないんだと改めて認識したように思います。

時間的には10分か20分くらいだったように思います。

たまたま出会って、一緒にタバコを2、3本吸って、適当に話をして、そして別れて。

ただ、それだけのことで終わるのかなあと思っていたら、別れ際に老師からいわれました。

うちの寺に来て坐ってみないか

どういうつもりで言われたのか、その時には何も考えませんでしたし、単なる社交辞令のような感覚で、「はい」と返事をしました。

今から思えば・・・

人の話を聴いたり、頭で考えただけで苦しみはなくならない、そもそも自己なんて存在しないっていうことを自らの体験として体得しなければ、仏教の教えなんて何の意味もない

そんな老師なりのありがたいアドバイスだったのかもしれません。

たまたまの出会いも、そこに意味を見いだせば、ありがたい「ご縁」に変わります。

自分にとって、この日の老師との出会いが、まさにありがたくて不思議な「ご縁」でした。

宗慧

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