【レビュー】『ウィーアーリトルゾンビーズ』無理ゲーの攻略法
『ウィーアーリトルゾンビーズ』に寄せられる批判は非常に象徴的だ。
「PVみたい」「表面的な映像」「物語の希薄さ」など、ある種のクリシェとも言えるわかりやすい批判。
そして、長久充監督の出自(広告代理店のCMプランナー)を根拠にすることでそこに納得を付与させる。
しかし、シニシズムとニヒリズムをユーモアで絡めとった『ウィーアーリトルゾンビーズ』が批判的に描いているのは、まさにその“わかりやすい批判”である。
ある事象とある根拠を単純に接続し、納得をすることで、その奥にある複雑なものを見ようとしない態度への批評的な視点がある。
『ウィーアーリトルゾンビーズ』は、それを子供と大人の関係性として描いている。
大人には子供が解像度の低い8ビットのキャラクターとして見えてしまう。
子供が考えている真意がわからない。
わからないから単純でわかりやすい枠組みに押し込る。
もっと複雑で濃淡のある人間を、単一的で画一的なキャラクターとして処理しようとする。
その過程で漏れてしまうものにこそ人間の生はあり、それを切実に見つめようとするのが『ウィーアーリトルゾンビーズ』である。
主人公の少年少女は両親を亡くしている。しかし、肉親の死に涙が流れない。
「感情を失ってしまったゾンビのように生きている」ように見える。
そしてそれは、現代に特有の人間性の欠如としてわかりやすく認識され、過去との対比で嘆かれる対象になる。
バカバカしくて今更批判する気にもならないような言説がさも真実であるかのように語り継がれ、量産される。(これほどわかりやすくはなくても、相似形をなしている言説はあらゆる分野において散見されている)
子供はそんなに単純じゃない。
涙という具象が出てこなければ悲しいわけではないし、自分の振る舞いがどんな作用をもたらすかを知っている。
誰だって“わかりやすい子供”ではなかったはずなのに、そんな当たり前のことを忘れてしまう。
平気な顔をしている子供が平気じゃないこと、「大丈夫」という言葉が「大丈夫じゃない」を意味していることを、わたしたちは知っているはずだ。
そして、生まれてからずっと映像を目にしてきているわたしたちは、画面に映っていること、話している言葉を額面通りに受け取るほどうぶではないはずだ。
彼ら彼女らに何か特権性があるとすれば、生まれてきたことすら否定したくなるほどの絶望と孤独を抱えていることだ。けれどそれを否定しうるものもきちんと存在する。
長久允監督は、テーゼとアンチテーゼを即座に積み重ねることで世界の見方を突き動かす。
世の中に存在する二項対立をぶつけ合わせることで、観客を安住させない。あらゆるものに逆の価値観があり、それぞれの根拠を揺り動かし、思考を促す。
「PV的な」という批判が、思考を必要とせず、コマーシャルとして受動的に映像を受け取らせる映像技法のことなのだとすれば、それは的外れだ。
映像の即物的な切り合わせのように見える映画の裏側には、すべてがアルゴリズムで出来上がった8ビットゲームのように見える人生の裏側には、別の風景が広がっている。
本作の白眉は、イクコに女性性や母性(ヒロイン、少年たちの中の紅一点、疑似的なママと言い換えても良い)、そこから紡ぎ出す女性の聖性を徹底的に否定することだ。
ヒカリたちの妄想に対して、イクコは「キモイ、バーカ」と事も無げに切り捨てる。それが当たり前の振る舞いなのだ。
“少女”という属性に過度なイメージを付与しがちな映画に対するアンチテーゼであり、ここだけを切り取ってみても、監督たる長久允がどれだけ誠実に子供・少女を描いているかがわかる。
かつて映画評論家の真魚八重子は『映画なしでは生きられない』という著書の中で、生き辛さの中でただ生きることの意味を映画評論という形をとりながら証明してみせた。
「ただ生きること」は「生き辛さ」を自覚してしまった人間に許された逃走の、闘争の道である。
「生き辛さ」を自覚してしまうと、あらゆるものが鬱陶しく、愚劣に思え、否定によってしか生への根拠を見出せなくなってしまう。
それでもそれに立ち向かうだけの何かがあれば良い。闘争はそこからしか始まらない。
しかし、わたしはそんなに強くないのだ。闘争を始められるはずもなく、ひたすら逃走するしかない。
否定して否定して否定して、「生き辛さ」だけに雁字搦めになって戸惑うのだ。自問するのだ。どうすればこの「生き辛さ」から逃げられるのか、と。
おそらくそれは叶えられない。「生き辛さ」はどこまでも付き纏い、どこまで逃げてもそれに追われてしまう。そして際限なく囁きかけるのだ。諦めよ、諦めよ、諦めよ、と。
真魚八重子も長久允も、この世界、この社会が要求する否応ない「生き辛さ」をじっくりと見据えている。
けれど、「生き辛さ」を抱えてしまっていることを前提にして「生きること」も見据えている。
「生きたい」という情動はないけれど、それは「死ぬこと」を意味していない。
自分自身の物語を探して、選択して、「ただ生きること」は「死ぬこと」への精一杯の抵抗である。
そして映画はその選択を赦し、そっと後押ししてくれる。
「生き辛さ」に溢れた世界で、社会で「ただ生きること」という密やかな抵抗をしているのは、自分だけではない。それだけで先に進める人がいる。それだけで良い。
その賛歌は孤独と絶望に打ちひしがれてもなお、ニヒリズムとユーモアを同居させる人間たちにとっての光になる。
Text by 菊地陽介