海外で働けるトキシコロジストという研究者の道 - 8. 判断ミスが大惨事を招くことも
僕はアメリカの製薬会社でトキシコロジストとして働く日本人研究者です。前回、トキシコロジストが最も脚光を浴びる瞬間がIND申請 (Investigational New Drug Application, 治験申請)の時であるというお話をしました。
IND申請とは、新薬候補を初めてヒトに投与してその効果と安全性を確認する臨床試験(治験)を始めるために、アメリカの厚生労働省に当たるFDA (Food & Drug Administration)に研究開発資料を提出して、臨床試験開始の許可を求めることです。ヒトでの臨床試験のデータがまったくない段階なので、トキシコロジストが行った非臨床安全性試験(細胞・組織や動物での安全性試験)の評価が重要となり、そのためにトキシコロジストが脚光を浴びるのです。安全性に関わることなので、判断ミスを起こすと大惨事につながることもあり、トキシコロジストは脚光を浴びると同時に、重大な責任も負うことになります。
TNG1412事件
トキシコロジストの判断ミスにより、ヒトでの初めての臨床試験で大惨事を招いてしまったことがありました。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jscpt1970/37/6/37_6_367/_pdf
健常な男性のボランティアが参加した臨床試験で、不適切な判断で高すぎる投与量を設定してしまい、重篤な副作用が発生したのです。サイトカインストームと呼ばれる命の危険にもさらされる重篤な急性の副作用が発生し、手足の指の切断も余儀なくされる患者も出るほどのものでした。
トキシコロジストは、動物での安全性試験の結果から、その新薬の候補をヒトでの臨床試験に用いても十分に安全性を担保できるかどうかを判断します。同時に十分に安全性を担保できる投与量を計算し、決定します。この大惨事は、動物の試験で安全性が確認された最大投与量の500分の1と言う大変低い投与量を用いたにも関わらず、起こってしまいました。それは、この薬がとても高い選択性を持っていて、ヒトの組織の標的部位のみに、ものすごく高い作用を発揮するから起こったものでした。動物の同じ標的部位には、ほとんど作用を発揮しないため、動物試験では極めて安全な薬のように誤って判断されてしまったのです。薬が起こす反応において、ヒトと動物との間にとても大きな差があることを見逃したことにより起きてしまった惨劇となりました。
慎重すぎる臨床試験も惨劇を起こす
上記のような大惨事を恐れて、投与量をただただ際限なく低くすればよいというものでもありません。がんやその他の難病の場合、初めてのヒトでの臨床試験を健常人のボランティアではなく、実際の患者さんで始めることがよくあります。多くの場合、患者さんは、現在ある治療法では治らないため、最後の希望をかけてその臨床試験に参加されるのです。初めてヒトに使用するからという理由で、治療効果も望めないような際限なく低い投与量を用いることは、治療をしないのと殆ど変わらないことになってしまい、最後の希望をかけて臨床試験に参加してくれた患者さんを裏切ることになってしまいます。
重篤な副作用を起こしてしまうことを恐れて、あまりにも慎重に臨床試験を進めた結果、実際にがんに効く投与量をヒトで確認するのに5年も要したという報告もあります。その間に臨床試験に参加された多くのがん患者さんが、がん治療には効果が期待できない低い投与量のみで治療が行われ、亡くなられてしまったのです。
臨床試験に参加してくださる患者さん・ボランティアのことを考え、可能な限りのサイエンスを駆使して最善の臨床試験ができるように情報提供するのがトキシコロジストの重要な任務です。責任重大ですが、やりがいのある仕事です。