MMTへの誤解を解く その8 無から有を
お金は「モノ」だと、普段の私たちは感じていて、
それが社会通念になっていると思う。
だけど、
ここまでずっと、「一万円札は借用書である」という
立場で話を続けて来た。
だとしたら、こういうことになる――
たとえば、私がパン屋さんを始めたいので、
小麦粉を10万円分仕入れたい。
でも、手元にお金はない。
どうするか?
こうすれば良い。
10万円の借用書を私が書いて、……(※)
これを、小麦粉業者の「○○製粉」さんに渡し、
それと引き換えに、小麦粉を受け取れば良い。
まさか……。
世が世なら、こんなやり方で、
小麦粉を仕入れることが出来るかもしれない。
だけど、今の世は、そんな個人的な借用書を
業者は受け取ってくれない。
(※)小切手という借用書であれば、話は別
だから、公認の借用書の専門屋さんに頼むわけです。
「○○銀行さん、
10万円の公認の借用書を作ってください」と。
これなら「○○製粉」さんも受け取ってくれる。
「〇〇銀行」は10万円の公認の借用書を
作ってくれた(もちろん審査を受けて)。
……と言っても、実際に「〇〇銀行」がやったことは、
私の「〇〇銀行」の通帳に
新たに「100,000」と印字したことだけです。
この「100,000」という数字を、「〇〇製粉」さんの
銀行通帳に移せば、それで、
先方に借用書を渡したことになるのです。
借用書というのは、「貸し借り」の記録に過ぎない
のだから、こういう事ができる。
*****
さて、小麦粉を仕入れました。
これで、パンが焼けました。
たくさんのお客さんがパンを買いに来ました。
「この100円のパンをください」
お客さんは、100円分の借用書を財布から出して、
パンを買って帰って行きました。
パンは、全部売り切れて、
私の手元に、借用書が合計20万円分、残りました。
つまり、20万円の売上ですね。
その内の10万円の借用書は、
1千円の借用書を添えて、
発行してくれた「〇〇銀行」にお返ししました。
添えた1千円の借用書は「利息」ですね。
「〇〇銀行」は、この一連の手続きで、手数料として
1千円を稼いだことになります。
公認の借用書を書くことが出来るのは、
銀行業務の免許を持った法人ですね。
「公認の汎用の借用書を作成してもよろしい」
という免許ですね。
そう、借用書を作成する免許です。
まるで、お金を作っているかのような業務です。
これが「信用創造」(Money Creation)
というわけです。
実は、銀行業って、
仕事の内容は、行政書士などの士業と似ていますね。
そういえば、世間には
「興業銀行」というものがありますが、
銀行の本来の使命は、顧客の業務内容を見極め、
借用書を発行することによって、
産業を育成することですね。
まあ、当時はまだ金本位制だったにしても。
*****
ここまでの物語を、
お金は「モノ」だという社会通念のまま観察すると、
まるで、「〇〇銀行」は、お金という「モノ」を
打ち出の小槌を振るようにして、
こしらえたかのように見えるわけです。
すなわち、商品貨幣論の立場で見ると、
無から有を産んだかのように見えるわけです。
「信用創造」という言葉の由来は、
無から有を産むように見えるさまが、
あたかも「創造」(Creation)だからなのでしょう。
実際に現れたのは、お金という「モノ」ではなく
「貸し借り」という「コト」に過ぎない。
パン屋さんである私が、借りる人
小麦粉生産の「〇〇製粉」が、貸す人
現場では「買う人」「売る人」という言い方をする。
実際には「貸し借り」ネットワークの一部なのだけど、
お金と物を交換する風景を「買う」「売る」と
称するわけですね。
私が自分で借用書を書くわけに行かないので、
代わりに、公認の借用書の作成を
「〇〇銀行」が請け負った。
終わってみれば、「〇〇銀行」には収益として
1千円の利息だけが残り、
実際に動いたのは、「小麦粉」という現物と、
それを原料にして焼き上げた「パン」という現物
だけです。
え?お金も動いたでしょ……って?
紙のお金(日本銀行券)だったらそう見えますけれど、
私の通帳から「〇〇製粉」の通帳に「100,000」が
移動したさまを見れば、
お金の本質は、 “ 交通信号 ” みたいなものだと
気づきませんか?
「赤」から「青」に色が切り替わった、みたいな。
私の元に残った余剰の借用書は、
今後、継続して繰り返される貸し借りの循環に
使われることになります。
もちろん、そこには、私の生活費も含まれるわけです。
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それにしても、お札に刷られている
「日本銀行券」
という文言、いっそのこと、
「日本銀行借用書」
とでも表記してくれた方が、庶民にとっても
お金の「役割」が明確になるのと思うのですがね。
これは、金本位制の時代の兌換紙幣の書式を
そのまま継続しているということでしょうけれど、
他にも何か意図があるのかもしれません。
その話は、また別の回で。