帰ってきた秘書子という性転換者の結婚は認められるべきか?〜同性婚やトランスジェンダー婚?の正当性〜
自己紹介によると、フェリス秘書子は「おかま」であり、関西人でADHD(アスペ?)であるらしい。ツイッターでは、彼は法的に結婚したらしい。その呟きに対して、一部の民(おそらく都会の民)は彼の結婚を祝福した。
しかし、たとえ彼の発言が虚言でなく、実際であるとしても、俺は同性婚及び性転換婚それ自体に強烈な違和感を覚える。以下では、俺は秘書子の自称結婚に対する俺の違和感を文明及び宗教的な観点から捉える。
なお、俺は東洋文明に所属して、かつ儒教徒を自称する。俺は国民国家や日本国憲法を含むキリスト教系統の法をあまりよく思っていないと言っておく。また、下記の文章は秘書子や彼の醜聞を批判するものでなく、文明や宗教に関するものである。
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性転換者及び同性婚
俺の儒教系統の思考の規範1.1 もし秘書子が法的に結婚するならば、秘書子は大局的に自立する。
もし秘書子が法的に結婚するならば、秘書子は大局的に自立する。しかし、秘書子は大局的に自立していない。これは上記の後半の節に違反する。なぜなら、同性愛者も性転換者も健常者から大局的に自立して、彼ら自身の社会を作れない。
彼らは介護老人やボケ老人、そして子供や大部分の老人と同様に、健常者の依存者である。にも関わらず、彼らは法的な結婚を要求してきた。もし介護老人が家庭の中で平等な権利を持つならば、その家庭は負担で崩壊するだろう。
個人的には、俺はもし同性愛者も性転換者が法的な結婚を求めるならば、彼らは大局的に自立するべきであると審判する。もし彼らが大局的に自立しないならば、同性愛者も性転換者が法的な結婚を求めるべきでない。彼らは自己の社会を彼ら自身で大局的な自立者への依存なしに形成できない、かつその社会を彼ら自身で維持すらできない。
キリスト教系統の法における同性婚及び性転換婚
俺の儒教系統の思考の規範?2.1 もし秘書子の法的な結婚がキリスト教系統の法における結婚であるならば、その結婚は非キリスト教徒によって、認められる必要も、認識される必要も、善と判断される必要もない。
もし秘書子の法的な結婚がキリスト教系統の法における結婚であるならば、その結婚は非キリスト教徒によって、認められる必要も認識される必要も善と判断される必要もない。なぜなら、東洋文明においては、秘書子の結婚には、宗教的な正当性が存在しない。
東洋文明に所属する儒教徒や仏教徒がキリスト教系統の法体系における結婚を認める必要はない。同様に、たとえ秘書子が法的に女性であるとしても、その女性はキリスト教系統の女性であるので、非キリスト教徒が秘書子が女性であることを認める必要はない。非キリスト教徒にとって、秘書子は「おかま」である。
西欧文明におけるキリスト教及びユダヤ系統の性では、秘書子は法的にも宗教的にも女性であるかもしれない。けれども、東洋文明に所属する儒教徒や仏教徒にとっては、秘書子は「おかま」である。
秘書子
以下では、俺は俺の視点、または東洋文明に所属する東洋人の視点から、秘書子を捉えてみる。秘書子は当然のように「女性」を名乗り、演じている。しかし、俺は秘書子が自己を女性とみなしていることそれ自体に違和感を覚える。
また、俺は秘書子が女性であると強制されることにも強烈な違和感を覚える。なぜなら、俺にとって、秘書子は「おかま」である。
おかま
俺の儒教系統の認識3.1 俺はフェリス秘書子はおかまであると認識する。
俺はフェリス秘書子はおかまであると認識する。俺は秘書子が雌であると認識しない。俺は秘書子が女性であると認識しない。以下で、俺は造語を提示する。
おかまとは、自己の生物的性を雄から雌へと転換したサピエンスである。おなべとは、自己の生物的性を雌から雄へと転換したサピエンスである。男色家とは、雄を好む雄のサピエンスである。女色家とは、雌を好む雌のサピエンスである。
電街によると、秘書子は自己の雄を雌へと転換したサピエンスである。だから、上記の定義により、秘書子は「おかま」である。秘書子の一人称は「かま」や「うち」ではどうだろうか?
秘書子が法的に女性であること
俺の儒教系統の認識?3.2 俺は次を認識する。たとえ秘書子が法的に女性(雌)であるとしても、秘書子は「おかま」である。
俺は次を認識する。たとえ秘書子が法的に女性(雌)であるとしても、秘書子は「おかま」である。なぜなら、日本国憲法はキリスト教系統の憲法であり、非キリスト教徒にとって、キリスト教系統の法は何の正当性も存在しない。
たとえ秘書子がキリスト教系統の憲法の下で(キリスト教系統の)法的に女性であるとしても、非キリスト教徒が秘書子がキリスト教的に女性であることを認識する必要性もそれを認める必要もない。
キリスト教的存在
俺の儒教系統の思考の規範3.3 もし秘書子がキリスト教系統の法体系の下でキリスト教系統の性転換を実行したならば、秘書子の性はキリスト教的な存在である。
もし秘書子がキリスト教系統の法体系の下でキリスト教系統の性転換を実行したならば、秘書子の性はキリスト教的存在である。俺が下記を適用するならば、秘書子は西欧文明に所属する。
もし秘書子が西欧文明に所属するつもりがないならば、秘書子は宗教的にも雌雄的にもキメラ?である。秘書子はおかまであり、その性は東洋文明における仏教系統の性や儒教系統の性でなく、キリスト教的性である。
秘書子の結婚と所属
俺の儒教系統の認識?3.4 たとえ秘書子がキリスト教系統の法体系で結婚したとしても、俺はそのキリスト教系統の結婚を認識する必要も善と判断する必要も認める必要もない。
たとえ秘書子がキリスト教系統の法体系で結婚したとしても、俺はそのキリスト教系統の結婚を認識する必要も認める必要もない。下記を使用すると、秘書子は西欧文明に所属している可能性がある。
そもそも、東洋文明に所属する儒教徒や仏教徒がキリスト教系統の結婚を認識して、善と判断して、認める必要はない。加えて、秘書子の結婚は俺らの文明(東洋文明)の外の出来事である。
対抗策(おまけ)
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