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さすがに純一くんはもっと小説を書いたほうがいい

森鴎外「青年」の主人公は純一くんという。
小説家志望なのだけど作中一度も小説を書かない。
青年らしくていい。

では小説を書かずに何をしているかというと、女の人を見ては「この人は自分に気があるのではないか」と感じて勝手にドキドキしている。

純一くんは働かなくてもよい身分である。
それで堂々と働かないで、そこらをほっつき歩いている。
こういう身分の人は今もいるのだろうが、少なくなったのではないかと思う。

ブランコ・ミラノヴィッチの「資本主義だけ残った」によれば、現代的な産業社会の特徴は、貧乏人も金持ちも働いて給料をもらっているということにあるらしい。
昔の金持ちは働かなかったようだ。

自分はなんというか、働くモチベーションというのは、結局メシのためというのが一番健康的なのではないかと思う。
どんな手段であれメシが食えてるのなら、必ずしも働く必要はない。
成長のためとか、自己実現のために働くとか言い出すと、際限がない。

世の中のたいていの仕事というのは畢竟ひっきょうきこりと同じである。
がんばって余計に木を伐り倒しても、環境が破壊されるだけではないのか。
必要な分だけ伐るにくはない。

しかし己の成長が第一目標になると、そうもいかない。
必要と不必要とにかかわらず、とにかく木をきらないといけない。
より効率的に、最大限、全力で、木をきらないといけない。

もはや伐った材木が目的なのではない。
木を伐るのが目的である。

働くのも成長することも、そんなに偉いことではないのではないか。
じゃあ何を目的にすればいいのかと問われたら、自分も困ってしまうのだが。
ただなんでも成長すればいいという単純な話ではないんじゃないのと思ったのである。

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