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noteはありがたい

過去

わたしは以前、仕事でちょっとした記事的なもの(記事とは言いがたい)を書いていたことがある。
読む人の意に沿う文章を書かなければならないので、窮屈な思いをした。
内容よりも、文体の方面で。

大抵の読み手は、書かれている内容よりも書かれる文体や用語に拒否感を感じるのではないかと思う。
文体については減点法を採用している人が多く、なんかこの文体キモいとか、この用語ダサいんですけど的な評価をされがちである。

上司

仕事で物を書くというのは、たいていの場合、漠然とした読者ではなく、上司に向けて書くということを意味する。
だからその上司の文体的・用語的センスが自分と近くないと、作文作業は苦行になる。

記事もどきを書いていたときとはズレるが、別の仕事のときに顛末書を書くことになった。
顧客に提出する前に、社内の上司的な人物4名から承認されないといけない。
この人らがくせもので、各人に提出するたびに大がかりな書き直しを命じてくる。

案の定、同じような箇所を見せる人に合わせてこねくり回し、結局最初の文章と変わらなくなるという、賽の河原つみをやらされたのだった。

今はそういうわけのわからない仕事をしなくなって、平和になった。
さらにいうとnoteは仕事ではないから、好き勝手にものが書けてハッピーだ。

指針

人を見た目で判断してはいけないという。
文章も同じである。
表現より内容を見なければならない。

しかし現実は表現を見て、いい文章だの悪い文章だのと考えてしまいがちだ。
とくに文章は個々人の文章遍歴が異なるため、好悪のクセがより強くなるのではないか。

今後、自分が仕事で文書の校正をしなければならなくなったら、自分が気にしているのは内容なのか、それとも表面的な表現なのかを考えながら指摘する。

というか実生活でも知らず知らずのうちに好き嫌いを発揮してしまっている。
文体・用語のみならず、例えば泣き笑いの絵文字とか頻繁に使われると「キライ!」ってつぶやきながら真顔になってしまう自分が心のどこかにいる。
良くない。
ものを読むときはつねに、文体・用語(あと絵文字)のこだわりを捨てて生きていきたい。