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危険を防ぐことはできないが、俺が鷹揚でいることはできる
人間、だれしも「これって危ないのではないか」的な気づきを得ることがある。
先日自分もそういうことがあって、しかも改善可能な危険だったので、
「これ、危ないように見えますね。
念の為、危なくないかだけ、確認してもらえませんか」
的な訴えを起こしたのだった。
2回ほど確認してもらったのだが、担当者いわく、安全ということだった。
その後すぐに事故が起こった。
私は「もうっ!いわんこっちゃない!」と怒った。
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事故は防げなかったし、今後も危険は見逃され続ける。
自分としてはせめて「いわんこっちゃない!」から卒業したいと思っている。
内田樹の「困難な成熟」に、最悪の事態を想定している人間は、最悪の事態を待ち望む様になるということが書いてあった。
最悪の事態を想定するという行為は、それなりの苦労を伴う。
そのため、人は無意識に、苦労の見返りを求めるようになる。
その見返りとはすなわち、想定していた最悪の事態が実際に起こるということである。
最悪の事態が起これば、「ああ、最悪の事態を想定しておいてよかった」となるわけだ。
ソリューションは、後手に回らないことであるという。
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自分が「いわんこっちゃない!」と怒っているときに幸福だったかはさておき、最悪の事態を待ち望むような人間ではありたくない。
「後手に回らない」というのは、畢竟心構えだろう
心構えでクソ人間化が防げるのだったらやすいものだ。
思えば司馬遼太郎の小説には、定期的に「薩摩型の大将」論というのが出てくる。
日頃は馬鹿のようにおおらかにしていて、全部部下に任せている。
それが、いざ危機になるとさっと前に出てきて、全部の責任を背負って立つ。
そういうような人だったと思う。
内田樹の指摘は、この大将像の一般化というか、一兵卒にもある種の鷹揚さが必要ではないですか、ということだろう。
私も一介のぞうりとりである以上、日頃馬鹿のようにしているわけにもいかないのだが、せめて危機に臨んで鷹揚であれと、そう願うのである。
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