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美味しい物の複雑さ:複雑系の要素
出来立ての料理、日持ちしない生菓子や発酵食品などには、単純な味覚や嗅覚のバランスを超えた美味しさを感じます。
そこには複雑さによる美味しさがあります。
もし美味しさが単調な味覚や嗅覚のバランスだけで成立しているなら、機械的に素材をすりつぶして混ぜ合わせて最適なバランスに整えるだけで、完全な美味しさが容易に実現できます。
しかし、複雑さの美味しさは、単なる味覚や嗅覚に対する静的なバランスだけでは成り立ちません。
すりつぶして混ぜ合わせると失われてしまう構造や、揮発や発散により失われる香りや熱も、非常に重要です。
■複雑さによる美味しさの再現と維持
複雑さの美味しさを提供するためには、こうした構造や揮発要素を生み出したり、失われないように維持することが重要です。
特に、ミクロの構造や揮発要素は、人間の手では作ることができず、素材そのものが持っているものに頼るしかないものが多くあります。
あるいは、人間によって作れるものであっても、熟練の技術がなければ作り出せないものもあります。
そして、構造や揮発要素を維持することも、容易なものもあれば、熟練の技術と細心の注意が必要なものがあります。
このため、多くの場合、複雑さの美味しさには良質な食材と熟練の技術が必要となり、シンプルな美味しさに比べて高い費用が必要になります。
このことを理解すると、テイクアウトの料理よりもお店で食べる料理や自分で作る料理の方が美味しい理由がわかります。また、生菓子には焼き菓子にない魅力があることも理解できます。
また、有名な料理人やパティシエが監修したレシピ通りに作られるチェーン店の料理やコンビニのスイーツが、期待したほど特別に美味しい訳ではない理由も説明できます。
また、特に日本料理の伝統的な考え方として、高級な食材ほどシンプルな調理をするということも理解できます。複雑な調理をすれば、人間が生み出せない貴重な構造や揮発要素が失われてしまうためです。
■単純な要素還元と複雑な要素還元
すりつぶしてバランスよく組み合わせれば、美味しさを生み出せるという考え方は、要素還元的な見方です。
要素還元的な見方とは、物事の本質は、細かく分解した要素にあり、その要素を単に集めれば、元の物事を成立させることができるという考え方です。
例えば水は水の分子の集合であり、水の分子は酸素原子と水素原子の結合物であることが分かっています。そして、その集合がある温度を保っている時には液体の水になります。
このように水を要素に分解して考えると水を理解でき、水の要素を集めれば水が出来上がるという考え方が、要素還元的な見方です。
この単純な要素還元的な見方では、すりつぶしたことで失われる構造や揮発要素が見落とされています。単純な要素還元的なアプローチでは、単純な美味しさしか実現できないのです。
要素還元によって、複雑さを含めて真に美味しさを追求するのであれば、すりつぶして得られる要素だけでなく、構造や揮発要素も、全て要素として含めて捉える必要があります。
そして、単にバランスよく配合するだけでなく、ミクロな構造を構築し、揮発要素を充填することまで実現する必要があります。天然の素材の構造や揮発要素はすりつぶしてしまうと現在の技術では再現は困難です。また、人工的な構造や揮発要素であっても、熟練の技術が無ければ上手くできない物もあります。
もし科学技術が進歩して、熟練の技術を再現したり、天然の素材の構造や揮発要素を再現することができたなら、複雑さの美味しさを達成することができるでしょう。
これは構造や揮発要素を含めた、複雑な要素還元のアプローチと言えます。
■複雑系における要素
これは料理の話に限った事ではありません。私たちは、物事は要素の集合であり、その要素を集めれば同様の物事を再現できるという単純な要素還元的な思考で物事を理解しようとすることがよく見られます。
分かりやすい例として挙げられるのは、幸福や成功を要素で理解しようとすることです。美貌、スタイル、財産、地位、名誉が、幸福の要素であると考えたくなりますが、それだけで幸福になるわけではありません。社会的な成功も、賢さ、コネクション、チャンスなどに還元して考えてしまいがちですが、それだけで成功が約束されるわけではありません。
同じことが科学の分野でも当てはまります。私たちは生物を構成する分子や原子について多くを理解できていますが、それだけでは生物を理解することも、人工的に作り出すこともできません。
一方で、要素還元的なアプローチでは不足している事を指摘する際に、全体論的なアプローチや創発現象という用語が使われることがあります。全体は部分の集合よりも大きいという表現が用いられます。
しかし、全体論や創発は、要素還元的な見方の欠陥は指摘しますが、何が欠落しているかの説明はできていません。このため、全体論や創発という用語は、具体的なアプローチを提供するものではありません。
複雑な要素還元は、単純な要素還元に不足しているものが、構造と揮発性の要素であることを明示しています。この点で、全体論や創発という曖昧な表現ではなく、具体的なアプローチを可能にします。
■動的なシステム
構造と揮発性の要素を考慮するという事は、物事を動的なシステムとして捉えるという事です。
例えば、ホイップクリームとスポンジを使ったイチゴのショートケーキを考えてみて下さい。
ホイップクリームは液体の生クリームをホイップして細かな泡にして口当たりを良くし、ミルクの香りをほのかに放つことで美味しさを私たちに感じさせます。このホイップクリームは、冷蔵庫の中で保管していても、時間と共に細かな泡が潰れていきます。
このため、時間が経てば経つほど、口当たりの良さやミルクの香りの広がりが失われていくことになります。そこには確かに同じ量と質の乳脂肪と砂糖が存在していますが、構造と揮発性の要素が失われていくことで、美味しさが減少していくのです。従って、ホイップクリームは時間に対して変化のない静的な物体ではなく、時間経過を伴う動的なシステムです。
これは、ショートケーキのスポンジやイチゴについても同様です。時間の経過と共に、スポンジの中の水分が乾燥して柔らかさが変化し、イチゴも香りやフレッシュさが変化していきます。したがって、ショートケーキは複数の動的なサブシステムを統合したシステムです。
同じように、生物についても動的なシステムとして捉えることができます。単細胞生物を構成要素に分解して一か所に集めていても、それは生きている状態になる事はありません。また、構造を元に戻したとしても生き返る事はありません。この場合、揮発性の要素とは、単細胞生物の生命です。
■構造と揮発性の要素
ホイップクリームは、細かい泡という構造を持つことで、ミルクの香りを放つことができます。また、生物は身体の構造が破壊されれば生命が失われますし、生命が失われると身体の構造が維持できません。このように、構造と揮発性の要素は、分離して考える事ができないケースがよくあります。
一般に、構造と揮発性要素との間に関係がないケース、構造が揮発性の要素の維持を可能にしているケース、揮発性の要素が構造の維持を可能にしているケース、構造と揮発性の要素が相互に維持する関係にあるケースの4つのケースがあり得ます。
生物の場合、様々な代謝の機能を持っています。それぞれの代謝機能は、生命を維持するために必要な機能であり、一度生命が止まってしまえば失われてしまう揮発性の要素と言えます。
これらの代謝機能は、それぞれに身体の構造を維持するための役割を担っています。また、身体の構造は、これらの代謝機能の維持をしやすくします。このため、生物の身体構造と代謝機能は、相互に維持する関係にあります。
このように、構造と揮発性の要素が相互に維持する関係にある場合、それを人為的に再現することは非常に難しくなります。
■さいごに
料理やスイーツの美味しさについて考えると、単純な味覚や嗅覚の観点だけでは説明が難しいものの、構造や揮発性の要素を加えることで、説明や理解が容易になる事が分かります。
このように私たちが無意識に持っている物事の見方について再考することで、様々な物事がうまく説明できるようになったり、より深く理解することができたりします。
特に、ここで挙げたような単純な要素還元的な見方は、実生活や科学的な思考の中で幅広く私たちの思考を占めている一方で、視点の欠落があります。その欠落は、構造や揮発性の要素であり、それらを加えた複雑な要素還元というアプローチが、複雑なシステムの理解に適していると私は考えています。
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