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品質の経済

社会を経済の側面から評価する場合、一人あたりのGDPや所得の平均値あるいは中央値のような指標が用いられています。

GDPや所得が高い国は先進国や高所得国と呼ばれていますが、こうした経済的に成熟した国は、より大きな成長が難しく、場合によっては日本のように長期間に渡って経済成長が停滞することもあり、打開すべき経済的な問題として認識されています。

一方で、現実的な経験を振り返ると、日本の経済が停滞して成長が止まっていたと言われる1990年代から2024年現在にかけて、私たちの生活の利便性や快適さは向上してきました。

インターネットが発展しスマートフォンが普及したことで、買い物や情報の獲得の幅は大きく広がり手間も小さくなりました。またそれらに必要なコストも安く済むようになり、エンターテイメントで考えれば音楽や映画などのコンテンツの消費に掛かるコストは信じられないくらい安くなりました。

住宅の品質も向上し、断熱性や遮音性、機能的なデザインや美観など同じレベルの賃借料や購入費だったとしても格段に快適な住居で生活できるようになりました。同様に、公共のスペースや店舗や飲食店の美観や清潔さに起因する居心地の良さも大幅に向上しました。

また、衣料品や外食なども、昔は価格と品質は比例しており、安ければ品質が低いということが当たり前でしたが、現在は安くても高品質ということが当たり前になっており、衣食の面に関しては快適さに関わる品質を犠牲にすることなく生活にかかるコストを下げることも可能になりました。

その他の製品やサービスや社会インフラについても同様に質的に向上しており、医療や福祉などの社会制度のレベルや充実度も向上してきました。

加えて、全ての面で十分なレベルとは言えませんが、全体的には役所の職員や店舗の店員の方の接客や対応もスムーズで丁寧になり、学校や職場における体罰やハラスメントの問題も大きく取り上げられたことで改善しており、時代と共に社会活動における対人面での快適さも向上してきました。

こうした経験を振り返ると、製品やサービスの質的な側面が大幅に向上していることがわかります。これは経済的な取引の量を測るGDPには現れないため、一般的な経済の分析では見落とされているのかもしれません。そうなると、私たちがGDPの停滞を問題視し、打開すべき問題だとして議論しているのは、いったい何のためなのだろうかという疑問が浮かび上がってきます。

私たちは提供される製品やサービスの品質が悪くなっても、大量に取引するような社会にしたいのでしょうか。品質の良い製品やサービスには、その品質に見合った高いコストを支払わなければならない社会にしたいのでしょうか。そうすれば確かにGDPの数値は増え、量の面では経済成長することになります。しかし、十分な量の製品やサービスが取引されるようになった社会において、品質を見落としたままの経済指標を向上させるアプローチにどんな意味があるのでしょうか。

このことは、成熟した社会は、経済的な平等を目指すべきであるとか、物質的な豊かさから精神的な豊かさへのシフトが必要だという話ではありません。製品やサービスという物質的な豊かさに関して、品質にも着目して経済のあり方を議論する必要があるということです。そのためには量の経済だけではなく、品質の経済を考える必要があります。

■孤島の経済モデル

経済の取引量と品質に関する理解を深めるために、孤島の経済モデルを考えてみる事にします。

船が難破して、孤島に集団で流れ着いた100人がいるとします。

この100人は分業して安全な水や食料を入手するために働くことになります。

この際、この集団は初めから貨幣経済を運用しているとします。それぞれの人が獲得した水や各種食料は、貨幣を使って交換されるとします。

計算を容易にするために、自分で手に入れた食料や水を自分で消費する分はなく、全ての水と食料は貨幣で交換するとすれば、この孤島の実質GDPは、手に入れた水と食料の総和と等しくなります。

■経済成長

初めは安全な水や食料を確保するために100人がフルタイムで労働する必要があり、それでも食料が十分に手に入りません。

時間が経つと、効率良く安全な水や食料を獲得するためのノウハウが蓄積されたり、そのための技能が向上します。

これにより、獲得できる水や食料を、100人全員が必要とする量まで増やすことができるようになります。

GDPは獲得した水と食料の総和でしたから、この過程でGDPも増加したことになります。これは経済成長を意味します。

そこからさらに効率が良くなると、必要以上の水や食料が手に入ることになりますが、需要を超えてしまうと交換や消費はなされません。ここで水と食料の総和であるGDPは頭打ちになります。

この状況になると、余分な量を手に入れる代わりに、水や食料を入手するための労働が減少します。例えば50人の労働で必要な水や食料が手に入るなら、残りの50人は別のことに労力を使うことができるようになります。

食料が十分に手に入るようになれば、次は衣料や住居です。手に入る素材で衣服を修繕したり新しい衣服を作ることや、家を作ることに労力を使うことができます。

すると、GDPには水や食料だけでなく、衣服や住居が加わります。これによりGDPの頭打ちは解消され、経済成長が継続します。

さらにこれらの労働の効率が向上すると、労働による生産性を向上させる道具や設備を製造する人も出てきます。また、物を入手したり製造したりするだけでなく、サービスを提供する人も現れます。

こうして労働効率が改善されると、孤島内で交換される物やサービスの種類と量が増加していき、その総和がGDPとなり、経済成長が進行していきます。

■経済停滞

労働効率が向上し、余った労働力が新しい需要を満たす物やサービスの生産に振り向けられることで、生産、流通、消費される量が増加することが、経済成長です。

一方で、物やサービスの量が十分に満たされるようになると、需要が頭打ちになります。たとえ新しい物に対する需要が出てきても、それが供給されると別の需要が減少することで総量が変化しなくなります。

このような状況では、GDPは増加しなくなります。一般的に、これは経済の停滞として捉えられます。

一方で、生産、流通、消費される量が増えなくても、ノウハウや技能の向上や技術の進歩によって、物やサービスの質は良くなっていきます。

すると、今まで時間をかけて行っていたことが短い時間で済んだり、消費の経験が改善され生活の快適さが向上したりします。また、安全や安心などの面も改善されていきます。

これらは物やサービスの量を増やすわけではないため、GDPには反映されません。しかし、GDPに反映されないこれらの改善は、便利さや快適さを生み出し、孤島に暮らす100人の生活水準を向上させます。

この状況では、経済は停滞していますが、孤島の社会は確実に進歩しているのです。そして量ではなく質の面で、物質的な豊かさも確実に向上しています。

■GDPの幻影

孤島の経済モデルのように十分に物やサービスが生産できる社会では、GDPが増えずに品質の向上による豊かさが増加するという理屈には、反論もあるでしょう。

実際に先進国の中には、GDPで見て力強く経済成長している国もあるためです。

しかし、そこには2つの仕組みが働いている可能性があります。

1つは社会内の格差により、まだ十分に物質的な需要が満たされていない層が存在している可能性です。そのような層の購買力が増すことで、GDPが伸びていく余地があるということです。

もう1つは高級品の流通です。実際の機能や品質の高さに比べて遥かに高い価格が付く物やサービスが存在します。これらは主に希少価値により大幅にプレミアムがつきます。

このような物やサービスが流通して取引されると、実際の物やサービスが与える影響よりも見かけ上の金銭取引量が水増しされることになります。

そして、そのように実際の効果よりも大幅に高い価格が付く高級品を購入できるのは、他者よりも金銭的に豊かな人々です。つまり、この2番の仕組みも、社会内格差によって支えられています。

このことは、物質的に豊かになった国のGDPが成長しているとすれば、その背景には格差が存在し、それが成長の原動力になっている可能性があることを意味します。

もちろん、他国への輸出によりGDPが伸びるケースもあります。しかし輸出は伸びていないにもかかわらず、内需拡大によって経済成長している場合、格差に支えられた成長の懸念があります。

■GDPの望ましい停滞

なお、収入には格差があっても、低所得層が必要な物やサービスを安価に入手でき、高所得層が高級品の消費に回さなければ、GDPは伸びません。

また、消費財を無駄なく消費できるようになり、耐久財が壊れにくくなっていけば、GDPは減少するはずです。

100人の孤島では、このような状況を目指すことは不思議なことではないでしょう。むしろ、生産効率が高くなれば、必然的にこうした状況になるのではないかと思えます。

そこではGDPが停滞していることを問題視する人はいないでしょう。

一方で、経済的な平等を目指すのではなく、自由経済を維持することで、より生産効率を高めたり質を向上させたりするモチベーションは維持されます。

■必要所得調査

GDPで測れない豊かさという議論をすると、幸福度や生活の質といった非物質的な豊かさが強調されがちです。しかし、ここで示したように、物やサービスの品質という物質的な豊かさですら、GDPでは測ることができません。

従ってGDPだけを見ていても、物質的な豊かさを把握できているわけではないのです。そこで、品質を加味した物質的な豊かさを測る手段が必要になります。

GDPが飽和した状況にある2つの時代や地域において、質の面での物質的な豊かさを比較する方法として、必要所得調査を提案します。

これは、片方の社会である水準の所得を得ている人が、他方の社会で同水準の生活をするためにはどのくらいの所得が必要か、という観点で比較をするという考え方です。

例えばGDPが飽和した後の孤島において、現在の生活水準と同じ生活水準を10年前や20年前に実現するためには、所得がどのくらい必要だったかを調査します。

GDPが飽和しても物やサービスの品質が向上していれば、同じ所得でもより快適に過ごせるでしょう。つまり過去に同じ水準の生活をするためにはより多くの所得が必要になるはずです。

また、別の国や地域との比較にも必要所得調査は利用できます。

こうして必要所得という観点から比較することで、GDPには現れない物質的な豊かさを見えるようにすることができます。

■経済版の無知のベール

各社会が提供するインフラや物やサービスの品質を比較するためのもう一つの方法として、経済版の無知のベールという手法も提案したいと思います。

孤島の例で示したようにGDPの成長が止まっているとしても、物やサービスの質が向上して物質的な豊かさが増すことは、次のような思考実験によって理解することができます。

もし、自分がこれから生まれてくるとして、思想や文化的な好みについて何も決まっておらず、生まれる国の習慣や風習についても特に知識がないとします。一方で、各国の各年の社会のインフラの状況や医療や福祉へのアクセスのしやすさ、物やサービスの質や価格などは全て分かっているとします。

このように純粋に物質的な豊かさだけを条件として比較した上で、あなたがどの国のどの年を選ぶか、という質問に答えるというものです。

これが経済版の無知のベールです。

多くの人はこの質問に対して、GDPが単純に大きいという理由だけで、インフラが脆弱だったり、医療や福祉が高価だったり、物やサービスの品質が悪かったりするような国を選ぶことはないでしょう。

インフラが行き届いており、医療や福祉が誰にでも十分にアクセスでき、安価で高品質な物やサービスが手に入る国を選ぶはずです。

最も経済成長していた年ではなく、これらの条件がより良くなる年を選ぶでしょう。これらは技術の進歩に大きな影響を受けるため、ほとんどの場合、最新の年を選択することになります。

この思考実験を行うと、よりはっきりとGDPの幻影を実感することができます。例えば日本は1990年代以降、他の先進国のGDP成長率よりも低成長で、経済的な停滞に苦しんできたと考えられています。

しかし経済版の無知のベールの下での選択により生まれてくる国を選べるとすれば、日本は上位に入るでしょう。生まれる年についても、かつての経済成長が著しかった年代ではなく、最新の年を選ぶでしょう。

これは経済中心の見方から離れて幸福や精神的な豊かさで社会を比較しているわけではありません。あくまで経済的で物質的な豊かさについて評価しているのです。

また、社会的平等を重視して資本主義を否定する議論とも異なります。ここで挙げた日本は資本主義の国です。

経済版の無知のベールは、あくまで資本主義的な経済を前提として、物質的な豊かさに焦点を当てつつ、それをGDPで評価することの不適切さを端的に示しています。

■望ましい世界経済

孤島の経済モデル、必要所得調査、そして経済的な未知のベールという理論的なツールを用いることで、GDPによる経済の量的な成長ではなく、質的な進歩を中心としたGDPの望ましい停滞が、理想的な経済状況であることを示しました。

そして、それは単なる机上の理想論ではなく、日本という実例が存在することも示しました。

日本は独自の経済理論を持っていたわけでも、経済政策を持っていたわけでもありません。実際、日本の経済の専門家も政治家も、GDPの停滞を常に問題視して、様々な政策を議論してきました。

一方で、もったいないの精神、改善による品質の追求、顧客第一主義、職人的な技能向上の重視、といったことを当たり前に良いことだと捉える文化的な背景が、日本にはあるようです。

これらはGDPの成長には無関係であり、むしろ逆行さえします。しかしGDPという幻影から離れて考えてみれば、社会を豊かにするための自然な観点といえます。

もちろん、日本とは異なる文化や考え方の前提の下で同じような社会制度や構造を模倣しても上手くいくわけではありません。

しかし各国の文化的な背景に沿った形でGDPの望ましい停滞へと経済状況をシフトしていくことが、望ましい世界であると考えられます。

■イノベーションのフリーライド

GDPの望ましい停滞へと移行すると、大きな投資を必要とするようなイノベーションが起きにくくなります。これは経済的な偏りが少なくなり、イノベーションへの投資が減少したり投資の集中が難しくなるためです。

そして、このような社会は、経済的な偏りのある国によって発明されたイノベーションを取り入れることは可能です。従って、他国の経済的な偏りによって得られるイノベーションにフリーライドしているという見方もできます。

また、このことは、全ての国がGDPの望ましい停滞へと移行すると、このようなイノベーションが起きにくくなるということも意味します。

■経済と技術リスク

しかし、私はこのような状況は問題ではなく、むしろ社会や世界にとって好都合だと考えています。

まず、大きな投資が必要にならないイノベーションは、GDPの望ましい停滞へと移行した社会でも可能です。日本の継続的な改善活動はその好例です。

そして大きな投資が必要なイノベーションは、民間の資金でなく政府の資金で賄うことは可能ですし、そこには大きなメリットがあります。

それは、人々が欲しがる技術であり、かつ悪用や誤用が人類に重大なリスクを与えるような技術について、政府が慎重に選択的な技術開発のコントロールができるためです。

民間の投資の場合、危険性が指摘されても、高い需要のために開発が急速に進んでしまいます。たとえ人類に重大なリスクがあると分かっていても、民間の投資の場合、利益を追求するために企業や組織が開発を続けてしまいます。

主に政府だけが大きな資金を投下できる状況になれば、危険性のある技術であっても安全対策を優先しながら慎重に開発を進めたり、開発を禁止したりといったコントロールができるようになります。

人類に重大な危険を及ぼす技術の登場について真剣に考えると、現在の民間による自由なイノベーションの推進という慣習は、いつかは改めることが必要になるということが分かります。

■さいごに:経済リファクタリング

この望ましい経済状況へのシフトは、資本主義経済や物質的な豊かさの追求という基本構造と方向性を変えることなく実現できます。従って、革命によって政治体制を転換したり、道徳的な価値観や法律を根本的に変えたりする必要はありません。

必要なことは、物やサービスの取引量だけでなく品質にも着目した経済理論を構築し、品質の向上による社会経済の進歩を可視化することです。そして、量的な進歩に限界が来ても質的な進歩は可能であることと、その社会的な意義を認識することです。

こうした認識が浸透すれば、量的に経済が成熟した民主主義の国では、政治家は経済的な質の向上を目指す政策を提案しなければ、国民から支持を得られにくくなるでしょう。権威主義的な体制の国家であっても、経済が量的に成熟した後には同様に経済的な質の向上へと政策をシフトさせなければ国民の不満を適切にコントロールすることが難しくなるはずです。

このように、成熟した社会全体の構造や体制、根本的な価値観を大きく変化させるような発想ではなく、既存の枠組みを維持したまま内側の本質的な問題個所を明確に認識し、必要な最小限の部分的な構造の変化を目指すことは、ソフトウェアシステムにおけるリファクタリングという作業に似ています。これは経済リファクタリングと呼べるアプローチです。

現代社会の経済システムの問題については様々な議論があり、アプローチも多様です。しかし、既存の仕組みを壊して一からつくり直すようなアプローチは適切ではなく、実現可能性も限りなく低いと考えています。

ここで挙げた望ましい経済状況へのシフトも、実現が容易だとは思いませんが、ゼロスクラッチの転換の提案よりも現実的で受け入れやすく、かつ孤島の経済モデルで説明したように、経済の進歩の自然な流れに沿っています。そして、イノベーションの方向を誤ると取り返しのつかない時代において、望ましい代替案に思えます。


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katoshi
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