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闘病記を書く人は本当にすごい

ーほんとうにすごい

闘病記やブログなんて、入院中に時間がいっぱいできるから暇つぶしにやってるんだろうという気持ちが少しくらいあった。

いざ自分が当事者になってみたら全然違った。
時間があっても気力はないし、続けて文章を書くというのは莫大なエネルギーを要する。

1文字ごとに生まれる痛みがあるなら誰もやりたくない。それでも書こうという思いはどこからやってくるのだろうか?

ここからは私個人の意見です。

まず1つは「わかって欲しい」
他の人とくらべて上手に生きられない僕にかまって欲しい。
"よしよし、大変だったね"
と慰めて欲しい。
文面の赤ちゃんプレイを要求している。

きもい。
この感情、恥ずかしながらあります。
こんな甘っちょろい考えじゃ男塾には入れねえ。
覚悟のススメと合わせて読み返します。

2つ目は「共有したい」
これは同じことを言っているようで全然違う。

「私」と「生きること」の2つを用意する。
前者は
「私にとって、生きることとはどういうことか?」
という問である。

対して後者は
「生きることにとって、私とはどういう存在か?」
である。

私は個人であって、完璧な共有は不可能なアイデンティティだ。
この世に全く同じ経験をした人間は1人として居ないのだから。
 
対して生きることは全ての人にとっての条件だ。
私自体が問題になることで、全ての人がこれを共有できる。

あなたがならなくても、子どもが、親が、大切な人が同じような困難を抱えるかもしれない。

相手のことは完全に分からない、そこで働かせる想像力を思いやりというのだろう。

だれもその人の身代りになって苦しみをとことん苦しむことはできない。この運命を引き当てたその人自身がこの苦しみを引きうけることに、ふたつとないなにかをなしとげるたった一度の可能性はあるのだ。

V.E. フランクル. (池田香代子, 訳) (2002). 夜と霧. みすず出版 

生きることにとって、私とは何なのか。
その答えが
「全ての人がより良く生きること」
に繋がるような態度で
生きていくことを決めた。

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