忘れられない2024年を過ごして。
新年が明けてまもなく1ヶ月が経とうとしている。去年は本当に心がどこかにいってしまいそうなくらい、気持ちが右往左往した日々だった。
一昨年、2023年6月、父に癌が見つかった。闘病生活の始まりだった。私はもう家庭を持っており、離れて暮らしていた。正直、考えたくなかった。
何事もなかったように、元気になってほしかった。本当のことを言えば、自分の心をかき乱されることなく、手を煩わせることなく、今まで通りの日々が送れればいいと思った。
そうは思っても、ほっとけるわけにはいかなかった。父は、母と夫婦2人暮らし。母は運転免許を持っていないので、できる限り病院への送迎を担い、話を聞いた。
入退院を繰り返しながら、抗がん剤による治療をしていた。それでも癌は、広がってしまっていた。
そして11月。私の第二子妊娠がわかった。妊娠検査薬をした翌日、実家の介護用ベッドに横たわる父に報告した。その頃にはもう、ほぼ寝たきりの状態でオムツもしていた。
妊娠の報告するにはまだ早いと思っていたけど、今の父に少しでも明るいニュースを父にもたらしたかった。
「父、私2人目ができた。」
と話すと、「よかったなぁ。体に気をつけてな。」との一言。父はよく、「体に気をつけて」と言う。父も気をつけていてほしかった。気をつけていても、なるものはなってしまうんだろうけど。
父と母に妊娠の報告をしたあと、年末にはきょうだいにも第二子の吉報を知らせた。年末年始は父は自宅で過ごせていて、その話を聞いた兄の一言目は、
「父に言った?」だった。
もちろん伝えてあると言うと、「がんばってもらわないとね」との一言。
私には、歳の離れた兄と姉がいる。兄は、長男として私たちを導き、両親の支えになっていた。そしていつも冷静に事を運び、感情を乱さなかった。そして、両親の状況をわかりやすく連絡してくれた。そのたびに頼り甲斐のある兄貴を持てたことに、感謝の気持ちだった。もちろん、姉も協力的でお互いの気持ちを吐露できているありがたい環境だった。
年末、我が家では毎年母の生家で餅つきが行われる。一昨年も例外ではなかった。父は、病院の先生に「餅つきに行く」という目標を立てていた。
しかし、父はもう歩けなくなっていた。
でも餅つきに行くという気持ちだけはなんとかあった。
私は介護用レンタカーを手配し、父を乗せて、餅つきに向かった。
痩せこけた頬に介護用のリクライニングの車椅子に乗る様子は、本当に病人そのものだった。親戚はどういった反応をするのかとドキドキしていたけど、みんな温かく迎えてくれた。
兄は「やさしい人たちでよかった。」とポツリと話した。本当にそうだ。
餅つきで親戚の顔を見ることのできた父。私は、あのとき自分がどういう気持ちだったのかあんまり覚えていない。
そうして、2024年を迎えた。父はまた入院することになってしまった。仕事が休みの日に時折顔を見に行き、私の子どもともコミュニケーションを取った。でも、私はどこかでこんな日々はもう長くは続かないだろうと思っていた。
父はだんだん食べられなくなっていった。あんなに食べることが大好きな人が、すきなものですら一口齧ればいい方。でも私は、父に「がんばって」とか「長生きして」とか、そういうことは言えなかった。がんばってるし、無理してほしくなかった。今思うと、心の冷たい自分にゾッとする。
父に一度、聞いたことがある。
「癌になって、どう思った?」と。
父は、「しょうがないという感じ。」と答えた。
しょうがない。確かにしょうがない。私は、その答えを「そっか」としか返せなかった。
いつでもだれかの気持ちを否定したくなかった。
1月のとある金曜日。私はスポーツ新聞を持って父の病室に向かった。母と兄も一緒だった。父に会い、一言目、
「堂本剛くんが結婚した!」と持っていた新聞を渡した。
「ほんとぅ!」と父は言った。
私が27年も好きでいる人が結婚したことを父には伝えたかった。父も私がKinKi Kidsを好きのは当たり前に知っていたからだった。
父にこんなことでも何か笑ってほしかった。こりゃいい話題だと新聞を買った。正直今でも剛の結婚は私にショックを与えている。
きっと父にとってはどうでもよかったんだろうけど。
それから父は、もっと痩せていき、手足が乾燥するようになった。けれど会うたびに、私の子どもの心配をして、私のおなかのなかの子どもも気にかけた。病院食はもう食べていなかった。大好きなフルーツをちょろっと齧り、寝ていることが多くなった。たんもよく絡んで、よく吸引してもらっていた。
2月になった。あっというまの2月。変わらない父。孫たちも代わる変わる父を見舞った。ランドセルを見せたり、お守りを渡し、うれしそうにしていた。
ある日、母から連絡があった。「父の心臓が弱っているから、今から病院に行きます」と。
嫌な予感がした。母を迎えに行き、病院へ向かう。車内で母は神妙な面持ちをしていた。
病室に着くと父は新聞か何かに目を通していた。そして、弱々しい声で、
「今日早いじゃん」
と母の見舞いの時間がいつもより早いことに言及し、私には、
「子どもどうしとる?」と聞いた。
拍子抜けした。もう会えなくなってしまうのかと思うくらいの連絡だったから、緊張して行ったのにずっこけそうになった。
「元気じゃん!」と思わず言ってしまった。
主治医が念のため連絡したらしく、看護師さんは大丈夫ですよ〜と笑っていた。父は大好きな煎餅とイチゴをその日はよく食べていた。もしかしたら調子が戻ってきていて、自宅に戻れるのかもと和やかな気持ちになった。職場の上司にもそう報告したくらい、父はすこし取り戻していた。
母も安心し、兄姉にも報告。みんながほっと胸を撫で下ろした日だった。
そうして、梅の花が咲いて、少しだけ春の息吹が感じられるようになり、父が自宅で過ごせるのはいつかなぁと思っていた矢先に、母から
「お父さんは退院できません。退院する体力がもうありません。このまま自然にと言われて、私もそうしてあげたくなった。なんの相談もしなくてごめんなさい。口に出したら泣きそうになるから。」
とメッセージが兄姉共に届いた。
え?元気になったんじゃないの?とびっくりした。仕事をなんとか終えて、私はこの帰りの足で病院に行くか悩んだ。もう会える時間が少なくなっていることを認めたくなかった。夫に相談し、いつどうなってもおかしくないから、行ったほうがいいと言われて子どもを任せて行くことにした。
自分が妊婦であることは二の次だった。自分の気持ちに従って動いていた。病院に着くと、父は前回のお見舞いで会ったときよりも痩せこけていた。会話もままならなかった。
これは、もう…とショックを受ける自分がいた。
「父、会いたい人いる?」と聞くと、
「いない」と首を振った。それもギリギリの会話になっていた。えっ、この間、イチゴ食べてたじゃない。
そこへ看護師さんが来た。私を見て、よかったね。来てもらえて。と言った。私は、堰を切ったように涙があふれてとまらなかった。
「やだ、やだ。」と泣いた。父の前で悲しい顔を見せてはいけないと思っていたのに、大泣きしてしまった。がんばってよ!!!と大きな声で言ってしまった。
看護師さんは私の肩を抱き、「びっくりしたよね。お父さんよかったねぇ。やさしい娘さんだねぇ」と私を励ました。父には届いていたのかはわからない。
看護師さんは、いつどうなるかわからないけれど、お姉さんが遠方ならば明日には会ったほうがいいかもね。と言ってきた。
伝えにくかった。父が最期を迎えようとしていることを自分が説明するのは嫌だった。最初は言葉を濁したけど、正直に話した。
明日行くと言ってきた姉。私は母の到着を待ち、とりあえず一旦家に帰ることにした。帰宅後、夫にもしかしたら、夜中に連絡が来るかもしれないと伝えて、横になった。深夜。兄からの着信。本当にこの時が来てしまった。
「心臓が弱くなってきたって」と。
車に飛び乗り、ひたすら病院へ走った。真夜中に間に合ってくれと願いながら。
父はがんばっていた。でも、もうほとんど眠っていた。私は父に何を伝え、何ができたのだろう。ドラマみたいに抱きついて泣き叫びたくなったけど、意外とそんなことはできないと冷静な自分もいた。
交代で睡眠をとりながら、父を見守った。翌朝、姉が到着し、父を見舞った。そのときには、もう反応がなかった。みんながみんな、複雑な気持ちだったと思う。心のどこかで、「待つ」時間。そのときを待つというのは、どこかで自分が父の最期を決めようとしている気がして、苦しかった。もうそれは諦めているということじゃないかと自分を責めていた。
丸一日を病院で過ごした明け方、控え室にいた私と母に看護師さんが「心臓が、とまりそうだから…」と声をかけに来た。「はい。」とだけ返事をして、父を見に行った。兄と姉は病室にいた。
それぞれみんなで父に声をかけた。ありがとう、頑張ったねーとか、本当にそんなことだったと思う。つらかった。あの場面は本当に忘れられない。とにかくベットを4人で囲んで、父を見ていた。家族水入らずの時間だった。歳の離れた兄姉を持つ私にとって、5人家族でいられる時間は本当に貴重だった。それが、こんなときなんて。
看護師さんが訪室した。
「もう、息されていません。お声かけてあげてください。」
父が死んだ。71歳だった。私は父にとって遅い子だったから甘やかされたし、可愛がられたと思う。父は私の証明写真を財布に入れて持ち歩いていた。すっごく仲良しの親子というわけではなかったけど、多少の遠慮はあるなかで、冗談を言い合えるようなそんな関係だった。いつも明るくて、楽しい人だった。私たち家族を支え養い、近所の人とも仲良くしていた。そして、母に毎日叱られながらも夫婦仲良く過ごしていた。
そんな父の命が終わって、母は頭を撫でていた。
「おつかれさま。もうちょっと先だと思うけど、私もそっち行くでね」と話した。
お世話になった看護師さんと共に家族で、体を綺麗に拭いた。痩せ細っていた。褥瘡もあった。お父さん、十分闘病したね。そんな気持ちになった。
母は涙をこらえながら、声を振るわせ親戚に連絡をする。きっと思いきり泣きたいだろうに、素直じゃない母はここでも堪えているんだなぁ。
丸2日近く家を空け、父の最期を看取った。あの日、夫に背中を押されお見舞いに行った私。お腹の子も含め我慢してくれた2人の子ども。
父の葬儀には100人を超えるたっくさんの人が駆けつけてくれた。うれしかった。父はこんなにあったかい人たちに囲まれていたんだ。そんな父の娘であることを誇りに思えた。
人の死はつらい。でも、葬儀はまだ肉体があるから、まだ会える。一番辛いのはそのあとだ。火葬場での出来事は、筆舌に尽くし難いほどの経験だった。自分の肉親が、骨になること。こんなに苦しいことだったとは知らなかった。
そして、私は今その悲しみたちに蓋をして過ごしている。この蓋をたまに開けてしまうことがある。この悲しみたちに再会すると、生活がままならなくなるくらいに深く感情を揺さぶられてしまうから、私はなるべく蓋をしている。
悲しみや苦しみからは、そうやって逃げてもいいとわかった。それは、父のためにならないかもしれない。けれど、生きている自分、生かされている自分を守るためにこの辛く苦しかった経験は蓋をして、たまに蓋を開けて、父を思おう。
そして、あの日、父の葬儀を終えて、父が骨になり、少しずつ歩み出し、初夏の訪れを感じられる季節になったとき、私に2人目の子どもがうまれた。あのショックだった日々を腹の中で耐え凌いだ息子。出会いと別れ、生と死、それを体現した2人の人間が私の前にいた。
父、どこにいるんだ。私は子どもを2人もうけた。父、母が寂しがっている。強がっているけど、いつも半泣きで父のことを話しているよ。愛されていたんだね。今も愛してるんだね。
ありがとう。2024年は、こうして忘れられない日々を紡いで終わりを告げた。