書くことで表現がしたい
私は、えんぴつ魔。そんな言葉があるのかも知らないけれど。えんぴつと紙さえあれば、ずーっとずーと何かを書いていられる。大抵は、裏紙か日記帳に日々のモヤモヤとか取りとめのないことを書いて、書いたらそれっきり。大抵、思い出しもしない。
日記は、中三から今まで、ずっと続いている。
中学三年生の夏休み前に、担任の先生が、クラス全員にノートを配った。美術担当だった先生は、こう説明した。「ある作家は、中三のときにもらったノートがきっかけで小説を書くようになった。今から、みんなにも、ノートを一冊ずつ渡すから、好きなことを書いて (描いて) ね。このノートが、あなたたちの未来に繋がるかもしれないと考えたら、面白いと思ったの」と。
私は、そのノートに、何となく日記をつけ始めた。ノートはどんどん更新され、もう十五年以上続いている。日記を一人で記す時間がないと、私の生活は立ち行かなくなると思う。大袈裟なんかではなく。
他人に見せるという目的で、初めてちゃんとした文章を書いたのは、就活のエントリーシート (ES) だった。大学ではサークル活動に全力だったし、結果も残せた。アピール材料は、たくさんあった。けれど、それをどう使えば、自分を表現できるのかが分からなかった。リクルートの人に「ネタはいっぱいあるのに、こんなに書けない就活生も、そうそういないよ」とまで言われた。
焦った私は、内定をもらった先輩方に、ESを添削しまくってもらい、それっぽいものができるようになった。数をこなすうちに、ESの型のようなものを理解した。努力したこと、そのとき考えていたことを、ひたすら裏紙に書いて、それを綺麗な文章へと推敲し、提出した。そのESで面接にも進めたけれど、その言葉は、自分から遠く離れたところに行ってしまっていた。まるで、別の言語に翻訳されたかのように。
社会人になってからも、資料だけは、山ほど作った。ビジネスの場では、大前提として決してブレることのない主張がある。そして、その主張をシンプルかつ体系的に語るのだ。回り道はしないし、複雑なことは、わざわざ触れない。受け手によって、受け止め方が変わらないようにする。ここにも作法がある。
社会人になってから、私は変な学校に入った。その学校で、アートや企画を勉強した。アーティストから、直接、話を聞く機会もあった。担任の先生自体もアーティストで、「作品を作りながら、日々の素通りできないこと、モヤモヤすることについて考えている。作っている途中で、ハッと気づくことがある」と言っていた。別のアーティストは、講義の中で「コンセプトなんて、クソくらえだ。言語化できないから形にするんだ」と話していた。手を動かして何かを作るプロセスの中に、試行と思考が組み込まれている。特別な世界に生きている人たちに見えるけれど、やっていることは、一緒なのかもしれない。私も言語化できない何かを抱えて、それは一言で済ませられるものではなくて、その割り切れない何かに近づきたくて、ひたすらえんぴつを動かしている。
その学校で、入学したときから、励まし合ってきた友人がいる。その子も会社員で、入学してから、様々な表現を学び、作品を作り始めた。学校では、絵、彫刻、動画など、様々なジャンルから課題を与えられ、実際に作品を作る。最終講評のとき、彼女が語ってくれた。「最初は、そもそも、どの表現を選べばよいのかも分からなかった。だけど、ようやく、自分にとって、それが写真だと気付いた」と。
今のところ、私の表現手段は、書くことしかない。日々の引っかかりに形を与えること、私なりの方法で、言語化しづらいことを言語化したい。条件反射の使い古されたフレーズに逃げたくない。
就活でも仕事でも、正解のある文章しか作ってこなかった。だけど世の中、正解のないことの方が多いのだから、正解を求めず、自分にとっての本当、私のリアルを私の言葉で表現したい。そうしないと、私は私を生きていけない気がする。文学をやりたいのか、そもそも、これが文学と呼べるのかも分からないけれど。そんな欲望に気づいた。
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