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超能力「まごころ」

介護の仕事をしていて、自分の力の無さに愕然とすることがあります。
認知症の入居者さんたちへのさまざまな介助をする1日なのですが、要介護度が高い方たちはもう言葉が届かず、自分ではほとんど何もできません。
残っているのは「気持ち」だけ。

微笑みかければ笑顔が返ってきます。おそらく、同様に、こちらが不機嫌だったり無関心だったりしたら不安を感じられることと思います。

かつて34年間にわたって劇団を運営してきてたくさんのお客さんたちと接してきた身としては、言葉を使って気持ちを伝えるエキスパートになれたという自負はあります。しかし、言葉を使わないで行動、いや存在だけで気持ちを伝えることは全然できていなかった、と愕然とする日々です。

僕が務めているグループホームでは、ほとんどのスタッフが先輩です。
その中で、超人が2人いらっしゃいます。

僕が食事介助をしていて、理由不明で拒否されているところにふわっと超人が現れて食事を提供すると、ニコニコしながら受け入れるのです。

真似しようとすると、最初はうまくいきますが、だんだん元に戻ってしまいます。

そこで考えました。
超人と僕は何が違うのか。

結論、人としての出来が違う。

僕が食事介助をしているときに拒否されると、「なぜ召し上がってくださらないんだろう?」「どうすれば召し上がってくださるだろう?」と考えます。そもそもこれが間違い。

観察を続けた結果の想像ですが、超人は「考えていない」んです。
心から「美味しいですよ。どうぞ」とふんわりと介助されているのです。

なぜ、とか、どうして、なんて、認知症の方々には通用しないんです。理解なんてしようとすること自体が間違っているんです。「ともにある」ことでしか、気持ちを通じ合わせることはできないのです。

もちろん、超人たちは入居者さんたちの情報を誰よりも知り、噛み砕いて理解していらっしゃるのはあたりまえ。そこまでは、僕もやっているつもりです。しかし、そこから先が問題なんです。

僕にはまだまだ「~してあげなきゃ」という押し付けがましい心が残っているのです。

しかし超人たちは「~しよう」「~しなきゃ」という基準で動いていらっしゃる。

この差は、経験で埋められるものではないような気がします。
僕が「なぜ」「どうして」と逡巡している数秒の間に、超人たちは次の行動をとって入居者さんが「してほしいこと」ではなく「したいこと」を叶えているのです。

常人・加藤からすると、テレパシーを持った超能力者にしか見えない瞬間を頻繁に目撃することになります。

彼女たちの超絶な能力を、僕は「まごころ」と名付けました。

そう考えてみると、俳優やタレントさんたちにも、技術でのし上がる人と「存在」で続いている人がいるな、と思います。もちろん両方兼ね備えていらっしゃる方もいます。

そういう人には、「なりたい」と思ってなれるものではありませんね。

僕は身近に「超能力まごころ」を備えた方がいる現場に行くのが楽しみでなりません。


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