空間とは何か(6-2)点論(2)多元的形式化
唯点論と数学の閉塞
集合論に基づいた数学は、「点」を基本的な存在論的ブロックとしてすべての対象を構築する、いわゆる「建築学的数学」というパラダイムをもたらした。20世紀を通じて、このパラダイムは強力かつ豊かな表現力を発揮し、数学は大きく発展した。それは現代数学という巨大な楼閣を出現させ、21世紀に引き継いだ。しかし、以前「空間とは何か(5-1)建築学的数学の終焉(1)」でも述べたように、このアプローチにも限界がある。
特に、その楼閣の極端な巨大化は、それを人間が使いこなすことをますます困難にしているし、現代数学をそれぞれ高度に専門化された分野の細目に切り刻んでしまった。その意味で、現代の数学は19世紀前半(1831年秋)にガロアがサント・ペラジー刑務所の中で書いた『序文』でも述べられたような閉塞状態に、またしても回帰しようとしているのかもしれない。
また、前回「空間とは何か(6-1)点論(1)点論と数学の基礎」では、現代の数学が「点」を一元論的な存在とし、そこからすべての対象を構築しようとする側面を「唯点論」と名付け、これが古代ギリシャのエレア派による一元論的(かつ過激な)実在論のリバイバルとも解釈できることを指摘した。そして、そのような「唯一の実体的基礎による唯一の基礎付け」という神秘思想から脱却して、多くの基礎付けを併用し、よりインタラクティブでアナーキーで、それでいて内容的にも「正しさ」的にも充実した多系的数学という考え方を模索することを提唱した。
今回はまず、この「多系的アプローチ」について、もう少しその思想的背景を掘り下げてみたいと思う。そして、次回以降へのプロローグとして、ライプニッツの点論・空間論から我々は何を学ことができるかについて、最初の示唆を与えたいと思う。
「日常的」概念と形式化
本稿では、私は「形式化(formalization)」という言葉を、極めて広い意味で使いたいと思っている。それは人間の理性的活動のいたるところに見出される、ひとつの典型的な思考の整理のパターンである。非常に大まかなで近似的なピクチャーでは、それは(カント的な意味で)悟性から理性への移行のひとつである。
形式化とは日常的知識や知識の集合体、暗黙のうちに整理されカテゴライズされ構造化された日常的理論を、言語化・構文化し、(準)客観的な体系に仕立てたりモデル化したりすることである。すなわち、典型的な意味での形式化とは
日常的知識 ーーーー→ 形式化された知識体系
という図式を意味する。
ここで「日常的知識」として私が意味しているのは、感覚運動系的な経験によって直接的・直観的に構造化された知識体系、とでも言えるようなものだ。すなわち、それは単純な感性的直観ではなく、それがあくまでも「日常経験」的な意味でナイーブに構造化されたものである。それは言語化される以前の、無意識・前意識的な知識体系であり、直観的ながら構造化されカテゴライズされた悟性レベルの(前言語的)概念という位置付けである。
例えば、〈連続な直線〉という概念は、それが集合論やその他の構文論的な体系の対象として考えられる以前の、言語的に明示化されていない数学対象として考えられている限り、「日常的概念」と考える。数直線が「連続である」という直覚的な認識には、生の感性的直観ではなく、そこに無意識的・前意識的な、何らかの悟性的判断や構造化があるだろう。我々がこれから日常的という言葉で形容したい概念や知識は、すべてこのような悟性レベルの判断や構造化によって得られたものを意味する。
いわゆる「連続性」の直観は、決して感覚与件そのものではあり得ない。紙に書かれた線を見るだけで、実数の連続性に対する直観が芽生えるわけではない。紙に書かれた線も、印刷された線も、家具や机の端も、拡大すれば途切れ途切れであったり、素粒子の並びであるにすぎない。我々が感じられるものにはサイズ的制約があり、どこまでも微小な片々を精密に認識できるわけではない。となれば、延長の連続性は決して経験的なものではない。それは感性的与件に対して何らかの無意識的な、そして概念的な構造化が働いた結果である。私が「日常的〇〇」と言っているものは、このようなレベルのものだ。
ところで、連続性に関する日常的概念は、現代数学的な意味で形式化された連続性の概念と無関係というわけではない。εδ的な連続性の形式化を、まさに「連続性の形式化」として(多くの人が)受け入れることのできる素地には、連続性に対する日常的構造化と認識様式があるはずである。さもなければ、εδ論法による連続性の議論を(それを修得するプロセスは長くても)最終的には自然なものだと思うことは(多くの人にとって)できないだろう。少なくとも、それが「連続」の数学的な表現(のひとつ)として、客観性を勝ち取ることは不可能なはずだ。
しかし、現実にはこのように形式化された連続性の概念に、多くの人が納得できている。ということは、それはもともと連続性について人間はすでに何らかの悟性的知識を獲得していて、形式化され構文化された連続性の表現が、それとマッチするというようなことが、多かれ少なかれ起きていると見るべきだろう。すなわち、それは「日常的に構造化された前言語的概念」と私が呼んでいるものが、実際に存在しているということの証拠と見做せるわけだ。
いずれにしての、今後「日常的〇〇」という言葉で意味するところのものは、いかなる判断も構造化もされていない生の感覚データであるというよりは、(カント的な意味で)悟性的判断によってカテゴライズされ、構造化されたものである。そしてその「形式化」とは、それを構文化・公理論化・体系化・モデル化する行いである。
「形式化」の例
このように、私は「形式化」という言葉を、極めて広い意味で使っている。しかも、それは人間の知的活動のさまざまな場面やさまざまなレベルに現れる。人間は、とかく「形式化」する習性があるらしい。
例えば、二等辺三角形においては、その2つの底角は等しい。この知識自体はおそらく先史時代から多くの人に知られていて、受け継がれてきたかもしれない。しかし、それを「二等辺三角形の底角は等しい」という普遍的に成立する幾何学の命題に明文化したのはタレスであると言われている(この命題は「タレスの幾何学五命題」のひとつである)。タレスがやったことは、このような経験的幾何学知識、すなわち、直観的ながらそれなりの悟性判断による構造化をもって伝承されてきた日常的知識を形式化したということである。
しかし、このような形式化された命題も、その証明は直観的だっただろう。また、それらの命題は断片的に集積され、それらの間の相互関係が論じられることは少なかっただろう。つまり、理論として体系化され、論証が言語化されることはなかった。これが体系的に論じられ、公理論として明文化されたのがユークリッドらによる古代ギリシャの論証幾何学である。このような、命題の断片的集積をひとつのシークエンシャルな理論体系にするという行為もまた形式化のひとつである。それはタレスが行った意味での形式化とは異なったレベルでの形式化である。
このように、日常的〇〇とその形式化という二分法は絶対的なものではなく、あくまでも相対的なものである。ある日常的知識体系の形式化が、またワンランク上のレベルの形式化によって、さらに高いレベルに引き上げられる。それが繰り返されれば、より構文論的でより明示的な形式化が得られることになり、その知識なり概念なりは、日常的な(感覚運動系と密接に結びついた)レベルからは遠ざかることになる。
19世紀数学からの例で言うと、例えばリーマンによる「数学の空間幾何学化」宣言(教授資格取得講演「幾何学の基礎をなす仮説について」)は、まだ完全には形式化された数学理論ではなかったという意味で、日常的理論であったということができる。この動きの最初の(部分的)形式化は、まさにデデキントやカントールによる(初期の)集合論であった。しかし、この素朴集合論もまたひとつの「日常的理論」だとみなすレベルにおいては、それがもたらすさまざまな逆理を克服するための公理化(公理的集合論)が、その形式化ということになる。
このように、私が「形式化」と呼んでいる行為は、数学の歴史のさまざまな局面で、さまざまなレベルにおいて起こったものを類型化したものになっている。そして、それはもちろん、数学の「基礎付け」という動きと密接な関係がある。ユークリッド的な幾何学の体系化は、同時に幾何学を盤石な基礎の上に基礎付けようという試みであったし、20世紀の公理的集合論の勃興においてもそうであった。
「無限」の形式化
形式化という行いが特に顕著な重要性を孕むのは、「無限」に関連する知識や概念の形式化においてである。「無限」にまつわる諸概念(無限大・無限小、無限分割(不)可能性など)は、どれも悟性判断レベルではナイーブかつ理想的な概念として、それなりの明晰性があるはずだ。これは「無限」に関するさまざまな形式化が、それなりの(準)客観性をもって受け入れられているということからも頷ける。
もちろん、無限に関する現象は観察できないので、それは生の感覚与件ではない。「無限」に関する漠然とした概念や直観は、どれも純粋に経験的なものではあり得ない。どれも(カント的な)悟性の「自然な」類推によるものだと解釈するのが自然だろう。それは有限の現象(有限量・有限回)からの帰納であり、しかもその構造化の過程にはそれなりの自然性と普遍性・一意性がある。
すなわち、「無限」は前意識的なレベルでは、悟性による表象の構造化・統合化の産物(副産物?)として自然性と普遍性をもっているはずだ(実在・非実在については、ここでは問わない)。だから、これは上で我々が「日常的概念」と呼んだ概念の範疇に入っている。「無限」は「連続性」とほぼ同様の認識論的レベルに属すると考えてよいだろう。
したがって、上述したことに従えば、諸々の「無限」に対しても、さまざまなレベルで「形式化」を考えることができる。そしてそれは確かに、古代ギリシャのエレア派以来、歴史上でもしばしば試みられてきたことだ。例えば、無限分割可能性の定式化や、無限小・不可分者の概念などは、これらナイーブな悟性的対象の、最初の形式化だと考えると、いろいろと辻褄が合う。
形式化のご利益
そもそも、上述のような意味での(ユビキタスな)「形式化」は、それ自体がそれなりのご利益をもつものであり、そうであればこそ、数学の歴史上でも多くの事例を見出すことができる。数学史の中に「時代は繰り返す」的な要素を見出すとすれば、それはまさに
日常的〇〇 ーーーー→ 形式化された〇〇
というパターンの積み重ね・繰り返しこそが、そのもっとも典型的なものだと言ってよい。
つまるところ、ここでいうところの「ありふれた」(あまり専門的な意味ではない)「形式化」とは、「日常的な(感覚運動系に由来し悟性によって構造化された)現実」から、それをより精密かつ体系化された形に構文化した「形式化された現実」への移行に他ならない。そもそも、日常的な現実は、人によって微妙に感じ方や個性の違いによって異なるかも知れないものであるし、多くの場合、完全には言語化されていないので、それを基軸に理論的な共同作業をすることはできない。すなわち、それは十分に客観的とは言い難い状況であることが多い。
しかしながら、それは完全に感性的・個人的なものというわけでもなく、共通感覚的であり、悟性によるがテゴリー付けや、概念的整理、構造化はなされている。例えば、先にも挙げたような「直線などの延長の連続性」は、それ自体が感性的外界からの与件としては決して得られないものであるが、外界的現実から悟性的理解によって(暗黙のうちに)概念化されたものだと見なすことができるだろう。このような言語化の手前に、無意識的な構造が見出せることの証左は、例えば、集合論による実数の構成や、εδ論法などのような形式化によって得られる形式化された連続性が、多くの人にとって理解可能であり、それが「正しく」連続性を表現していると認識できることにある。
また、無限概念の形式化は、本来、目に見ることのできない「無限」にまつわるさまざまな「準現実」を言語化し、程度の問題はあれ、それに関する準客観的な議論を可能にしている。微分積分学はもとより強力な計算術として成功した理論であることは論を俟たないが、それが理論としても成功している(ように見える)ことの背景には、それが悟性的概念を準客観化したものとして、それなりに普遍的な説得力をもっているからだと思われる。(もちろん、それは「準言語化」による「準客観化」であるにとどまる限り、完全なものにはなり得ないのであるが。)すなわち、微分積分学は、「無限」に関する我々の暗黙の悟性的判断に基づいているという意味で、構造としての「無限」概念の"存在"を証明しているのである。
形式化がもたらす困難
さて、本稿の主張は、次のものである。
そのもっとも明確な実例を、我々は「無限の形式化」の中に見出すことができる。すでにエレアのゼノンは4つの逆理について述べており、無限分割可能性と無限分割不可能性が、どれも自己の中に矛盾を含んでいること示していた。
ここから先は
加藤文元の「数学する精神」
このマガジンのタイトルにある「数学する精神」は2007年に私が書いた中公新書のタイトルです。その由来は、マガジン内の記事「このマガジンの名…
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