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空間とは何か(6-1)点論(1)点論と数学の基礎
点論
点について考察することは、空間に関するあらゆる考察の中核をなすだろう。数学においては、空間の構造は点を用いて表現されることが多いが、それは現今の数学が集合論を(形式系としても意味論的モデルとしても)その基盤としているからである。集合とは点の集まりである。すなわち、集合は点から構成されている。したがって、集合論に基づいた空間は、どれも点によって構成される。点は空間の最小単位であり、その構造を形成するための究極の基本要素である。
古代ギリシャのユークリッド『原論』では、点は空間の構成要素とまでは考えられていないが、すべての図形は点によって記述される。線分は2つの点によって特定されるし、三角形は3つの点によって名指しされる。点は空間上の(相対的な)位置を表し、点が指し示す位置の情報が図形を表現する。
このように、空間を論じる上で「点」はもっとも重要な要素となっている。それは(ユークリッド『原論』におけるそれのように)図形や空間上の位置を表現するラベルの役割を果たすと同時に、(現代的な集合論のように)空間の(形而上学的な)構成要素ともなり得る。その意味で、「空間とは何か」という問いは、少なくとも部分的には「点」に関する議論(=「点論」)に依拠している。
「点とは何か」
「点とは何か」という問題は、数学が従来できるだけ避けてきたテーマである。ユークリッド『原論』では「点とは部分をもたないものである」と簡素に述べられるにとどまっており、その含蓄については後世さまざまな分析・論考が遺された。現代数学では点は無定義であるが、それだけではなく、集合論の枠組みの中で相対化され埋没させられた。集合論における帰属関係「$${x\in X}$$」は「$${x}$$は$${X}$$の要素(=点)である」と読めるが、集合論において集合と要素の関係は相対的なものであり、集合も他の集合の要素となり得るし、その逆もあり得る。
すなわち、現代数学においては「点は無定義である」というより、すべては点であるという「汎点論」こそが中心的なドグマとなっている。これは、もう少し過激な言い方をすれば「万物は点である」ということだ。現代数学は、20世紀以来その基礎付けを推し進めた結果、「点」のみを「一者」とする唯点論に落ち着いた(陥った)とも言えるだろう。点はそれそのものが数学の形而上学的基礎のすべてであり、すべての存在の源泉である。すなわち、「存在するものは点であり、点のみが存在である」。そしてその〈存在〉は、例えば、Zornの補題から極大イデアルの存在が出てくるように、アンセルムス的超越から導出されるのが常である。
しかし、もちろん、この考え方には重大な難点がある。それは古代ギリシャ以来変わらない問題だ。「すべては点であり、点が空間を構成する」というナイーブな考えは、直ちにエレアのゼノンのパラドクスのような、連続体や運動を主題とした形而上学的逆理の餌食となる。その意味で、点論はゼノンのパラドクスを解決するための方途としてではなく、それを迂回して、その向こう側に逃げ込むための基礎付けとして解釈されなければならない。
これは数学が形而上学や自然学から独立して、独自の世界を構築するという宣言に他ならない。その最初の表現を、我々はリーマンの教授資格取得講演「幾何学の基礎をなす仮説について(Über die Hypothesen, welche der
Geometrie zu Grunde liegen)」に見出すことができる。
私はまず、一般的量概念から多重延長量概念を構成するという問題を自らに課した。
様々な規定法を許す一般概念が存在するところでだけ、量概念というものは成立可能である。これらの規定法のうちで一つのものから別の一つのものへの連続な移行が可能であるか不可能であるかに従って、これらの規定法は連続、あるいは離散的な多様体をなす。個々の規定法を、前者の場合,この多様体の点といい、後者の場合、この多様体の要素という。
ここでは「量概念の規定法」という「点=要素」が、空間(=集合・多様体)を構成するという図式が明瞭に宣言されている。リーマン以後、デデキントやカントールらによって多様体論は集合論に変成されて行ったが、その途上で、拙著『リーマンの数学と思想』で論じられた多様体の〈存在規定〉は「点=一者」というエレア派的な数学形而上学によって安定した基盤を得ることになる。
このようにして、数学は「点は唯一の存在者である」というエレア派的アプローチを借用してエレア派的逆理の向こう側に逃げ込む、という巧妙な回避策をとり、それに成功したと思い込むことに成功した。西洋数学は連続体や運動の存在論的問題を回避するために、数学の領野を隔離させ、そこに一者的存在論を発明したのである。
数学がこれを成功(したと思い込ませることを成功)させるために、どうしても必要だったことがある。それは数学の基礎付けである。集合論による数学の基礎付け・形式化は、自然学や形而上学的な要請によるものではなく、むしろそれらから逃走し、自らを隔離するために必要な手段だった。「空間は点から構成される」という考え方は、率直に言って極めて非直観的である。連続したひとつながりの直線が点の連なりによってできているなどとは、すぐには了解できない。ゼノンのパラドクスが如実に示しているように、それは現実的な直観との乖離も甚だしい。数学の基礎付けは、集合論がその直観・現実から乖離していればいるほど、それだけますます必要にならざるを得ない実体概念の存立許諾請求だった。
点論と数学の汚染
とはいえ、集合論によって数学は豊かになったのも事実だ。確かに、数直線を実数というラベルをもつ点の集まりとして思い描き、その上で連続性や点の運動などを考えることは直観的ではない。しかし、このようなモデルでも、関数の連続性や点の連続運動を論証的にモデリングすることは可能であり、それは数学を大きく前進させた。
それだけにとどまらず、数学者たちは集合を使って、自由にいろいろなものを作り始めた。この集合による「クラフツ運動」は、20世紀を通じて急激な膨張を遂げ、20世紀後半からはとてつもなく大きな楼閣を、数学者たちは建造し始めた(建築学的数学)。そして、これは数学をそれまでになく専門化し、非専門家には容易に近づくことのできないものにもした。現代では、非専門家だけでなく、専門家でもその管理が容易ではないほど、空間概念の壮大な楼閣は巨大化している。
このような集合万能主義に対する強力なアンチテーゼが、以前『空間とは何か(5-3)建築学的数学の終焉(3)集合論の表現様式』でも引用した、ウィトゲンシュタインによる次の言葉である。
Die Mathematik ist ganz durch die perniziöse mengentheoretische Ausdrucksweise verseucht. Ein Beispiel dafür ist es, dass man sagt, die Gerade bestehe aus Punkten. Die Gerade ist ein Gesetz und besteht aus gar nichts. Die Gerade als farbiger Strich im visuellen Raum kann aus kürzeren farbigen Strichen bestehen (aber natürlich nicht aus Punkten). Und dann wundert man sich z.B. darüber, dass >zwischen den überall dicht liegenden rationalen Punkten< noch die irrationalen Platz haben! Was zeigt eine Konstruktion wie die des Punktes $${\sqrt{2}}$$? Zeigt sie diesen Punkt, wie er doch noch zwischen allen rationalen Punkten Platz hat? Sie zeigt einfach, dass der durch die Konstruktion erzeugte Punkt nicht rational ist.
Und was entspricht dieser Konstruktion und diesem Punkt in der Arithmetik? Etwa eine Zahl, die sich doch noch zwischen die rationalen Zahlen hineinzwängt? Ein Gesetz, das nicht vom Wesen der rationalen Zahl ist.
(数学は悪質な集合論的表現様式によって完全に汚染されている。その一例が、「直線は点で構成されている」という言い方である。直線とは法則であり、何からも構成されていない。視覚空間における色線としての直線は、より短い色線から構成されることがある(が、もちろん点からは構成されない)。そして、例えば「いたるところ稠密な有理点の間」に、まだ非有理点が存在する余地があることに驚く!点$${\sqrt{2}}$$のような構成は何を示しているのだろうか? この点がすべての有理点の間にまだスペースがあることを示しているのだろうか? それは単に、その構成によって作られた点が有理ではないことを示しているに過ぎない。
算術において、この構成とこの点に対応するものは何だろうか? 有理数の間に押し込まれたままの数? 有理数の本質ではない法則である。)
先に、集合論は「空間は点により構成される」という思想、すなわち数学における「点=一者」思想に基づいていると上でも述べたことに注目しよう。ウィトゲンシュタインの批判は、アンセルムス的な唯点論に基づいた現代数学に対する、手厳しい抗議のアピールである。
多系的数学という構想
『空間とは何か(5-3)建築学的数学の終焉(3)集合論の表現様式』では、ウィトゲンシュタインのこの批判を「普遍と具体の和解」を軸に論じた。今、エレア的点論を主軸にこれを論じることで、また新しい視点を見出すことができるかもしれない。
集合論は、「点は存在し点のみが存在である」という唯点論に基づいて数学を運営していこうとするやり方であり、その許諾申請のためには数学の基礎付けが必要であった。逆にいえば、唯点論に基づかないやり方によっては、基礎付けの必要ない数学のやり方もあり得るということだ。
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