#平和を憶う 広島市紹介 2022年
今年も8月6日がやってきました、昨年も入場制限はありましたがそれを上回ったピリピリとした会場と離れた平和の子の像の前から祈る多くの人を昨年同様僕はテレビの前で見ていました。今年の平和宣言やこども代表宣言、首相国連などの言葉からこの瞬間も苦しむ東欧のことや核のボタンへの強い拒絶を日本だけではなく世界に伝わったと思います。願うことならこの思いが形が違えど核の恐怖を知る国へ届くことを深く願っています。
今年は平和公園へ訪れる人も多く、きっと多くの人に今年多くテレビで見たものと同じくらい恐ろしいものを聞いて見て知る機会があると思います。今年は灯篭流しも行われますが思いを届けるのはどこからもできますので広島だけではなくオンライン灯篭流しに参加してみてください。
僕はよく平和公園を歩いて今年も去年のように広島のSNS「日刊わしら」の方で 平和を憶う という題名で被爆建物や展示されているものの紹介をしていました。こちらでも紹介させていただきます。ちなみに「憶う」という文字は思いやる、心にとどめて忘れない、思い出すと言った意味合いがあるそうです。
シャレオ中央広場
安田女子大学書道学科の学生さん
「ピースメッセージ」(書)
昨年も紹介しましたが今年も安田女子大学書道学科の方々が平和への思いを込めた書と作品に込められた制作過程の熱量のある映像を地下につながる紙屋町シャレオ中央広場だけではなく広島バスセンターのあるアクア広島センター街とそごう広島店とパセーラ、バスセンターから地下へつながった広島県立総合体育館、平和公園から広島の繁華街のあるアーケド商店街本通りへと向かう道のりにあるエディオン広島本店とサンモールに終戦記念日の8月15日まで展示されています。
今日見られる方なら展示だけではなく書道学科の方から毛筆の使い方を教えてもらいながら真っ白なうちわに平和のメッセージを書く企画を数量限定で行っています。もしなくなっていても中央広場では17時まで平和にまつわる短編映画(・The Present/・Bottle Battle/・The Christmas Gift)を放映していますのでご覧ください。
元安橋
原爆ドームから川沿いをたどって多くの人が渡る最も爆心地からもっとも近い橋ですが被爆当時は爆風に耐えて倒壊せず逃げる人の支えではなく傷つき水を求めた人たちをただ静かに見送っていました。今も柱の利用している広島の復興証の一つの橋です。
現在の大正ロマンあふれる形は現在レストハウスと呼ばれている呉服店と合った大正時代当時のデザインを再現し、戦時中に金属類回収令でなかった鋳物の電灯や欄干も1992年に復元されています。橋自体も爆風に耐えた親柱と中柱を利用し、架け替えた2本の中柱は観光に来られた方の憩いのイタリアンオープンカフェであるカフェ・ポンテの前からあの日と同じように広島に生きる人広島を知ってくれようと思う人を見守っています。
レストハウス
元安橋を平和公園へ渡って最初にある被爆建物レストハウスは展示だけではなく1982年から観光案内所として多くの人が訪れる場所になりました。
現在は2020年にリニューアルオープンして2階のカフェスペースには爆心地から2.5㎞ほどの場所にあった1㎞で被爆死した女学生河本明子さんの被爆遺品である明子さんのピアノが展示され時より演奏会をされています。ピアノの側面には被爆時に爆風で割れたガラス片の傷が今も残っています。
3階には被爆前には広島で活気のあった地区であった旧中島地区で生活している人々の写真を現在の技術で白黒写真からカラー写真にしたパネルやジオラマに加え映画「この世界の片隅に」で描かれた旧中島地区の映像があり建築当初1929年から戦時下に入って食べ物や服も配給制となって薪や木炭などを配給する燃料会館になるまで営業していた広島を代表する呉服店であった大正屋の法被や着物も展示されています。
また被爆建物である展示された階段から地下室まで行くとここでたった一人生き残った燃料会館で働いていた野村栄三さんがいた物置は今も崩壊することなく命を守った痛みに震える柱や上にあがって変わり果てた町を見た階段へ続く扉まじかで見ることができます。側面には野村さんの被爆体験が書かれています。
被爆遺構展示館
今年出来たばかりの旧中島地区の建物の跡から復興後までの研究のために2019年の調査から60~90㎝掘った先から隣家の境目や盛土した層、炭化した畳や板材が出てきました。そこから3.2×3.2mだけ残して展示されています。(それ以外の採取した地層断面標本部分に関してはは北側にある国立広島被爆死没者追悼平和祈念館に寄贈されています。)展示の関係で炭化した畳や板材はレプリカとなっていますが見ることができます。それ以外にも被爆前の暮らしやこの地で暮らしていた人たちの被爆時の証言復興していくまでの歴史が書かれています。
展示をご覧になるときの注意事項ですが館内は遺構保存のため風や水が厳禁となっていますのでエアコンが使用できません、入館前に日陰で水分補給等を済ませて外でアルコール消毒をして館内にいらっしゃる方の説明を聞き
できる限りパネルに触れずにご覧ください。
今年はこの4つ以外にも被爆に関係する建物の場所について僕が知りえる限りの情報を書いていました、本文を読みたい方は下のURLからご覧ください。
最後に届けたいもの
昨年の記事でも話したかと思いますが僕は広島出身です、そして胎内被曝した祖母から続いた被爆3世です。だからと言ってそれを知っているだけではなく多くの人に原爆のことを伝えたいと声の出すことがうまくない僕はこの場を使わせていただいて詩や写真で残して広島よりももっと遠くで今も手にある核と向き合っている人にきっかけを与えたいとどこかで思って書き続けています。
今回紹介した場所は元々は平和記念公園の中にあった旧中島地区という地区に焦点を当てて紹介してまいりました。ここにはかつてオシャレを楽しむ若者が髪を綺麗にしたりかわいい着物かっこいい帽子を探し、広島を訪れた人が一休みするそんな広島の中心にある繁華街でした。戦時下に入ってからも人々はそこで生活し配給をもらいに行き戦場に出る前に思い出を写真におさめに来ていました。そんな場所は被爆するまで三角州地帯水害を食い止めるための工事を中断した広島で大きな川である太田川ができるまで台風の被害にあいながらも懸命に生きてきました。そんな場所であった開けた街並みは一瞬で熱風と眩む光に消えていきました。そこにあった家族や地区の優しいぬくもりさえも一瞬で。
今も東欧で戦争に苦しむ声は響いています、核のボタンを用意して戦争を終わらせるためにという優しい言葉に見せかけた恐怖が世界を包んでいます、まだなにもしることができないまま戦場で心を殺していきているこどもたちがいます。
戦争は技術進化を進めることはできるかもしれませんがそれ以外に産むのは壊れたがれきの山と息を殺して生きようとしている悲しい時間と築いていったはずの思い出と文化の消滅。それはだたの無で何も産んではいない。核はもっと無に消える、原爆が落ちたあの日消えたのは人の心だ。
原爆が落ちた77年後の広島は人の心で復興して今子どもたちの笑い声が響いています、緑豊かな木々が揺れて鳥や虫たちは合唱しています。悲しいばかりの場所ではありません。広島の人間は強いんじゃけぇ、そう言い合っている人たちが日々広島の今を伝える場所日刊わしらを見て悲しみよりも人の心を見に広島に訪れてください。
僕はこれからも広島のどこかで広島の人に触れて来年78年目の広島原爆の日に詩と紹介文を書くと思います、けれどこの日だけが平和を憶う日ではありません。当たり前ではないとテレビで多くの人が見てきた今年、今があることに感謝できた時こそ平和を憶える瞬間だと思います。
それまではまた来年あの日から78年後の8月6日8時15分に書いていきましょう、平和を憶って。
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