見出し画像

映画日記:ノスタルジア

タルコフスキー監督作品を観たのは初めて。
難解そうな巨匠の映画は、理解できないのではないか、それを誰かに知られるのは恥ずかしいというストッパーを感じ、なかなか手を出せない。他人の評価より自分の好き嫌いが大切とも思ってはいるけれど。
素直に受け入れられず損をしている。自分本来の薄っぺらさを胡麻化さねば、みたいなくだらない防衛本能が消せない。
末っ子気質でよく知らない話題でも背伸びして話を合わせる癖があるからか、知識豊富と時々勘違いされるが、自分には教養に厚みが無い。経験値はもっとない。
常に行動にブレーキとアクセルを同時に踏む頭のせいで、摂取できる作品量も少ない。小中学生の頃の読書量は多かったけれど読んだ内容は年相応だったし、成長するに従い他にも興味が散って、パソコンを自宅に持ったが最後注意散漫で読書もままならなくなった。
実体験に基づく、見かけ倒しで失望されることへの恐怖が、常にある。
こうやってくどくど書くのも、何とか理解しようというあがきだろうか。
言葉に変えたくない感想と言葉にしてみたい感想の違いは、どこから来ているのだろう?
書くうちにふと思いつく小さな考えもあって、頭を整理する訓練に思い付きを増やす試みを兼ねて書いてもいる。

ネタバレあらすじ。
主人公アンドレイは、ロシアの音楽家サスノフスキーの軌跡を調べる為に、通訳の女性を伴いイタリアのトスカーナ地方の温泉へやってきた。
アンドレイは、度々故郷ロシアに残した家族の幻影を夢に見るなどする。
通訳との関係は次第に悪化していく。
毎日犬を連れて温泉に来るドメニコという男と出会う。
ドメニコは、世界の終末が近いと信じており、家族を守るために7年間自宅にこもった後救出され新聞に載った、地元の有名な変わり者だった。
アンドレイは、ドメニコを突き動かす信心に確からしさを感じて興味を持つ。家族が去り廃墟のようになった家に住むドメニコと、会話を試みる。
毎日挑戦していた世界を救う為の作業(ろうそくの火をつけたまま温泉を渡り切る)をアンドレイに託し、ドメニコはローマへ行く。
アンドレイは旅を続けようと試みるが留まり、通訳は彼の元を去る。
ローマへ着き辻説法で観衆を熱狂させたドメニコは、拡声器からひずんだ音で第九・歓喜の歌が流れる中、ガソリンをかぶって自らを火で燃やす。
同じ頃アンドレイは、灯したろうそくを手に温泉を渡り切って倒れる。倒れながら彼は、廃墟となった神殿にいる家族の幻影を見る。

世界や家族を救うこととそれらとの別れとが、分かちがたく結びついている。自己犠牲(もしくは生の放棄)による世界の救済。一生幸福になれないタイプの思い込みだ。
関係を結ぶことからの逃避か、自分を犠牲にしなければ愛されないという自己否定か。ドメニコだけでなく、アンドレイも心の底ではそれらを感じていて、だから最後に彼の行を引き継いだのじゃないか。
ローマでドメニコを取り巻く人々は、彼の焼身自殺を当然のように求めていて空恐ろしいけれど、生贄を神へ差し出して集団の平穏を求めることは、かつて世界中で実際に行われてきた。今も何らかの犠牲(もしくは象徴)を呑み込んで機能している社会の、投影のようにも見える。
タルコフスキーの『サクリファイス』という映画の方では、どのように犠牲が表わされているのか、気になってきた。
たいていの映画は、都会から来た人が因習的な田舎をひいて眺める構図で描かれがちだけれど、ローマにはバチカンもあり、むしろ信仰深い人が世界中からある宗教都市へ集まる構図は自然なのかもしれない。
日本の場合も、カルトの出家用施設は田舎に作られるけれど、勧誘が盛んなのは都会の方だ。田舎と都会のどちらに居ても、人間は本質的に完全には宗教から逃れられないんだな。信心深くなくても、冠婚葬祭や年中行事を完全に無くすことには抵抗がある人の方が多い。
わりと救いのない映画だ。いつも不思議だけれど、世間一般の人は普段はポジティブ志向に見えるのに、こういう暗い映画や村上春樹のような小説がヒットしているのはなぜなんだろう。
ビジュアルの美しさや宣伝戦略の成功だけとも思えない。芸術には暗さも好むけれど、実生活に暗さは入ってほしくないということだろうか。嗜好品であって日常では不要というような。そういう切り分けの出来る人と普段からダウナーな人間とが、同じように楽しんでいるのだとしたら面白いけれど、そんなこと可能なのか疑ってしまう。
(話はずれるけれど、ハルキストを名乗る人達からは推し文化の香りがする。わたしも村上作品が好きな方だけど、方向性の違いを感じる。)

さびれた建物の細部を撮るのが好きで、映像の中に入って行って写真を撮りたくなる場面がいくつかあった。
こういう情景を眺めるような眠くなるタイプの映画を、年々好きになっている。老化もあるし、最近の映画の多くがテンポが速くかつ無駄なくフックが詰め込まれているのに辟易している反動もある。
最近の映画のほとんどは間(ま)が足りない。会話の沈黙が怖くて喋り続ける人みたいだ。わたしが情報の多さを食らってしまい、疲れるだけかもしれないが、間は非常に重要。
水のモチーフが多用されると聞いて想像していたより、だいぶ水が激しかった。大雨みたいに注いで流れていた。
主人公の家族への思いは、映像ごとグシャグシャしていてよく分からず、理解できないから印象に残った。
主人公の名を呼ばれる時の響きとリズムが美しい。
一神教や哲学や詩、本質的に芸術の素養がなく単純脳な自分には一生理解できないだろうそれらへの違和感は観る間ずっとあり、でも特に嫌な感じはしなかった。文化の違い。しかし、それらが理解できないのは、一生欧米やアラブを理解できないってことだ。
生きる意味や幸福感の欠如に引っ掛かりを感じる人が哲学や宗教に向かう以外に、家長として家族を守らねばと思っている人の中にも信心深さに向かう人がいるのか、と改めて思った。日本人では、信心の代わりに愛社や歪んだ愛国に向かう人がいるかも。
映画の重要な要素な気がするけれど、1+1=1の式の示すものが、感覚的に理解できなかった。本来数字でないものが式に載せられている。

せっかくなので、聖ドミニコ、聖カタリナ、東方正教会とカソリックとプロテスタントの違いなどを、後学の為ググってみた。
絵が登場したピエロ・デッラ・フランチェスカ「出産の聖母」は、お腹の膨らんだ聖母の絵が珍しいので安産・妊娠祈願に人気らしい。
聖ドミニコの母親は、妊娠中、子が松明を咥えた犬として生まれ世界に火を放つ夢を見たとの伝説がある。
松明的なもの、火を放つ、犬は映画の重要要素として登場している。
成長したドミニコは、清貧での貧者への布教を志しドミニコ会を作った。ロザリオを大事にしていた。
シエナの聖カタリナも、清貧かつ通常修道女が行う修道院内ではない外部での布教を志した人で、ドミニコ会の影響を受けていた。政治的行動力を持ち「教皇のバビロン捕囚」からの帰還を働きかけたほどだったけれど、33歳で拒食由来らしい脳卒中が原因で亡くなった。シンボルは薔薇。ローマの第二守護聖人。
映画のドミニコが言った彼女への神の言葉は、12歳頃にあったという「信仰で汝を娶る」的なおつげのことだろうか、文脈が分からなかった。
同名のアレクサンドリアの聖カタリナ(殉教者、伝説上の人)は、名前柄ロシア正教で敬われていて、壊れた車輪や鳩などがシンボル。聖母マリアによってイエスと婚約させられたとも言われている。この聖人のイメージも、映画と重なる気がしなくもない。
マリアの処女懐胎を、わたしはキリスト教全般の共通事項と思い込んでいたけれど、正教会とプロテスタントでは否定されているらしい(ヨセフの存在の薄さは全宗派共通している)。特にプロテスタントでは聖人ですらないとのこと。
日本でもマリアは観音になぞらえて信仰を集めていたから、キリスト教の内部にマリアを崇めない教えがあるのだと、気づいていなかった。
世界史で習った〇〇公会議での採択が、現代でも拘束力を持つことを確認して、知識としてはそう言えば習っていたけれど、驚いてしまった。信仰の中での時間の流れは、経済活動みたいな外の流れとは全然違うようだ。人間の身体的進化が生活の変化と比べてゆっくりなように。
宗派の違いは、理想の家族観やその時々の政治や現在の戦争にも連綿と繋がっているので、知っておくといいんだろう。

写真を愛好する身としては、タルコフスキーが映画に用いたモンタージュ技法のことこそ調べるべきな気もする。深堀りは苦手なのでネットで少しだけ調べたけど、浅堀りでは定義ぐらいしか出て来なかった。
タルコフスキーは、モンタージュは概念をつなぐものではなく時間を繋ぐもの、と言っていたそうだ。分かるようで全く分からない。
写真は(よほどコンセプト的に過去を再現するものでなければ)シャッターを切った瞬間について記録するから、死んだものの記録と言っていいと思う。
タルコフスキーの映像はそれとは違い、脳内に留まっているイメージを反復し変奏しているのだろうか、本来その並びでは繋がらないものを繋げた、夢のような映画だった。
「ノスタルジア」を、「戻れない場所・人・時間への想い」とでも定義するなら、故郷を出た身としては共感できる。今地元へ帰って見る景色は記憶とは違い、二度とあの時見たあの故郷に戻れない。
同じ場所にずっと住んでいても過去には戻れないけれど、たまに見る場所と毎日見る場所とでは感覚が違う。亡命して戻れない場合の感覚はどんなだろう。
罹災したり戦場になったら、一息に風景が消失する。そうした経験の暴力性は、降りかかってみないと分からない。そして、そうでなくても今ある風景は常に失われている。
幅のある時間を動画に切り取って、その間それらがそこにあったと示すことはできる。けれど、映像に映されたものは既に死んだかつてあったもので、今はもう無い。続いているという感覚と既に失われているという感覚、両方が真実だと思う。
フォトモンタージュはシュルレアリスムに通じる技法だから、がちがちの定義の元に頭で考えて構成するのでなく、どこか無意識≒何となくそうなったを目指して作るものだろう。
長編映画は粗方定義しないと撮り終われないだろうけど、写真は深く考えなくても被写体を見つければ反射的に動いて撮れてしまい、わたしはだからこそ写真を撮っていると思う。結局後で、撮った中の何枚かを意図して選ぶ根拠に困るけれど。

整理できてない話題に触れたら、やはり着地点を見失った。
見て結論を出すような映画じゃないし、まぁいいか。
キャプチャ写真は、階段に生えてた草。

いいなと思ったら応援しよう!