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記事の中で映画、ゲーム、漫画などのネタバレが含まれているかもしれません。気になるかたは注意してお読みください。
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映画日記:キリエのうた

初めて観た岩井俊二映画は、たぶん『スワロウテイル』封切の年に、心斎橋パラダイスシネマの岩井俊二監督特集で観た『undo』『PiCNiC』二本立てだと思う。(もしかすると『スワロウテイル』が先かも。)
その場で虜になり、初期作一気見して、以来ずっと彼の映画のファンだ。その時の濃厚な映画体験のおかげで、同時代の監督による邦画が好きになった。『ウォーレスの人魚』も買って読み、長編小説すら自在に書きこなす才能にひれ伏した。
好きに理由は無いけれど、彼の映画の、複雑な陰影とスケール感ある物語世界、光の粒まで感じさせる映像美、舞台美術のフェティシズム性、世界観を完成させる完璧な音楽、に常に感心させられている。
彼の映画は、ダーク&ハードなものと、甘酸っぱい青春の思い出に振り切ったものとのふたつに分けられる。両極端を作ってバランスを取っているらしい。
わたしはキラキラした思い出とは縁遠い人生で、青春ものは最初からは入り込みづらい。何度か観れば徐々にその良さを楽しめるようになる。ダークなものは、自分の現実よりも暗いけれど、なぜか初見からずっと魅了される。暗さゆえのカタルシスのような何かがある。
『キリエのうた』は、大好きな『スワロウテイル』『リリィ・シュシュのすべて』に続く音楽映画として大いに期待する反面、失望したくない気持ちもあった。予告編は、普通の歌手を目指す少女の青春物語に見えた。
年食って青春から更に距離ができたのもあり、がっかりしないで済むよう少し待ってレンタルで観た。
結論を先に言うと、ダーク&ハード方向の、出来れば映画館で没入して観るべき映画だった。
岩井俊二は最高、彼の音楽映画にハズレは無かったです!
つい力が入って長く書いてしまった、まぁいつものことだけど。

ネタバレあら?すじ(観た後で読むのをお勧めします)
災害を含む記憶を取り扱っていて、時間が前後するのが無理のない映画だったけれど、便宜上時系列で整理する。
小塚路花(るか)は、石巻の漁村で高校生の姉の希(きりえ)と母の呼子(よぶこ)と暮らしていたが、津波に遭い孤児になった。
小学生だった。漁師の父は早くに海で亡くしていた。
きりえは妊娠しており、相手の夏彦にるかや母も引き合わされた。彼が大阪の医大に行く予定であることを、るかは波に消える直前の姉から聞かされたらしい。
ひとりぼっちで木の上で生き延びたるかは、避難所に来た大阪行きトラックの荷台に潜り込み、辿り着いた大阪で公園の木に住みついた。教会で食事をもらい、弾き語りの青年に合わせて歌ったりして小銭を稼いだ。歌えるけれど話し声が出なくなっていた。
夜の公園でるかを見つけた小学校教師の女性が、心配して家へ連れ帰った。持ち物や筆談で身元を推察し、SNSできりえの安否確認を試みていた夏彦をみつけ連絡した。
るかと再会し今度こそ責任取って面倒みようとした夏彦だったが、手続きの為に連絡した児童相談所により引き離され、血縁がないので連絡先も教えてもらえなかった。
夏彦は、医大へ行かず北海道の牧場で働くようになった。そこへ成長したるかから連絡が来た。彼が牧場にいるのを知り、北海道の高校生になっていた。養父母とうまくいっていないるかは、夏彦の借りている家に入り浸り、ふたりは兄妹として同居同然になった。
夏彦が家庭教師をした真緒里(まおり)という少女がるかの友達になり、3人で勉強したり歌ったりするまで打ち解けた。るかは普段は喋れず筆談で、喋ったら姉などを思い出して涙が止まらなくなるということだった。
大学に合格したまおりは、出ていった実父のギターをるかに残して上京した。夏彦とるかは児童相談所にまた引き離された。
数年後、東京の路上でキリエ(Kyrie)を名乗りオリジナル曲を歌っていたるかと、イッコ(逸子)と変名したまおりとが再会して、物語が再び大きく動き出す。
イッコはマネージャーを買って出て、るかをプロデューサーや他の路上ミュージシャンらと引き合わせる。イッコにはパトロンのような男性達がいて、るかを連れてその1人の家に入り込み、彼のお金でキリエの使う衣装や道具を揃えた。
路上ライブに人が集まるようになっていたある日、ライブ中にイッコをただならぬ形相で睨みつける男性が現れて消え、彼に気づいたイッコは姿を消した。
直後イッコが結婚詐欺師として指名手配された。警察の話から自分の他にも大勢男がいてお金だけが目当てだったと知り、宿主の男は逆上する。彼から問い詰められレイプすると脅されるなどして、イッコを救う為に受け入れようかと怯え混乱したキリエは、叫んだ反動で泣いて過呼吸に陥る。
キリエがイッコの件で警察の事情聴取を受けた際(イッコとして出会った以後のことしか話していない)、身元引受人として夏彦を指定した為、夏彦が引き取りに現れ、高校時代ぶりに再会する。路上ライブで、キリエは夏彦の弾くギターで「ずるいよな」という昔からの持ち歌を歌う。別れ際に、夏彦は何もできなかったことを泣いて詫びる。
夏彦を見送り路上生活に戻ったキリエは、イッコが引き合わせた路上演奏仲間や新しく集まったバックバンドのメンバーと一緒に、路上演奏者によるフェスを開くことになり、練習を重ねる。
ある夜路上でイッコと再会し、何もなかったようにふたりで電車に乗り海へ行く。キリエは海は怖くない、皆がいる気がすると話す。イッコにせがまれ歌う。
フェス当日、騒音への苦情が出て警察が駆けつける。演奏許可証がどこへ行ったか分からず、演奏をやめるよう言われる中、キリエが持ち歌「憐みの讃歌」を演奏し、観客の盛り上がりは極限を迎える。
ステージにかけつけようと花束を持ったイッコが歩いていると、いつか睨んでいた男が現れ、彼女を刺して通行人に取り押さえられる。イッコは血のしたたる傷を押さえ歩き続けるが、その後姿を消してしまう。
キリエは路上生活に戻る。新たな出会いの予感がある。

感想
映画館で観るべきと思った理由は、震災の再現部分を、その後の孤独とキリエのうた、そして謝罪とゆるしの瞬間を、大音量の全身で体感する為だ。
ただ、震災を経験した人の中にはしんどくなる人も居ると思う。
以下はあくまで独断的な解釈と感想です。

この映画の一番重要なテーマは、亡くなった人へ声を届けることだ。「こんな自分だけ生きててごめん、何もできなくてごめん」と。
生残は祝福すべきだけれど、災害や戦場で生き延びた人は、たとえ夏彦のような事情を抱えていなくても、理屈を超えた罪悪感に苛まれて生きている。年月も消せない傷だ。
地震の瞬間きりえは、風呂から上がって風呂場で夏彦と電話をしていた。風呂桶からの激しいしぶきで津波が表現された。濁流に吞まれボロボロになった人々の遺体を、死の前に清められた姿として映像で置き換える意味もあるだろう。
仙台出身の岩井監督は、震災後会ったいつも笑顔な地元の人に、映画館の暗闇なら一人で泣ける、泣ける映画を作ってと言われていて、それを念頭にやっと製作できたのが、この映画だそうだ。
https://youtu.be/kidBH07smnU?si=iAN8PKtV4tKxuSwL&t=1271
夏彦が、キリエそっくりに成長したるかへ泣いて「ごめん」を言えた場面が、この映画のクライマックスの一つだ。それはたぶん、るかが姉へ言いたかった言葉でもあった。

第二のテーマは、音楽に踊り木や風など、言葉以外の体感による救いの手触りだ。人に助けを求められない時、物言わぬ事物に支えられることは多い。
津波前のるかはバレエを習っていて、高校生でも家で踊っていた。
自分の身体を動かして感じることが一番の解放だと思うけれど、放たれた歌を観る人にもそれは届く。そういう意味でも、家で観るより映画館で浴びる方が、体験の情報量が多くて良い。(そうは言っても、映画館に行けない人も観られる配信にも、価値はある。)
岩井俊二がバレエを映画に織り込むのは、その身体性や風や羽根を纏う鳥のような滑らかな動きを映像に入れたい欲求からだと思う。
クリスチャンの母に育てられたキリエが、姉の名の由来に絡めたオリジナル曲「憐みの讃歌」を最後に歌う場面、これがもう一つのクライマックスだ。
https://youtu.be/BI4zNteRP7E?si=Xw4Zcaaw7R49JYaz
アイナ・ジ・エンドの歌声は、全てを収斂して絞り出される。映画より前に円都LIVEの映像で観た彼女のステージングは、ダンスと演劇と歌とを合体させた、圧巻のものだった。
監督も、彼女の歌声が映画の着想を広げた、と話している。
https://tvbros.jp/hit/2023/08/18/70494/
御手洗礼こと七尾旅人と子役矢山花によるデュエットも、どこまでも優しい。https://youtu.be/AK6Le9PwhtY?si=Z-Desh5DYOwHUK2g
孤児になったるかが教会のステンドグラスを見上げる場面の寂しさは、何とも言えず、目に焼き付いている。
声を出せない時の喉に詰まった感じ、声が出た時の解放。くぐもる喉につかえているのは、記憶と感情と行き場を失くした何かだ。言葉にできない哀しさは、痛みのような切ない身体感覚を伴って全身を駆け巡る。
昔よく喘息様気管支炎にかかり、短気的に声が出せないことも何度かあった。苦しく不便だけれど余分に喋らず済んでどこか安心するような(マスクをつける感じに似ている)、その感触を久しぶりに思い出した。

第三のテーマは、女性が生きる困難さと男性からのそれへの懺悔だ。
まおりは、女を売って男に頼る生き方をしたくない、と主張しつつも、母の男からのお金で東京へ出る。男が母を捨て大学へ行けなくなり、結局自分も男達に貢がせて暮らす。
本来の反発すべきだった相手、不在の父を始めとした男達への代理的復讐とも言えるが、とっかえひっかえするコスプレ衣装とウィッグは、それをしたいわけではなかった彼女の不安定と空元気とを表しているように思えてならない。るかと一緒だと、不安定なままでも楽に呼吸出来るように見える。
元来働き者なまおり。母子家庭のバーのママの娘でなく、父子家庭の居酒屋の娘だったら、また違う人生になっただろう(母子家庭=不幸という意味では無く)。小説では、彼女が変わってしまう直前の残酷な事件も描かれている。
彼女もおそらくるかも、夏彦に思いを寄せながら伝えられない。受け入れられず気まずくなること、相手に頼り負担になることからの回避。るかにはそれに加え亡き姉の絶対的存在がある。壊れた姉のスマホを捨てられない。
姉が少々天然ぶりっ子的に見えるのは、クリスチャン故の習慣のずれとも関係しているだろう。彼女は夏彦に夢中だけど、男性に期待する習慣を持たず、代わりに慈愛に満ちた(それだけではないだろうけれど)母と祈るべき神を持っている。その狭い世界をこじ開けられるか、彼女はまだこれからだった。
夏彦は、父になることから逃げ出したい気持ちだったと、るかを保護した小学教師に告白する。院長職を引き継ぐべくガチガチのレールを敷かれ、弱音を許されず育った。きりえを愛しく思おう気持ちと、ずっと従ってきた親の期待に背く代わりに、また選んだわけでない重荷を背負う怖さ。妊娠したきりえからフェイドアウトするか迷っていた。
震災直後、夜道を彼が走って探しに行く姿は、一足遅いけれど本心からのものだ(震災当時の多くの人が長距離を歩いた行動をなぞるものでもある)。自分が逃げたことで、大切な人を傷つけたまま会えなくなる恐怖。
女性ゆえの苦い人生と、大切な女性の支えになりきれず追い打ちをかけてしまう男性とを、岩井監督が繰り返し描いてきたことに、この映画を観て気づいた。
『undo』の夫婦、『PiCNiC』のココとツムジ、『スワロウテイル』のグリコやアゲハとフェイホン、『リリィ・シュシュのすべて』の雄一と久野さんに佐々木、『花とアリス』のアリスと両親と先輩、『リップヴァンウィンクルの花嫁』の七海に真白とアムロ、『ラストレター』の未咲に鮎美と鏡史郎。
アムロがなぜ真白の母と全裸で酒を酌み交わし泣かなければならなかったか、やっと真に理解できた。
これら男性としての後悔と懺悔とは、全て監督自身から発せられたものなのだ。彼は一部の映画好きから少女フェチのように評されているけれど、これは単なるフェティシズムだけではない。彼の映画は宮崎駿のようには少女を美化はしていない(ナウシカは大好きだけど、それはそれとして)。美化なしで個別の美しさ(と変な癖と)を撮っている。
男性社会に多くの男性自身も苦しんでいるけれど、恩恵は受けざるを得ない。小学生のるかが唄う「異邦人」の「あなたにとって わたし ただの通りすがり」が、他人事のふりをする男性の罪を暴きたてる。
男性から女性への謝罪が、これまでの集大成と言っても良い形で謝るべき当人(の化身)に対して発せられたのも、この映画の大きな成果だ。
(でも、社会を一緒に変えるまで、まだまだゆるされませんよ~。)
靴ひもを結び直した夏彦は、今度こそ自分の道へと一歩踏み出せるだろう。

第四のテーマが、在野という生き方だ。
表現に限らず研究なども含め、メジャーになることは、大勢の分業を介することで本来求めていた姿からブレていく。
プロとアマチュアのどちらだから凄いということはない。プロが最上というのは古い考えだ。インターネットの発達は、プロの収入を減らし、プロとアマチュア間の垣根を低くすることに繋がった。今ではアマチュアも容易に世界各国へ繋がれる。
向き不向きの問題だとは思う。
プロになると、かかる責任や自覚も変わり、それが良い方へ作用することも多い。動かせるお金や関われる案件の規模も大きくなる。優れたサポートも得やすいが、逆に当たれば埋もれてしまう。全体を見渡しづらくはなり、自分で決められない部分も増える。
アマチュアでは、苦手なことでも全部自分で決めて動かないと始まらない。予算は限られる。全てが自分次第で、何でも決めることができる。アマチュアだから出来ることもあり、やりづらいこともある。
どちらを選ぶにしても、ある程度の規模で続けるには、覚悟が必要だ。
(古いタイプの業界人を体現している)プロデューサーの根岸は、映画では「そんなのは続かないよ」と告げるに留まっているけれど、小説の方では自分は業界の固定観念に凝り固まっている、とSNSでつぶやく。
違う道はいつだってある。キリエは、そこを歩いていく。

この映画の長編版(3時間が5時間に!)、監督が「これを作りたかった」という『路上のルカ』をまだ観られてないので、今観たくてたまりません。次回作に合わせて上映されるかな?

情報と分析
後付けで考えたことです。観てる最中はそんなに考えない。

名前について
岩井俊二映画には、なぜか時々キリスト教の要素が出て来る。
小塚家はクリスチャン。キリエの祈りを唱えており、食事をもらいに行っていた教会も含め、カトリック系だと思う。
呼子は旧約聖書のヨブ記から。
ヨブは、信仰の深さゆえに神と悪魔の賭けの対象にされてしまうけれど、どんな酷い目に遭わされても神を信じ抜いた人物だ。
『夏への扉』で有名なハインラインは、ヨブは旧約の神ヤハヴェが残酷かつ理不尽な証拠であり、新約の神イエスを信じるぜという趣旨のSF『ヨブ』を書いている。
Kyrieは、「主よ」を意味するギリシャ語。きりえも唱えていたキリエの祈りは日本名では憐みの讃歌とも呼ばれ、「主よ 憐れみたまえ / キリスト 憐れみたまえ / 主よ 憐れみたまえ」を3回ずつ唱えるというものだ。ミサ曲でもよく歌われる。
路花は新約聖書のルカの福音書から。
ルカは、福音書執筆者の中唯一ユダヤ人でない異邦人だ。医師で、キリストの死後に使徒を取材して記録した。キリストを人の子と捉え理性的な時系列で述べ、また、イエスの死後の使徒達の奮闘についても記した。
ルカの福音書のうち、放蕩息子のたとえはイッコに、倒れている人を助ける良きサマリア人のたとえは小学教師に、聖母の懐胎はきりえに、バプテスマのヨハネによる洗礼はきりえの入浴、金持ちとラザロの金持ちはイッコに貢ぐ男達、イエスの死と復活は夏彦に裏切られて死ぬきりえと木の上で助かり姉の名をつぐるか、シモンの網に大量の魚がかかったのがイワンことるかがぎょうさん釣ったザリガニ、と言えるかもしれない。
以上は、Wikipediaとこちらを参照した。https://www.newlifeministries.jp/gospels/#i-14
https://www.churchofjesuschrist.org/study/manual/new-testament-seminary-teacher-manual/introduction-to-the-gospel-according-to-st-luke?lang=jpn
https://www.nskk.org/kyoto/kishiwada/preach/preach220206.html
https://note.com/nupeshico/n/n62740ca05ee0
映画に絡めて考察する。
ヨブを引用したのは、大震災のような大きな不幸が、信仰心や生きる上での価値観を揺るがすからだろう。呼子は信じたまま亡くなる。
キリエが出されたのは、そのように価値観が揺らぐ時、結局人は祈るくらいしかできないから。歌にあることが第一に採用された理由だと思うが。
ルカは、strangerであり癒し手兼吟遊詩人で続けることの暗示だろう。夏彦に向けられたような歌「異邦人」は、るかの自己紹介でもあったのだ。男に興味を失われ、異邦人として移動せざるを得ないのは女の方だ。ただし、このるかは自ら放浪を良しとして引き受ける人でもある。
るかが困った時は助けが現れるけれど、本当のところは救われているのは相手の方で、一通りの変化が訪れるとまた一人で歩き出す。彼女は旅人を宿命づけられている。
夏彦は、彦星を連想させる。なかなか出会えず、会えばすぐに引き離される運命の恋人。そう言えば、広瀬すずは『anone』というドラマでも彦星という少年に恋をしていたなぁ。
まおりは、ただ今風の名にしたのか、それともニュージーランドのマオリ族由来だろうか。北海道だけどアイヌでは名前っぽくならないし。マオリはマオリ語で「普通の人間」を意味する言葉で、彼らは全てに命の息が宿るという考えをしているそうな。八百万っぽい。
(参照:wikiとhttps://newzealand-ryugaku.com/life/maori/#:~:text=%E3%83%9E%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%81%A8%E3%81%AF,%EF%BC%85%E3%82%92%E5%8D%A0%E3%82%81%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%BE%E3%81%99%E3%80%82
神社に夏彦ときりえ、るかとまおりが参る場面も出て来る。きりえとるかは違う神を思い浮かべている。祈りや歌は捧げられるが、聞き届けられる手応えはなくただ変化だけが訪れる。因みに、ルカは人が神と出会う場所としての神殿を重視したらしいです。

主題歌「キリエ・憐みの讃歌」の歌詞について(作詞作曲:小林武史)
「サイコロ」「川を渡る」
カエサルのルビコン川が引用されている。神や運命の手で否応なしに人生の賽は振られるけれど、過酷で不確かな明日へと歩き続けることは、自分が選ぶのだ。決めた後は元通りの場所には戻れない。
「嘆いてた川」
偶然かもしれないけれど、「嘆きの川」は、ギリシャ神話で冥府を流れる5つの川の一つ、コキュートスもしくはアケロンを示すらしい。ダンテの『神曲』などにも登場する。アケロンは、日本で言う三途の川に設定が酷似していて、六文銭的言い伝えもある。https://kotobank.jp/word/%E3%82%A2%E3%82%B1%E3%83%AD%E3%83%B3-24909#w-1142359
「世界はここにはないよ」
『リップヴァンウィンクルの花嫁』で真白は「この世界はさ、本当は幸せだらけなんだよ」と言った。この歌からは、その世界は消える。
ふわっと描かれた歌詞でなく、東日本大震災や911以後の、それまでの世界が全て崩れ落ちた瓦礫の中を生きているという体感を示しているはず。
世界の空白へキリエが放つうたが、嘆きの讃歌だ。わたしたちの日々の嘆きを慣れていく痛みを「それでいいんだ」と讃える歌。

<岩井俊二的モチーフ>
キリスト教:「マリア」『GHOST SOUP』『PiCNiC』『スワロウテイル』
雪の北海道:『Love Letter』(今回は震災直後のイメージも込められていると思う。北海道についてはこのインタビューが興味深い。https://artovilla.jp/articles/interview_shunji-iwai.html
セックスワーカー:『スワロウテイル』『リップヴァンウィンクルの花嫁』
歌う女:『PiCNiC』『スワロウテイル』『リップヴァンウィンクルの花嫁』
重い荷物を運ぶ女:『打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?』『リップヴァンウィンクルの花嫁』(女性への重圧の具現化)
バレエ:『花とアリス』
池のそばに現れ少年と出会う少女:『檸檬色の夢』(同じ矢山花が演じた)
ふたりの女の子:『Love Letter』『花とアリス』『リップヴァンウィンクルの花嫁』『ラストレター』
一人二役:『Love Letter』『ラストレター』
<岩井組な役者>
黒木華、江口洋介、 鈴木慶一、 樋口真嗣監督、広瀬すず、
矢山花、奥菜恵
ロバート・キャンベル氏の登場に驚いたけれど、小説版には江口演じる夏彦のおじの同性パートナーであることが明かされていて、なるほど当事者の起用でもあるのか、と気づく。学者だし当て書きっぽいキャラで自然だ。
一番驚いたのは大塚愛が母役で出たこと。起用理由は彼女のMVを撮った縁か、意外だけれど結構合っていた。
前項で書いた“ふたりの女の子”は、大塚愛と監督が喋る動画を観て、それなと思って書き足した。高くつくから写真を諦めたという彼女に、単焦点レンズとミラーレスを中古で買って、気軽に始めることをお勧めしたいなぁ。
https://youtu.be/QDT6xbiWkoQ?si=fZRQ6fLroiUvkaWc
安藤裕子は役に溶け込んでいた。村上虹郎も自然。あと、波田目役の演技が生々しかった。


名画では、記憶に焼き付く場面が訪れ、現実では聴けないひそかに皆が渇望している言葉が声に出される。現実のようにリアルな舞台空間が立ち上がる。
『キリエのうた』には全てが詰まっている。

「何度でも 何度だっていく 全てが重なっていくために」
いく≒行く、生く、逝く


ヘッダ写真は、キリエとイッコが歩いた九十九里浜や石巻とは似ていないけれど、葉山の浜辺。九十九里浜、近いうちに行きたい。



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