つぶやき 〜客観的自分は一生見えない?〜
ふと、目にした文章や事象をただ反芻している。そんなつぶやき。
前回の反芻はこちら。
主観的な自分、客観的な自分
自分で自分を振り返る。そのとき、自分は本当に客観的でいることができるのだろうか。いくら客観的でいようとしても、自分で自分を振り返る際、切り取る場面に主観的な部分がでてしまう。
振り返るとき、こんな感じで「過去の自分」を自ら切り取ることで反省している。でも、いくら客観的で相手からの自分を考えようとも、場面を切り取るときに主観的であるならば、それは客観的とは言えないのだろうか。
振り返りとは矛盾をはらんだ、
人間にしかできない思考である。
客観的に自分を振り返ろうと言って、主観的に自分を切り取る。
客観的に自分の姿を確認するための鏡であっても、実は本当の姿ではないという。自分の「本当」の姿ですら、一生直接見ることはできない。なのに学校の振り返りでよく言われていた。
逆に主観的に自分を振り返るって何なのだろう。自分の頭の中で自分を見つめ直すその「場面」を選ぶのは自分である。その時点で、主観的とは言えないだろうか。
客観的な自分って、本当に見ることは可能なのだろうか。
客観的な自分ばかりにこだわらなくてもいいんじゃないかな
個人的には、別に客観的な自分にこだわらなくてもいいと思っている。客観的な自分を「自分」で見ようとすることは困難である。
他の人に聞こうとしても、無意識のうちに自分の友達や知り合いなど「自分を知っていること前提」の人に聞いてしまう。いわば、無意識のうちに主観的に自分の「客観視」を選んでいる。
しかし、もし、客観的な意見ばかりを集めることができ自分で自分を見ることができたとしたら。私はどうするのだろうか。すべての客観的な意見を真に受けて、自分が変化したとしてそれは「オリジナルな」自分と言えるのだろうか。
客観的な自分を見ようとしてもいい。でも、無理にそこまで「人に見られている自分」いわば客観的な自分にこだわらなくてもいいんじゃないかなと思う。客観的な「自分」を考えるときには、主観的な「自分」が無意識にでてしまうのだから。
主観的も客観的も、どちらの目線も半々でうまく調和すれば…どっちも仲良く生きればいいんじゃないかな。
客観的に見ることは可能、でも不可能でもいい
決定づけない結論だが、今これを書いている自分もいわば主観的にこれを書いている。自分が今この文章を、どう見られているのか、いくら客観的に考えた所で自分の主観の籠から出ることはできない。そんなもんだ。
でもそれでいい。どちらか一方の視点だけを持ってこだわるのは、何事にも死角ができる。その死角にあるものを、私は見たい。
客観的な自分「だけ」は見ることができない。だから、主観的な自分といっしょに客観的な自分を見ればいいんじゃないかな。なかよし。
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