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つぶやき 〜陽の光が眩しくて痛い〜

 ふと目にした文章や事象を、ただ反芻している。そんなつぶやき。
前回のつぶやきはこちら。

今回のつぶやきは、視覚過敏である私の経験、そして今までの経験を通してこれからの人間にとって大切にしてほしいことを、自分なりに考えてみました。


陽の光がまぶしいのが辛い

 私は「目に日光があたる」ということが特に苦手で、感覚過敏だと視覚過敏にあたるものでした。理解されずにとても苦労して過ごしていたのは、小学生の頃です。

 私の場合では、太陽の光を浴びていると、すぐに目がじんじんしてきます。そこから割と早めに目が疲れてきます。日光から離れた後は、人よりも長く目に光の跡のようなものが残ります。

 小学生の頃、何が困ったか。それは


外で聞く先生のお話


でした。運動会の練習や避難訓練の後の話、運動会本番の開会式や閉会式。私の小学校は、やけに「先生の方を向いて、頭を動かさずにじっといい姿勢で話を聞く」ことにこだわっていました。

 ですが、先生はよりにもよって毎回日光が差す方向に立っています。それは「先生は日光が眩しい思いをしたくないから」だと今では思います。それは私も同じ思いでした。なので、私はよく


手で目の上に日陰を作っていました。


ですが、小学校の先生はこれを許してくれませんでした。

真面目に話を聞いていない人がいます。横で話したりしている人、暑いからって手を仰いでいる人、手を顔にかざしている人、何をしているのですか?

 心にこびりついて残っています。真面目に聞くために、光が目に入らないように話を聞いていたのに。この日から、手で日陰を作れなくなりました。目は痛いし視界は何も見えないし、終わった後は跡が長く残りましたが、もう耐えるしかありませんでした。

 周りのみんなよりも目に入る光に対する防御反応が、必然的に人より大きいため、目を細めるしか方法がありませんでした。そうすると、小学生の先生はこんなことを言ってきました。

目をつぶって話を聞くな。目をちゃんと開いて先生の方を向いて聞きなさい。

 本当に意味がわかりませんでした。目をつぶろうとしているわけじゃないのに。まぶしくて反射的に目を閉じてしまうだけで、寝ながら話を聞いているわけではありません。

 こういうこともあって、私は運動会の外練習や避難訓練後の話が苦手でした。眩しいながらも話を聞いているのに、こんなことばかり言われてはもう何もできません。先生は感覚過敏を「やる気があれば克服できる」ものだと思っていたのでしょう。

 先生の話を聞く気がないから、そうなる。全部そう思っているからこんなことが言えるのでしょう。今では全部憶測でしかないですが、小学校のときはとても苦労して外の授業を受けていました。

 今ではゲームセンターの光が苦手で、友達と遊んだりは避けています。どこもかしこも光っていてかつ点滅しているので、方向感覚がわからなくなります。

相手のことを「知る」大切さ

 人によって苦手なものや過敏の反応も全く違います。しかし自分の感覚を他人に経験してもらうことは難しいため、どうしても理解されづらいという課題が残ります。

 私の場合では視覚過敏による症状でしたが、感覚過敏でない人にとっては症状を感じることができません。

 なんでも自分の常識を他人に当てはめるのではなく、相手のことを知り、その上で自然な関係を創り上げることが人間にとって、とても大切なことだと私は考えます。

 私はこの関係について「思いやり」や「気遣い」という言葉では表せないという考えをずいぶん幼いときから持っています。何も突然相手のことを、無理に理解しようとしなくてよいのです。そのとき、他人が困っているなら、その人が望む対応をして、また同じ時を過ごす。それだけのことです。

「特別」扱いは何も特別じゃない

 感覚過敏について、配慮してもらうために先生に相談しても「君だけ特別扱いにするなんてことはできないから、その場から離れればいいんじゃない?」とおっしゃる方も多いです。ですが、この問題の根本的なところはどうでないと思っています。

 それは「他人がわざわざその動作をしているということは、なにか意味がある」と考えるようにすることです。困っているから、その動作をしている。その対応をしている。何も原因がない動作はないはずです。

 そのときに「想像力を働かせる」こと。そして「ちゃんと相手という一人の人間を見ること」。これがとても今の人間にとって大切なことだと思います。

 私は常に自分の常識を疑うようにしています。その時、その人、その瞬間なりの事象というものは絶えず変わりゆく。そんな中、自分の常識がいつも通用するわけがない。いつもその通りなわけがない。

 常に相手に対して「見えているものがすべてではない」。その人なりの悩みがあることを念頭に置いて、コミュニケーションを人と取っています。

 その瞬間の人間を見て、その人間にとって過ごしやすい環境を互いに創り上げていく。これは生き物として生きる人間にとって、必要不可欠なことだと私は考えています。よく勘違いする方もいらっしゃるのですが、これはわがままとは全く異なります。

 困ったときに、いつでも人に相談して、そのときにできる限りの対応をして一緒に過ごす。人間同士、関係をつくっていくにはお互いに「相手を知る気持ち」が必要だと思います。

その人にとって過ごしやすい環境を、その瞬間に。

 感覚過敏は周囲に理解されづらく、人の力だけではどうにもならないときもあります。そのような生きづらい世界を変えるために行動している、ある社会の取り組みが気になりました。

センサリールームとは

 センサリールームとは、聴覚や視覚などの感覚過敏の症状がある方でも、ライブやスポーツ観戦、鑑賞を楽しめる部屋や空間のことを指します。光や音に配慮されており、落ち着いて安心して滞在できるところが画期的です。

yogiboさんが作っている実際の空間を見ていきましょう。

ノエビアスタジアム神戸

 日本女子プロサッカーリーグに所属している「INAC神戸レオネッサ」のホームゲーム開催時に、センサリールームの利用ができるこのスタジアム。

 部屋のコンセプトはコクーン。部屋全体にはナチュラルで温かみのある淡い黄色が使われている。床面に人工芝を敷くことでサッカー観戦の臨場感を演出しているそうです。

 また、yogiboさんのビーズソファをはじめ、ぬいぐるみやおもちゃを取り揃え、子どもだけでなく家族も安心して、ゆったりと過ごせる空間を追究しています。

 ぜひこちらから内装の様子をご覧ください。


クワイエットアワーとは

 クワイエットアワーとは、お店の施設の証明やBGMを落とした時間帯を設定し、感覚過敏がある方でも安心して滞在できるようにする取り組みのことです。

 家電量販店ではテレビや照明の消灯、家電製品の消音という形で実施されています。しかし、他のお客様もいらっしゃるため、1時間だけ実施など短くかつ実施期間が少ないところが多いです。

 「配慮しているお店」という形から、テレビをずっと流すような宣伝方法を見直し、別の形で商品を紹介できるような環境を企業全体で作り、「自然に誰でも訪れやすいお店」に考え方が広まるといいですね。

 「誰でも」がこの世で一番むずかしいけど、「誰でも」から逃げてはいけない。逃げたら終わりだと思っています。

センサリーマップ

 センサリーマップとは、街や施設の「うるさい場所」や「匂いがある場所」などの五感情報が載っているものです。苦手な場所を事前に回避し、落ち着いて過ごすことができます。

 東京国立博物館は、センサリーマップを作成しています。特に屋外ではカラスの鳴き声が聞こえるところや、椅子で休める場所、音が出る場所がわかりやすく書いてあります。

 まだまだ認知度が低く、取り組みも多くないので私が考えるだけでも改善点がたくさんあります。これは、私の後輩に共同開発として、そして研究の種として託します。


誰もが過ごしやすい環境を作るって難しいけど

 誰もが過ごしやすい環境を作るということはとても難しいこと。どうしても便利の中で不便になる人がいます。それは人間がそれぞれ異なる需要を持っているから。

 しかし、諦めては人間に進歩はないと思っています。過度に配慮しなくても、相談された時、困っていそうなときに助け合えばそれでよい。本人が望むときに、できるだけ相互が過ごしやすい解決策を一緒に考える。そして一緒に日常を過ごす。

難しいけど、私は大切にしていきたい考え方です。





参考文献




はらの質問箱

 



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はら みゆい
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