見出し画像

施工管理してたらうつ病!からの立ち直った話 前編

うつ病になったのはいわゆる電気工事系のサブコンに入社して6年目くらいの28歳の出来事であった。

話は遡ってしまうがそのうつ病になる2年くらい前から業務量が立て込んだ現場が多かった。現在も相変わらず同じサブコンで元気に働いているので、このノートは過去の私の愚痴のような備忘録である。

ノートによくあるセコカンってブラックでクソ業界だから入らない方がいいよ!みたいな記事ではないので、ご了承ください。

■きっかけはたぶん26歳のとき


私が26歳のとき、とある工場現場で先輩が現場から飛んでしまって照明器具が5000台ほど仕様を間違えており、過去の議事録を読み返しその全ての仕様をあるべき姿に変えていた。(それ以外にも仕様違いがあるけど書ききれないくらい多すぎる)。

設計変更が非常に多い現場であってどんなに仕事を進めても終わりが見えなかった。

1ヶ月残業300時間していてそれが3ヶ月続いた。心身ともに疲労困憊という感じだった。
そんな業務量の中でも思っていたことはそのプロジェクトを成功させなくては、終わらせなくてはという気持ちだった。
その半導体プロジェクトの前に初めての現場代理人も経験しており、若いながらある程度自信がついていたのもあったのだろう。

しかし、今思えばそのような終わらせないといけない!とか絶対休めない!みたいな気持ちや責任感が特に自分を苦しめていた。人の代打で現場に行って仕事をしているのにもかかわらず、無駄にひたむきであったのだ。

そんな残業まみれの仕事を3ヶ月休み無く続け、なんとかプロジェクトを終わらせたのだが、許せないことばかりが起きた。

■自分を苦しめた魑魅魍魎たち


まず、そのプロジェクトの現場代理人。

30歳も年下の事務員に手を出そうとして「妻と子どもを捨てるから結婚してくれ」とアプローチしていたそうだ。現場がクソ忙しく無茶苦茶になっているときにである。
事務員の女の子は困って、会社に連絡をし相談をした。すぐ会社から連絡がいき、事実関係の調査が行われ代理人は自白した。そこで代理人が別のものに代わっていればまだ私の会社もガバナンスがしっかりしているなと思ったのだが、お金で和解したのであった。

いや、金で解決もあれだけど事務員を継続で働かせるし事務員も働くのかよって思った。私にとってはどちらも意味がわからなかった。せめて別の現場で働けば良いのにと思ったが、恐らく代理人の男がプライドが高すぎて契約満了していないのに別現場に行かせて変な噂されるのが嫌であったのだろう。そんな職場で働いていた俺も嫌だけどな。

次に工務の先輩であった。
その先輩が対応していたのが弱電設備であった。既存工場に隣接して新築工場を建設していたので既存設備を改修してシステム系を統合する必要があった。だいたいそういう工事は既存工場が動いているので日曜や夜にしかできない訳で、その担当を先輩ひとりで対応をしていた。さすがにそれは組織としてどうなの?と思いながら、親切心で日曜工事も手伝っていた。それが仇となった。

手伝い始めてからその先輩は気づいたら私を置いて帰っているのである。ある日、工事進捗報告をまとめ最終の現地確認をしてもらうために先輩に電話しても出なかった。仕方ないので私の方で客先への終了報告を行い、現場事務所に戻るとその先輩のパソコンは閉じられ、携帯電話は机に置かれていた。意味がわからなかった。後輩を置いてよく帰れたなと。
次の日に詰めたのは言うまでもないが、この先輩はなかなか懲りなかったので、夕方あたりの帰る時間前にしつこく電話をするようにして帰らせないようにしていた。

まだまだいる。施工系社員の2人である。
仮にAとBとしよう。Aは元々施工系をしておりこの現場で施工から担当者に業務変更していた。
だが、上手く担当者業務を回すことが出来ていなかった。仕事の優先順位付けだったりそういう部分が疎く、また作業員などから責められやすい工程調整業務から逃げる癖があったのである。
工程調整業務に関しては何かと理由をつけてはAは忙しくて参加できないと私に押し付けていた。その中でこれまた意味がわからないのだが、私は工程調整をして業務を進めるのだが、それがなぜか先輩の嫉妬心を焚きつけてしまっていた。年下の担当者に仕事を押し付けられたなと思ったら、まさかの自分より仕事が出来てを現場をまわせるのが気に食わなかったらしい。
それからというもの何かといえば難癖を言われ続ける日々が始まった。あまりにも先輩がガキ過ぎて無視をして過ごした。今振り返ってもやっぱ先輩がガキ過ぎてしんどいと思うが、仕事教えてもらえなくて大変だったんだろうなとも思う。

次に施工系社員のBは職長であるのだが、とにかく定時で帰る。
自分世代のゆとり世代や今どきなZ世代を凌駕するほどの仕事への意識なのだが、Bは40歳後半のおっさんなのである。
責任感が希薄でこれは俺の仕事じゃないみたいなことしか言わないタイプで自社請けしているんだから絶対にやらなきゃいけないという当たり前のこともわからないおじさん社会人なのである。このBはせめて定時帰りするくらいならまだマシでなのだが、他の電工会社の職長を煽ってから帰るのである。「俺はもう帰るけど、今日もまだ帰れないの?大変だねー」という具合である。自社の施工系社員がやらないから他社の電工に頼るしかないのに本当にまわり見えないおじさんなんだなと思っていた。

もうね、黙って帰れよとずっと思っていたが、担当者のポジションだと仕事をしてくれる職人に噛みつけないのが悲しいポジションである。だが、自分が代理人ならあんなおっさんさっさと出禁にして別の人と仕事をしたいレベルであった。

正直まだまだ魑魅魍魎みたいな人間たちがいるのだが、もうこれくらいで辞めることにする。嫌な記憶が蘇ってきて苦しい。

この現場のときはまだうつ病というわけでなく、心臓がとにかく痛くて、病院には行ってないが過労死のたぶん一歩手前だったと思う。

無責任な人間の集まりの組織に責任感を持って挑んでは駄目だという教訓をこの現場で学んだ。頭の悪い稚拙な人間たちと真正面から関わってはいけないのである。

でも、この現場はきっかけに過ぎなく、私がうつ病になった現場はもっとしんどかった。

ここまで読んだ方は建設業って恐ろしいところだなと思うかもしれませんが、「ちゃんとしている人もいます」とだけは書かせてください。

現場のゼネコンの人は私の辛さとかを遠目から見ててわかっていたようで励ましてくれてました。現場最後の日も自社からは飲みの誘いもなく、お客さんと協力会社の職人さんから飲みに誘われ、慰労会を開いて頂きました。

くそ現場ではありましたが、救ってくれる人もいましたのでまだ良かった。


あとがき
ノートを書こうと思ったのはサカナクションの山口一郎さんの記事を読んだからでした。私も発信してみようと。誰かの役に立つかわからないですが、こんな人もいるんだと思って頂ければ幸いです。揺り戻しが辛くて打ち合わせで上手く喋れなくなった話も書ければと思います。



また後編に続きます

いいなと思ったら応援しよう!