見出し画像

おもひでのふりつもる

思い出は朧気であるから思い出であるとも言える。事細かにあったことの全てを詳らかに再現できるものは思い出と言うよりは、むしろ記録に近い。
朧気であるから美しかった思い出はより美しくもなり、またそうでない思い出も、朧気である事が幾分の救いとなる場合もある。
悲しすぎる真実をそのままに受け止められる程に人の心は強く出来てはいないのだし、また不幸な事に朧気にならない出来事が人を苦しめてしまう事すらある。朧気になる、そして時には忘れてしまう事が人の心の防御作用である一面は、心理学の学術論文を読むまでもなく、自らの心が知っているのだ。
 美しい出来事はやがて色褪せていくけれど、のちのち褪せた部分に自らが鮮やかな色を塗り込んでも、きらびやかな色を足しても、誰も咎めはしない。たとえそれが事実と異なっていても、美しい思い出としてその人の心に定着すれば、朧気ではあるけれど美しい思い出として記憶に留まるのである。記憶に残すとは、予めその出来事がいずれ色褪せていく事を前提とした、過去の美の補正作業を言うのかも知れない。
 俳聖松尾芭蕉は「言い仰せて何かある」と語り、事の全てをあからさまにする事を戒めた。余白の美と言うのがあるけれど、日本の美意識には敢えて不完全を良しとする伝統があり、その不完全を補うものはその人の美意識であり、知性であり、教養であったりする。つまりは鑑賞者が製作者から託された最後の美を察するなり、想像するなり補完して美は完成するのだ。
しかも鑑賞者の教養なり美意識なりで完成の具合は個々に違うだけでなく、同一人物に於いてすらその研鑽や経験の度合いなどで美の様相はまるで違う。世界にこのような美は類例を見ない。
日本の美に定まった答えはないのだ。
 人の思い出は美の素形となりうる。そして思い出をひときわ美しく彩るものは、時を経て朧げとなった思い出の余白と言うべきものである。
過去に、あの日に、ときめきを覚えるのは実にこの余白に自らが塗り足した彩りのせいかも知れない。誰しも心にあの日の美しい出来事が息づいている。たとえそれが記憶が色褪せた事による、自らの補正であっても構わない、それはその人だけの美しい真実であるのだから。過去の自分を抱きしめる時にそれは彩りを帯びて強く深く心の奥底に沈殿し、それが深ければ深いほどに年月の隔たりを思い、過去を巡った心は、ときめき、高揚し、熱を帯びる。
そしてなぜだろうか、ふと、人は涙を浮かべる。それは思い出の底が深ければ深いほどに、あの日が二度と帰らない事を知っているからに他ならない。

おもひでのふりつもる
こころのおくにふりつもる
あせていくたしかより
あざやかにいろどられた
まぼろしのひ
やがてそれは
たしかにあったまぼろしのひとなるのだ

南無

    

いいなと思ったら応援しよう!