分断を生むマーケティング② ~納得マーケティングの可能性~

先日の記事では、
・マーケティングによる「キラキラ層」量産
・共感マーケティングによる「閉じられたコミュニティ」量産
・キラキラ層になれない人との分断が発生(はからずもSNSがそれを助長)
・コロナ後の世の中に、さらに分断が発生する

ということを述べさせてもらった。

今回は、ではこれからの世の中は分断だらけの世の中になるのか?それについて、少しだけ希望を持てるような論考をしたい。


1.分断を生まないマーケティングは可能か

 分断を超えるにはべたな話だが、「多様性を認める」「隣の芝生を気にしない」ということが必用だ。ちなみに個性を大切に!は、違いで人と分かれることではない。「みんなで○○」、なんていうのは時と場合による。コロナ19騒ぎの中で、三重県では感染者の自宅に石が投げ込まれる・落書きがされるという事件まで発生しているし、香川県では引っ越しに追い込まれているという。みんなで自粛、という状況なのに営業しているお店は悪だという通報が相次いでいる。だからどうした?あなたが行かなければいい話だし、、、というのは通用しない。私が自粛しているのにあなたが自粛しないのはおかしい。本来なら「必要に応じて行動を自ら制限する」のが事業者であれ個人であれ正しいはずなのだが。
 従来のマーケティング手法だと、ターゲットを選定して、その人が刺さりやすいキャッチ(コピー)のもと、購買を掻き立てる。しかし、ターゲットはある一定のペルソナが想定させられているものの、個人個人の特定まではもちろんできない。結果買った人の共通項を見直すことはできるが。マーケティングの基本が「モノが売れるしくみ」である以上、「ターゲットの選定」という分断の誕生を促進させることは止められない。

2.これからの社会的マーケティングの在り方

 ではどうするかというと、すでにGAFAあたりは取り組んでいることだと思うのだが、押し付けにならない共感の手法が必要になってくると思う。これをここでは「アプローチ型マーケティング」と呼ぶ。
 勝手に日本版にすると、『商店街の八百屋のおっさんがお客さんに聞く、今夜のごはん何にするよ?型アプローチ』もしくは『サザエさんにおける三河屋のサブちゃんアプローチ』ということになる。
 すなわち、ニーズに応じてちょうどいいころ合いに御用聞きがそれとなく必要なものを聴きに来てくれて、その日の気分やほかの状況に応じて良い提案をいくつかしてくれる、ということである。すでにアレクサやamazonダッシュボタンなどがバージョンアップしつつ、適度に補充してくれる。いまは、いくつかのものを「補充」のレベルであるが、今後は冷蔵庫が『そろそろアイスコーヒーがなくなります』から、アレクサが『今度、より香りの深いコーヒーが出ましたよ、あなた最近香りの高いお茶やワインも買っているし、今度はこちらどうですか?』と聞いてくる時代なんだろう。


3.共感マーケティングから納得マーケティングへ
 
先に述べたような提案型はAI技術が実現してくれる(もちろん、どんな家庭でも使えるくらいハードの値段が下がることが前提だが)として、消費者や生産者の心理が変わらなければ実現はできない。大量生産大量消費の世の中ではないと言いつつ、まだまだそのレベルは低い。環境負荷低減のためにも大量生産の時代は脱却しなければならない。
 では、どういうマーケティング的アプローチがこれから必要になってくるのだろうか。少なくともそれは共感マーケティングや口コミレベルのものではないと考える。ネットの「口コミ」が広報効果を生む時代の終焉については後日のべたい。口コミやSNSを活用したバズらすことでビジネスを創りだすことが難しくなっているのは100日後に死ぬワニの事例が雄弁に語ってくれた(D通が下手すぎたことは別にして)。
 ここで挙げたいのは「納得マーケティング」という考え方である。「他人が言うているから(それが有名人や話題の人にかかわらず)」ではなく、自分のニーズや状況を理解してくれた上で、ほかの商品とも比較して適切な価格の商品を進めてくれる。そんな手法がAIに備わってくることによって、「私は私の欲しいものがちゃんと満たされている」心理状態が生まれてくる(⇒分断を生みにくくなる)と考えている。つまり、自分は自分でいいのだ。しかし、それには「自分を信じる」、という行為が必用である。みんな誰しも他の人への羨望を持たずに生きていられるわけではない。では、その己の力がない場合は?

4.結局、弱い人間は損をする時代

 身もふたもない結論になってしまうが、情報弱者はいつまでたっても損をする。己を強くできなければ周りに流されて生きるだけである。だからといって「強くなる」のはむつかしい。オレオレ詐欺の話題でたびたび出てくるが、だました側と騙される側、どちらが罪深い?の理屈がある。ではそういう詐欺への啓蒙活動のコストと、自分が勉強したほうがいいと思わせるコスト検証をしたらどうなるか。コストばかりで政策を作るべきではないが、もしかしたら、騙した側への極刑はありうるのか(社会的コストを増大させたことは刑に反映されるのか)という法律論になってくる。
 こんなことを言うていると、「大衆は反逆しているのか」「自由から逃走しているのか」、(他)人には(他)人の乳酸菌、となれるのかなんていう社会心理学の話にもなってくる。
 教育に、多様性と相互理解をもっと取り入れていく必要はあると思うが、自分で自分を強くし、ほかの人に流されない。そんなことを考えていくしかないのである。

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