大晦日の感慨の詩など、四首

 大晦日の夜ともなると、なんとなく我が身を振り返ることがあります。一年の終わりという区切りですので、その年一年についてももちろんそうですが、これまで過ごしてきて、今ここにたどり着いている我が身の過程について、静かな夜に少し振り返ったりするのです。

 先日記した記事にあるように、詩への興味はルバイヤートから陶淵明に至ったのですが、その後は陶淵明から漢詩全般へと進むことになりました。そしてその興味によって、去年の夏から今年の夏くらいまでにかけては、『中国名詩鑑賞辞典』なるものをじっくり読んでみる、ということもしていました。

 そんなわけなので、多少は漢詩の知識もついたのではないか、とすればこの年末大晦日、なにかそれに見合った詩のひとつでも挙げられないかと記憶をたどりながらパラパラとページをめくってみれば、盛唐の詩人・高適の、その名もまんま「除夜作」(除夜の作(さく))という詩に至りました。

 旅館の寒灯 独り眠らず
 客心 何事ぞ 転(うた)た凄然
 故郷 今夜 千里を思はん
 霜鬢 明朝 又一年

(『中国名詩鑑賞辞典』p298)

「何事」は「どうしたためか」、「転」は「うたた。いよいよ。ますます」、「凄然」は「寂しいさま。痛ましいさま」。

 旅館の寂しい光のなか、独り眠れずにいると、
 旅の身にはどうしたためか、いよいよもの悲しい気持ちになってくる。
 故郷にいる家族も、今夜、遠く離れたわたしのことを思っているだろうか。
 白髪が多くなった我が身だが、明日また、歳をとるのだ。

 というような詩です。高適はこのとき、その役職からか故郷を離れて暮らしていて、旅先で独り、故郷の家族のことを思い、そしていつの間にか年老いて白髪頭になった我が身が、また歳を重ねることに感慨を抱いています。

 ちなみにこの第三句、自分で読んだときには「遠く離れた故郷の家族は、今夜、どうしているだろうか」と作者が思っている、と読みました。そのようにも読めるそうですし、なんなら従来はその立場をとるものが多かったそうなのですが、『中国名詩鑑賞辞典』も『漢詩鑑賞辞典』も、あるいは『漢詩一日一首 <冬>』でも、故郷の家族が高適のことを思っているほうを採用しています。

「漢詩一日一首 <冬>」ではその理由を、次のように説明します。

理由の一つは、この句がいわゆる「起承転結」の転、絶句構成の転折点にあたる第三句であること。従って客心の転た凄然たるゆえんは、故郷に思いをはせるため、とスムーズに第二、第三句がつながるよりは、視点の逆転がここにあった方がよいと思われるのである。理由の二つは、この句とさいごの第四句とが対句構成をとることにもとづく。

(『漢詩一日一首 <冬>』p247)

 第三句と第四句は、原文では

 故郷今夜思千里
 霜鬢明朝又一年

です。「又」は、「一年を又(かさ)ねる」の意味であるので、「思千里」の「思」と対であると言います。したがって、

今夜と明朝、千里と一年、これは明らかに対語であり、二句は意識的に構成された対句であるとしてよい。とすれば、一年を重ねる主体が「霜鬢」であるように、千里を思う主体は「故郷」であった方がよいのではないか。

(同 p248)

というわけです。このあたりの、構成から意味を見いだしていくさまは、漢詩の面白いところのひとつだなあと思います。

 さてこのように、また一年を重ねるのだとの感慨をもたらす大晦日であるのですが、一方でそれを否定するような詩もあります。2023年に行われた、西田幾多郎記念哲学館「西田幾多郎と短歌」展のポスターで見つけて、とても気に入った短歌です。

 年ぐれにとしがゆくとは思ふなやとしは毎日毎時ゆくなり

 大晦日という区切れに詠んだ詩、というよりは、おそらくは平日平常のサイクルのなか、いや今まさにこの時だって、年は過ぎ去っているのだよ、という詩でしょうか。日常の油断しているときに読むと、はっと気づかされる詩だと思います。

 ちなみにこのポスターには、

人生には唯、短詩の形式によってのみ掴み得る人生の意義というものがある。

という、西田幾多郎「短歌について」からの引用文が書いてあって、これもまたかっこいいと思ったのでした。

 さて次は、大晦日というわけではないのですが、冬の静かな夜を描いた「冬夜」という漢詩です。作者の江馬細香は江戸時代後期の人で、蘭学者の父のもとに生まれました。

 爺繙欧蘭書   爺(ちち)は繙(ひもと)く 欧蘭の書
 児読唐宋句   児(こ)は読む 唐宋の句
 分此一灯光   此の一灯の光を分かちて
 源流各自泝   源流 各々 自(みずか)ら泝(さかのぼ)る
 爺読不知休   爺は読みて 休(や)むことを知らず
 児倦思栗芋   児は倦(う)みて 栗芋(りつう)を思ふ
 堪愧精神不及爺 愧ずるに堪ふ 精神 爺に及ばず
 爺歳八十眼無霧 爺は歳八十 眼に霧なし

江戸女流文学に魅せられて

 冬の夜、ひとつの灯りを分け合って、父は蘭学の書を、娘は唐宋の詩を読んでいます。父は休むことなく読み続けますが、娘はそのうち飽きて、お腹空いたし栗とか芋でも食べたいなと思います。そんなとき、ちらっと横目ででも見たのか、まだ書を読み続けている父の姿に、ああ、父には及ばないと恥ずかしくなる、という詩です。父親への尊敬の念を感じるとともに、ひとつの灯りを分け合いながら、でもそれぞれ自分のことをやっている、静かで、親密な空間を思います。

 冬の静けさ、というところから、最後にもうひとつ、中唐の詩人・白居易の「夜雪」を挙げましょう。

 已(すで)に訝(いぶか)る 衾枕(きんちん)の冷ややかなるを
 復(ま)た見る 窓戸(そうこ)の明らかなるを
 夜深(ふか)うして 雪の重さを知る
 時に聞く 折竹の声

(『中国名詩鑑賞辞典』p481)

 衾は掛け布団のこと。さっきからやけに寝具が冷えると思っていたところに、さらに窓からは明るい光が入ってくる。これは雪が降っているなと思って眠りについたが、夜遅く、雪の重さで折れる竹の音が聞こえてきた、という詩です。しんしんと降る雪、夜遅くに聞こえる竹の音。どちらも冬の夜の静けさを際立てます。

 以上四首、大晦日と、そこから連想した詩について挙げていきました。

 こんな風に、折々の季節出来事にあわせた詩の紹介ができるくらいには、詩の知識を増やしていきたいなあ、と思う年の暮れなのでした。

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