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【読書メモ】家で天寿を全うする方法 病院での延命を目指さない生き方

著:太田秀樹
さくら舎 2015.7

概要

著者の太田秀樹氏は医学博士であり、全国在宅療養支援診療所連絡会事務局長。1992年から在宅医療を推し進め、栃木県小山市に「おやま城北クリニック」を開業。医療法人アスムス(在宅療養支援診療所・訪問看護ステーション・老人保健施設等を運営)の理事長です。

本書は一見すると、書店に行けば散見される、どれを読んでいいか/信じて良いかわからない、「生き方」本(なんとなくイメージが伝わると思う)のように感じられるかもしれません。
しかし、それらとは一線を画すものだと思います。

太田氏は「在宅医療元年」である1992年から在宅医療に取り組み、東京大学の「平成25年度 博士課程教育リーディングプログラム」のプログラム担当者として名を連ねています。
また、医療法人アスムスは、「コミュニティー・ケア研究所」を備え、日本学術振興会のもと、社会技術研究開発事業として、「地域診断ツール」の開発を行うなど、日本全国での在宅医療を推進しようとしています。

内容は、太田氏の医師としての切れ味鋭い、治療/療養の考え方についても、わかりやすく軽快に語られていますが「生き方」指南に留まりません。
医療・介護の制度・文化の文脈を解き明かしながら、在宅医療・地域包括ケアシステムへのビジョンが、実践知に基づき、一貫して語られています。

目次

はじめに ゴールは「長寿ではなく天寿を」
第1章 誰も避けられない「虚弱化した期間」の過ごし方
 悪魔のスパイラルに巻きこまれないで生きる
 医療に頼ればなんとかなるという幻想を捨てる
 誰かの世話にならなければ人生の最終章を閉じられない
 人生をまるごと診る医療がある
 「自分はこうしたいんだ」と医者に伝えられる高齢者になる
第2章 元気なうちに自分の終章に備える
 日本では足腰が弱ったら人間らしく生きられない
 在宅医療の理想形がここにある
 看取ることが自分が看取られる準備
 医者もケアマネジャーも合わなければかえる
 終末期を幸せに生きるための制度がある
第3章 在宅医療には不思議な力がある
 医療よりも大事なことがある
 高齢者の晩年を幸せにするには
 病院か在宅かをどこで判断するか
 緩和ケアは在宅で
 最後まで食べることを楽しめるように
第4章 医療・介護制度を知ることから
 日本の医療の歴史の原点
 治せない病気をささえる取り組み
 超高齢社会の医療
 地域包括ケアシステムを機能させる
第5章 天寿をささえる人々が動き出す
 天寿とは何かの答えを自分で出す
 水、メシ、クソ、運動の4大ケアと胃ろうはずしをする
 在宅ケアネットワークがやっていること
 人生の最期に際して

抜粋

厚生労働省によると2013年の日本人の健康寿命は、男性が71.19歳、女性が74.21歳で、平均すると72.7歳です。
一方で、2013年の日本人の平均寿命は、男性が80.21歳、女性が86.61歳。男女で異なっていますが、平均すれば83.41歳くらいです。
この平均寿命と健康寿命の乖離している約10年間がとても問題なのです
誰かの支援や社会的ななんらかの援助がないと生活できない虚弱化した期間があるということだからです。
この脆く弱った時間帯がやってくることが、元気で過ごしている人にはなかなかイメージできません。(P16)

天寿を全うする力を仮に「天寿力」と呼んでみると、天寿力はけっして個人の努力や能力だけではありません。もちろん自らの人生観をしっかりもつことが大前提ですが、家族の理解や家族の協力も大切です。
さらに、医療も、福祉を含む都道府県、市町村の行政サービスも、サービスが提供される仕組みも、向こう三軒両隣、自治会の人々も、あなたが暮らしている町が関係するのです。天寿力をささえてくれるのは、人間の尊厳を守ろうとする地域の文化の力でもあるのです。(P21)


認知症の老親を精神病院に入院させて薬物ロックをしたり、年金めあてにチューブの延命を医師に頼んだりするようなことがまかり通っている国です。
そもそも高齢者、とくに介護が必要となった高齢者に対する人権意識が希薄だからじゃないかと思うことがあります。
一方で、高齢者たちの「謙虚さ」がそれを助長してしまっています。「老いては子に従うものですよ」、あるいは「私みたいなものが生きていたら、みなさんに迷惑をかけるから」など、
本音は家にいたいけれど、遠慮から施設に入るという態度が見られることも少なくありません。(P31)


医療法がつくられたのは、昭和23年(1948年)です。敗戦から3年後。
そこからが日本の医療の歴史です。そして国民皆保険ができたのが昭和36年(1961年)。(P122)

そして、昭和40年代には、老人医療は無料という施策が拡がります。
(中略)
昭和50年代になると、入院する年寄りがどんどん増えていきます。
いわゆる「老人病院」が出現したのです。
(中略)
ベッドが老人たちによって埋め尽くされたというわけです。
(中略)
そこで老人保健法(筆者注:1983年)というものができて、第二次医療圏という概念が登場します。第二次医療圏、つまり都道府県レベルで一定のエリアに線を引いて、そこで必要なベッド数を決めて、病院は病気を治す場所にしようとしたわけです。
(中略)
そのころ、診療所の待合室も老人の集いの場となりサロン化したと揶揄されます。(P124)

1976年は、とても大きな意味をもっている年です。この年に病院で死ぬ人と在宅で死ぬ人の割合が逆転しました。それまでは、大部分の高齢者は、自宅で看取られて旅立っていきました。その数を病院で死ぬ人の数が凌駕したのです。
(中略)
1970年代は医者が増えはじめた時代です。全ての県に医学部や医科大学を誘致することが、閣議決定されます。医学部の定員は4000人から8000人に、1980年代に向けての約10年間に医者の陽性数は倍になります
(中略)
どこにでもいるような町医者になったら生活できなくなるかもしれないから、専門性を極めるようにと、先輩や教授たちからアドバイスされるのです。
(中略)
結局40年たってみると日本の医者は、ある病気、ある臓器、ある器官だけを診る専門医ばかりになります。(P38)


病院の専門医が尊敬を集め、病院へ病院へと流れていく人々が増していったとき、もうひとつの医療文化の変化が起こっていました。
町の開業医への信頼の失墜です。
(中略)
町の開業医は、みなさんにとってとても身近で、健康に関することだけでなく、いろいろなことを気楽に相談できるそんな存在だったはずです。
ちょっとした健康問題に幅広く対応するプライマリーケア医なのですが、専門医でない上に、検査設備が貧弱だというような理由で、藪医者あつかいされることもありました。
ところが、この事態は1990年代になると徐々に変わりはじめます
高齢化率も14%を超えて本格的な高齢社会となりました。病院のベッドが高齢者で埋め尽くされそうになってきたのです。(P41)

1992年に法制度上で、居宅が医療の場となったのですから、町の開業医復権のきっかけとなりました。往診は病院の医師の役割ではないからです。
だから、のちにこの年が日本の在宅医療の夜明けだといわれるようになりました。(P43)


「フレイルティと暮らす虚弱化した期間」に血液検査をすれば、いろんな異常が見つかるかもしれません。人生の最終章を生きるのですから、まったく異常なしというはずはないと考えましょう。
(中略)
基準値からはずれた状態を病気と考えるからですが、症状が出ない異常値については、治療の対象としないほうがいい場合がいくらでもあります。(P50)


町の開業医は診療が中心です。
だけど、私のところは、民間の医療法人に珍しく、ささやかな研究所を併設して、研究と教育にも力を入れようとやってきています。
(中略)
少しでも現場から発信しないと、在宅医療が科学として普遍化しないからです。(P63)


地域包括ケアシステムは基礎自治体ごとに整備されることとなっていますので、市町村はたいへんです。
(中略)
その千何百ある基礎自治体ごとに、在宅での看取り率を調査して地図を描くと、35%くらいはグループホームや高齢者住宅や自宅で死ねるという地域が存在することがわかります。
ところが、その隣に0%の地域があるのもわかります。
国民の終末期医療に対する意識調査は、政府や自治体や新聞社などさまざまな組織がおこなっていますが、どの調査を見ても、60~80%の方が、在宅での終末期を望んでいます
(中略)
そこに住んだがために、在宅で死にたくとも、その思いは絶対にかなわない、自分らしい生活を維持しつづけて、人生に満足しながら死ねない。
そういう地域が存在する
ということです。(P80)

マップを眺めてみると、なんとなく中部地方が色が濃い。あとは三重県とか奈良県とか。ここが在宅看取り率の高い地域です。これは医療費の安い地域と一致します。病院のベッドの数と負の相関もありそうです。
つまり、病院でこってり治療されることがない地域といってもいいかもしれません
一人当たりの医療費の格差は、高いところは低いところの1.6倍になります。(P82)


在宅医療をすすめなければ、高齢者の晩年を幸せにすることはできません。そういう状況になったのは、社会的な変動が背景にあります。人口構造の変化、少子化、長寿化、そして疾病構造の変化によって、治せない病気が増えました。
晩婚化、非婚化、夫婦で働いて子どもをもたない(DINKS:double income, no kids)という社会的な変化もあります。核家族があたり前になっています。
それらの結果として、暮らしぶりは個人主義化して、地域でのささえあい機能、地域共同体が崩壊しつつあります
もう一度、地域共同体を再生しながら、なんとか在宅医療をすすめていかなければならなくなったのです。これが、地域包括ケアシステムと呼ばれている新しい仕組みです。
そういう国の状況ですから、在宅医療を牽引すべく、介護保険法があり、障害者総合支援法があり、がん対策基本法があり、往診する医師にも診療報酬状いい点数をつけるという施策がすすめられています。(P95)


医者はユニホームとして白衣を着ているものですが、出前医者の私は普段着です。夏ならポロシャツ、冬はセーターといったぐあいです。
主役はあくまで訪問看護師医師の役割は病態の判断をすることです。(P100)

在宅医は、入院するというような、環境を変えることでの不利益がどれほどのものかを判断して、入院医療を選択するかどうかを慎重に決めます。
入院自体で生命力をそこなう場面が多いからです。
(中略)
入院という生活の激減で夜間譫妄を生じることはしばしばです。譫妄状態になれば、向精神薬を使われる。向精神薬を使うと活動性が落ちて廃用症候群(安静状態が長期化することで、寝たきりになるなど心身の機能低下が生じる)がすすむ。廃用症候群がすすめば食事ができなくなってチューブ栄養になる。あがて胃ろうになって病院から帰れなくなる。前にも述べた悪魔のスパイラルです。(P104)

「在宅には不思議な力がある」という言葉は、秋山正子さん(市ヶ谷のマザー・テレサと呼ばれる訪問看護師)のいわれた言葉ですが、私はそれに同感です。
ただ、正確に言えば、在宅に力があるわけではない。
病院という場所は病気を直す場所ですから、生活を犠牲にしても治療に専念します。こういった環境だと、とくにフレイルエルダリーといわれる人たちからは、生きるための力が奪われてしまいます。
自宅は生活の場所ですから、奪われた力を自宅で取り戻すことができるわけです。(P109)

私たちの調査では、2週間在宅で介護されたお宅は、まず最初の関門をクリアして、次の2ヵ月を越えると最期までケアできることが多いものです。
そもそも家で看たくもないけれどしょうがないから連れて帰ったというお宅は、2週間以内で簡単に在宅療養は破綻します。
(中略)
その次の2ヵ月というのは、ケア技術を身につける期間です。(P110)


緩和ケアの技術について、世界保健機構は次のようなことをいっています。
---人間の死というものは、ノーマルプロセスです。あたり前のことで、人は死にます。
緩和ケアは、命を操作しない。長くもしないし、短くもしない。延命もしないし安楽死もしない。
そしてポイントは、アクティビティを高くすること。死ぬときまで活動性を高く維持する。
そのためにチームでアプローチする。患者も家族も看ることだ。
クオリティ・オブ・ライフを高めることです。生活の質を高める医療が必要です。---(P114)

好きなものを食べるほうが幸せなんじゃないか。
そんなふうにクオリティ・オブ・ライフを医療が介入した妥当性の尺度にもっていくことが大切です。
お風呂にはいることも、もう一度思い出の場所に旅をすることも、好きなものを食べることも、さまざまな願いをかなえる医療、それが在宅医療だといえます。(P99)

厚生労働省の通知のなかの文言に、「居宅等における医療の充実によりQOLを向上するように」という一節があります。医療介入の妥当性の尺度が、数値ではなくクオリティ・オブ・ライフになりました
(中略)
命の量よりも、命の質だということを国が明言した
ことは、たいへんな変化だと、私はとらえています。(P139)


在宅医療がもつ意義のひとつには、暮らしのなかに、生きる、死ぬという、生命をもっとも身近に感じることができ、死が自然の営みであることを伝えられることです。そこから、文化が変わっていくのではないでしょうか。(P150)

補記

抜粋文の順番を入れ替えることはあまりしたくなかったのですが、太田氏の膨大な知識・経験・ホスピタリティから、朗々と語られる様々なことは、抜粋すると、文章同士の繋がりが薄れてしまうと思ったため、一部を入れ替え、関連するトピックごとにまとめてみました。

近々、太田氏にお会いする機会があるのですが、
本文中で語られている「在宅で死ねない地域」についての施策案や、終末期の手前で「要支援・介護」になるべくならないためのフレイル予防の普及方法、QOLを高めるための「ライフレビュー」についてのお考え等のディスカッションができればと考えています。

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