
地雷拳(ロングバージョン17)
承前
窓のない道場で時間の感覚が鈍っていた。空が暗い。歌舞伎町が目覚めはじめる夜7時だった。店の前に人だかりができていた。
営業時間が始まったばかりのCLUB Skyは騒然としていた。野次馬がカメラを向けようとするのを沈める銀髪のホストに美空は声をかけた。
「白夜か。状況は」
白夜と呼ばれたホストが口を開く前に、悲鳴があがった。窓ガラスを突き破り、ホストが落ちてきたのだ。異常事態に再びカメラを向ける歩行者のスマホを白夜が叩き落とす。
美空が窓ガラスまみれのホストを抱きかかえる。
「おい、何があった」
「爺さんが……突然!」
そう言ったきりホストは気を失った。
上の階を見やる。物音がひとつもしない。天鵞絨のカーテンが風に揺れている。
ホストクラブに戻ると、爆弾が落ちたような有様だった。
シャンパングラスが割れ、照明は人がぶつかったせいでチカチカと明滅していた。テーブルの上には、こちらに背を向けてしゃがむ老人がいた。
老人は異様な見た目をしていた。道着を身につけている。頭には円盤状の金属板がついていた。時折、青いプラズマが機械から迸った。痛々しい改造痕とともに、右腕が銀色に輝いている。
老人はルイ13世をラッパ飲みしていた。ボトルの底面を天に掲げ、中身は瞬く間に消えた。
ホストたちがざわめいた。殺気立つのも無理はなかった。ボトルは姫たちが命を懸けて卸すものだ。タダで飲んでいるところを見て黙っていられるはずがない。
美空が警告する前に、ホストのひとりが老人の前に出た。
「俺らの命なんだわ! 見てらんねえ!」
ホストが前蹴りを繰り出した。蹴った場所に老人はいない。背後に回っていた。ホストが振り返る。右拳を打とうとした瞬間、老人の拳はすでにホストの胸にたどり着いていた。
短く老人がうなった。拳にはじかれたようにホストは奥の壁まで吹き飛んだ。
「俺も行きます!」
「待て!」
ホストたちを美空は制した。
「あれは……どうにか出来る相手じゃない」
老人の動きを知っている。美空には見覚えがあった。
老人が振り向いた。初めて美空は老人の顔を直視した。
「先生......?」
遠い過去の記憶が呼び起された。熱い太陽の下、琉球空手に明け暮れた日々。ろくに教えもせず酒ばかり飲んでいた師の姿。師と似た目をしていた。象のような優しい光を帯びていた。だが、美空は背筋が粟立つのを感じた。
目の前にいる男は、船越呂円だ!
だが、記憶の中と姿が違った。呂円の目の奥には何も像を結んでいない。空っぽな目だ。
美空が気づいた時には、呂円はテーブルを飛んでいた。一度の跳躍で美空との距離をゼロにした。
とにかく美空は腕を前に出した。骨が電撃を浴びたように痺れた。
身体に染みついた防御がなければ、もろに蹴りを受けていただろう。
美空が息を短く吐く。気合いを込めた上段蹴りを叩き込む。
「……ッ!」
足が呂円に触れることはなかった。空気の膜が出来たようだった。気づいた時には遅かった。
金属光を放つ右の掌底が、美空の胸に当たっていた。身体の奥に衝撃が留まり内臓が踊り狂う。
よろめく美空は後ろに引っ張られた。机が派手な音を立てる。
「が……は……」
背骨がびりびりと痺れていた。老人はまたボトルを傾けている。嚥下するたびに喉仏が無機質に動く。あの日のようにうまそうに酒を飲む師匠ではなかった。
「先生っ! 呂円先生っ!」
呂円は息を吐いた。笑ったのだ。
「……誰だ......おまえは」
「先生、身体が」
「この身体はもう俺のじゃない。腕も足も分からず動かしてんだ。正直、自分の名前もよくわからん」
呂円は再び構えをとった。
「......だがな、俺の身体はお前を知っている」
「俺に任せてくれ」
美空は一歩踏み出し、呂円と対峙した。
「やれるな……」
絞り出すような声で呂円は言った。不安定な視点は構えた。震えていた指先がぴたりと止まった。
「はい」
美空も構えた。決然とした表情だった。
呂円が半歩踏み込む。それだけで間の空気が圧縮された。互いの間合いがぶつかると同時に、打撃音が響いた。
打撃の応酬が続いた。
「じゃッ」
美空の手刀が首を狙う。風を切る勢いのそれを、呂円が受ける。柔らかく、衝撃をいなしている。波にさらわれるような動きで、美空の手首を固めようとする。
「……ッ!」
呂円の眉がぴくりと動く。咄嗟に呂円は、美空を突き放していた。美空は呂円の胸に拳を当てていた。
「衰えちゃいない」
「良い動きになった」
技をかけてはそれを防ぐ。防いではカウンターを放つ。達人同士のやり取りだった。その光景を遠巻きにホストたちは見ていた。迂闊に入ることは許されない。彼ら同士に何があったかは分からない。拳によるコミュニケーションを途切れさせてはならないことは確かだった。
「……ッ!」
美空の拳が脇腹を打ったように見えた。呂円は緩やかに関節を捻り、投げた。
呂円の肩甲骨が軋む音を、痛みに悶えながら美空は聞き逃さなかった。俺たちは、自分の命を削っている。なのに……。
「なんて......楽しいんだ」
「そうだ、空手に礼儀も結構。だけど、俺たちは結局、拳固めてぶちのめすのが面白いんだ!」
美空の蹴りが呂円の顎を狙う。
「ぐぅっ」
美空が呻いた。蹴りよりも先に、呂円は美空の胸骨を打っていたのだ。弾かれたように壁にぶつかる。
その拍子に、天井の照明が落下した。
「やれるか」
「ええ」
呂円が手を貸した。美空が手を取る。
美空の顔には薄く笑みを湛えている。
「それじゃあ」
そのまま呂円を投げる。呂円の身体がふわりと重力をなくした。頭を逆さに呂円は宙に浮きながら嬉しそうにしていた。
「誰に似たんだか……」
「教えの賜物です」
美空が地面を蹴る。空中の呂円に蹴りを放った。顔面を打ったはずの蹴りは、空回りした。
呂円は踵で美空の蹴りを受けていた。軽い身体は、回転をさらに増して音もなく着地した。
「……!」
美空は呂円にさらに追撃を仕掛ける。呂円が腕で捌く。それより速く拳が到達する。呂円の顔に擦り傷ができた。
呂円自身も気づいているのだろう。頬から落ちる血を舐めとった。美空と目が合い、互いに笑った。
「…まだやれるな」
動きが鈍くなったとはいえ、呂円に有効な一打は与えられていなかった。
美空はゆっくりと頷いた。
天井の照明がジジと鳴った。度重なる戦闘で接触が悪くなったのだ。スポットライトが自転するミラーボールを星に変える。
両者は動かない。構えたまま時が流れていく。砕け散ったグラスの破片が照明を反射して煌いた。
最初に動いたのは、呂円の拳だった。自然の摂理を超えた一撃は二者の間をゼロ距離に変えた。美空の喉を潰す瞬間だった。
呂円の拳が白い喉に触れたまま動かなかった。
美空は短く呼吸を吐き出し、拳を繰り出していた。一切ブレることなく、打撃は呂円の背中を突き抜けた。美空の拳が深くめり込むと、呂円は吐血した。打ち込んだ拳の筋肉の硬さが消えていく。
「よく見ていた……」
「先生の構えは時を追うごとに上半身がブレていた。きっとカンフーと空手を両立できるほどあなたは器用じゃない」
美空は師匠の言葉を思い出していた。空手は己の身体を知るところからだ。
「俺自身が分かっていなかったか......。やるじゃないか」
「でも俺は……先生を……」
呂円は笑い、美空のジャケットを握った。死にかけていたはずの、老人の腕力とは思えなかった。
「お前はやるべきことをやったんだ……これからも貫け」
美空が呂円に頷いた。両眼を閉じ、一眠りするような表情のまま呂円は 動かなくなった。
美空の目から光るものが落ちた。呂円の頬に当たったそれは、ミラーボールの光を受けて極彩色を映し出した。拳は固く握られ、白色に変わっていた。
《呂円の頭にあったのは女帝のカンフーチップだった》
息を吹き返した姉の言葉に、姫華は頷いた。そのまま、右側から撃ち込まれた拳を躱す。鼻先すれすれを通る拳を見送る前に、相手のホストの腹に掌底を打った。
「やめ」
美空の声が姫華の動きを制した。
「今ので百人だ」
周囲にはホストたちが倒れている。姫華たちは百人組み手をしていた。
「嘘。まだあんたが残ってる」
「俺にはまだ現場復帰は無理だよ」
「嘘つき......」
一歩進もうとして姫華は膝をついていた。姫華の意図とは関係なく足の力が抜けていた。糸が切れたようにその場に座り込んでしまった。脚が別の生き物のように震えていた。
「これくらいまだまだ……」
姫華の脳裏にあるのは栄光だった。勝利を手にして思う存分シャンパンを開けるさまを思い描く。ラスソンを歌う龍斗の隣にいるのは姫華自身だ。こんどこそ自分が大嫌いな自分はいなくなるのだ。そのために超える痛みなど恐れるものではない。
姫華が太腿に爪を立てるのを美空が止めた。
「本命の隣に生傷だらけでいるつもりかい」
「あたしは痛みでここまで辿り着いたんだ」
「ホストの前で身体を傷つける女の子は見逃せない」
「悪いけど、あたしのホストは龍斗だけなんだ。それに……」
姫華は封筒を取り出す。宛名には筆文字で如月姫華とだけあった。
「中身を見れば……遊園地のチケットときた。覇金が建設したテーマパークみたい……あんたはくる?」
美空は後ろを振り向いた。視線の先にはホストたちがいた。誰も彼も傷ついている。商売道具である顔に絆創膏を張っている奴もいた。
「揃いも揃って目が離せない奴らだ。俺はまだ後輩に教えることがある」
「そう」と姫華は言った。美空がホストたちを見る目を見たら、何も言えなかった。
「代わりに君に渡したいものがある」
向き直った美空は神棚へ向かった。高級シャンパンが神棚に供えてあった。神棚の下には桐で造られた台がある。その上にある細長い箱を手に取った。
箱には煌びやかな装飾が施されている。中に入っているものに姫華は心当たりがあった。シャンパンだ。自分が何度も大金で卸した記憶がよみがえる。
「稽古のご褒美?」
「どうかな」
美空が箱を開く。姫華は目を見開いた。
「これは……?」
「俺の過去と現在だ」
箱の中にはヌンチャクが入っていた。だが、姫華が映画で見たものとは少し見た目が異なっていた。
棒の部分は飴のように透明だった。紫色がかったガラス越しの美空がゆがんで歪んで見えた。美空がヌンチャクを手に取る。銀色の鎖が鳴った。
「柄はシャンパンボトルを溶かして出来ている」
美空が語り始めた。
かつてヘルプでついた姫からアルマンドを入れてもらったことがあった。
その月、ホストを始めてから一度も指名されず、売上がなければクビを言い渡されていた。必死にSNSで営業をしたり、売れてるホストを研究しても結果は生まれなかった。締日にそれでも明るく振る舞っていたら、姫がアルマンドを入れてくれたのだ。
その人は長年、ホストクラブに通っている姫だった。指名はしているものの、良いホストを育てたいと思っているようだった。
「頑張んなね」
彼女はシャンパンコールをしなかった。自己顕示欲を満たすのではなく、ただ美空を励ますため大金を支払ってくれたのだ。
頭を下げたまま美空は、しばらく顔をあげられなかった。
ホストであり続けるのは辛い。けれど、逃げずに続けたい。
「……そして俺は空手ホストになったんだよ。客がつかないなら、ホストのホストになればいいと気づくまで時間がかかったよ。俺が守るのは姫だけじゃない。働く仲間たちもなんだ」
姫華はヌンチャクをゆっくりと動かす。照明を受けると透明な棒の部分が煌めいた。
「俺は、その気持ちを忘れないようにヌンチャクにした」
ヌンチャクは棒の部分が強化ガラスとなっていた。
「君にこれを貸す。覇金グループの尖兵はさらに強くなる。この先きっと役に立つだろう」
手渡されたヌンチャクの鎖がじゃらりと鳴った
「振ってみるといい」
姫華はヌンチャクの片方を掴み、振り上げる。ひゅん、と空気が鋭く鳴った。さらに逆側に振る。さらに音が鋭くなる。
ひゅんひゅんひゅんっ
握る手を変えて振る。師匠の動きをイメージしながら、姫華の身体に置き直していく。
「行くぞ」
美空の腕が動いた。
咄嗟に姫華はヌンチャクを振り抜く。ガラス製のヌンチャクが石を弾いた。細かく砕け散ったそれは足元を飾った。
「それ」
美空がさらに投げてくる。飛来してくる影が瞬きと同時に消えた。
「いたっ」
ヌンチャクは当たらなかった。石は姫華の額にぶつかった。床に転がったものを姫華が拾う。それは気泡のない氷だった。
「石だと思っていると、光の透過に惑わされる」
「見誤った」
「忘れないでほしい。見えないものに強さは宿る」
見えないもの。姫華はヌンチャクをじっと見つめる。ヌンチャクが冷たい光を反射した。
姫華が視線を上に動かす。神棚に供えてあるのはピンクのアルマンドだ。
「ねぇ、歌舞伎町の神様もホストなのかな」
「まさか。神様は神様だ」
美空は神棚に手を合わせた。
「ホストに出来るのは、姫に夢を見せることだけだ。神様なんて……」
「全然ダメ」
姫華は自嘲する美空の顔を両手で上げた。
「え……?」
「それでも叶えるって言わなきゃ。夢はあんたが諦めたら誰も信じない」
美空は笑った。
「敵わないな。……ここの神様は俺たちに武運を与えてくれる。君もどうだ」
「少し待ってて」
姫華は道場を出た。しばらくして戻ってきた時、美空は目を丸くした。
「それ……」
「ちょうど200万」
彼女は神棚に札束を積んだ。重みで木板が軋む。
「そんなことしなくても……」
「だよね。でもね、あたし、こういう頼み方しか知らないから」
姫華の言葉に美空は黙って首を振った。
「君がいたら神様もホストをやるかもな……」
【続く】
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