地雷拳(ロングバージョン15)
「時価10兆円の企業がこれとは呆れるな。覇金の暗殺者ってのはもっとマシなやつだと思ってたよ」
テシクは嘲るように紅たちを見た。ソファには姿勢を正したまま、紅がこちらを見返している。やけに余裕ぶった態度がテシクの癪に障った。
「あんた、自分の会社が負けているのを分かっているのか?」
「お生憎様。DX部門は会社の一部。内臓一個潰れて死ぬようなヤワな企業ではありません」
紅はにっこりと微笑んだ。耳を飾る象牙のイヤリングが揺れた。
「……あなたはどう?」
蝋燭を消すように、紅の笑顔が消えた。
生温かい風がキサンの顔にぶつかった。鉄錆の臭いを伴っている。
キサンは血を被っていた。
テシクのいた場所に、赤い柱が立ち上がった。
白衣の袖ともつかない、白い帯状の鞭がスルスルと瘤川教授の腕に戻った。
「脾腹を打っただけで裂けてしまうとは……。鍛え方が足りんようだ」
くつくつと瘤川教授は肩を揺らした。
一瞬の出来事だった。残ったのは縦に裂かれたテシクの死体だけだった。
風を切る音が鳴った。キサンはバク転で三度飛んだ。白い鞭がキサンのいた場所を穿った。
「逃げ足だけは一級だな……」
身を翻したキサンを見て、瘤川教授は大きく肩を揺らした。
「……なんのマネです?」
「決まっているでしょう。これは商談ですよ。ビジネスは0か1。負けた者は全てを失い、勝った者が全てをいただく。あなたは覇金グループから奪いにきたのでしょう? DX部門室長として相手します」
紅は大きく腰を落とす。パンツスーツ越しに筋肉の隆起が色濃くなる。腕を上段に構えた。空気が緊張する。気温が上がった。
キャスの幼さの残る顔が、獅子の威嚇する形相に変貌した。闘いを待ち望んでいる。彼女は拳を握ると自分の側頭部を殴った。カラテチップの宿ったデバイスが青いスパークを発した。電気がキャスの身体をわななかせ、天に向かって咆哮させる。
「抑えが効かないか、獣め……!」
キサンは舌打ちした。
キャスの身体が消失した。彼女がいた場所には、小さな足の形に抉れたコンクリート床が残っていた。重心を極限まで前に乗せた移動。素早さと攻撃を兼ねた防御を捨てた一撃だ。
遅れて猿じみた絶叫が響き渡る。キャスは紅の目の前に現れた。全身を弓形に反らせ、右腕を引き絞っている。
紅に逃げる間などない。キャスが拳を振り抜く刹那、紅と視線がぶつかった。
べきゃっと生木の折れる音がした。首の骨が逝った。何度もキャスが聞いた音。この音がたまらなく好きだったを
好敵手を撃ち抜いた喜びでキャスの顔がほころぶ。
それも一瞬だった。
「……ひとつ」
キャスにだけ聞こえる声量だった。
即死したはずの紅が呟いた。
紅は血の混じった唾を吐き捨てる。彼女に一切の損傷はなく、凛としてキャスを見つめていた。
「その拳……どうやって……」
初めに気づいたのはキサンだ。
キャスの拳を紅は見ていた。
拳は破壊されていた。赤い鍵が壊れた機械のコード類のごとく骨の間からはみ出している。拳は中心に行くにつれて捻じ曲がり、血と肉の竜巻のようになっていた。、
「覇金は天をいただく」
紅は素早く拳を打ち込む。朴人拳に打ち込むかのごとく流れるようにキャスの身体を穿つ。彼女の脇腹、鼠蹊部には工具で開けたような真円が開いていた。紅のまとう空気が変わったのを察したのか、キャスの身体がわずかに固まった。
「ふたつ、覇金は光をいただく」
紅がさらに一歩進む。拳を開き、鋭い手刀に変える。流れ星のごとく煌めいた。キャスは腕をクロスさせた。
海鳴りを幾重にも重ねたような音が室内を満たす。キャスは防御したはずの腕を押さえ込む。腕に赤い筋が出来ていた。
「みっつ、覇金は勝利をいただく」
紅が拳を振るう。キャスが腕で拳を受ける。紅の拳が不気味な音を発した途端、キャスの腕が紅の拳に吸い込まれていった。骨を砕く音と腱が切れる音が交差し、痛みに悶える獣の声が覆った。肉の破片となったキャスの身体は、風呂の栓を抜いたように渦を巻く。赤と白のまだらの塊となって紅の拳を中心にぎゅるぎゅると収束していく。
瞬く間に、紅の拳へとキャスの身体は吸い込まれていった。肩ほどまで消えていた。拳はさらに吸い込み、少女を飲み込んでしまった。キャスのデバイスからカラテチップを引き抜く。チップは紅の掌で灰に変わった。
「逃すな!」
瘤川教授が叫ぶと同時に、キサンの眼が光る。
「じゃっ!」
キサンは飛び上がった。阿僧祇Mk 2がいた鉄格子を蹴り上げた。鎖が千切れた。弾丸じみた鉄の塊が瘤川教授に迫る。視界を覆い尽くしたのも束の間、瘤川教授は、腕をしならせて両断した。
キサンの姿がない。
部屋のガラスが割れる音がした。瘤川教授が視線を移すと、キサンが窓を破っていた。
強化ガラスを破るために、鉄格子で先手を打っていたのだ。
撤退を意識してから、キサンの行動は速かった。
これ以上、相手をすれば損をするのはこちらだ。こんな化け物に付き合っていられん。
側頭部を叩くと、キサンの両眼が光った。身体能力が向上した両脚に力を込める。道を挟んだ向かいの証券ビルに視点を合わせる。屋上の給水タンクめがけ飛んだ。
「……!」
キサンの跳躍は間違いなく、狙ったビルの屋上へと着地できたはずだった。
だが、彼はまだ覇金グループの部屋から出ていなかった。
キサンが振り返る。
紅の姿があった。胸部に女教皇のカンフーチップを刺した彼女は、両手を組み合わせた独特な残心をとっていた。
「貴様、何を……」
「宙落とし。空間ごと巻き取った」
紅の額にはうっすらと汗が滲んでいる。「宙落とし」は、女教皇のカンフーチップの応用だった。肉を吸い込む両拳が空間ごと吸い込めない道理はなかった。
彼女の脳裏には恋一郎の言葉がリフレインしていた。呂円との戦闘を改善できなければ、恋一郎から見放されてしまう。「宙落とし」は紅の恐れが生み出した技だった。
「バカな……」
白い閃光がキサンの意識を消し飛ばした。
瘤川教授の手刀が、キサンの褐色の首を切り落とした。
目を見開いた頭が床に転がった。青い火花がこめかみから吹き出した。
「カラテチップの摘出を!」
「おそらく如月博士は細工を施していたのでしょうな……」
焼けこげたチップを摘んで、瘤川教授は首を振った。
「如月博士……小癪なマネを……」
室内に静寂が降りた。あるのは血溜まりと、DX推進室室長の立ち姿だけだった。破れたガラスの向こう、さらに遠くを彼女は見た。それは目に見えぬさない如月博士と姫華を探すようだった。
瘤川教授の実験室は静まり返っている。いくつもの簡易ベッドが並んでいた。ベッドを埋めるのは、破壊された鉄の戦士だ。霊安室のような沈鬱な重たい空気が流れていた。
「原宿は壊滅。街路には肉と臓物が吊り下がる虐殺地帯となったようですな。実に見事」
ことも無げに瘤川教授は言った。
一台の無影灯が冷たく手術台を照らす。
首の離れたスパインテイカーが横たわっている。脊椎にはコードが伸びており、モニターに繋がっていた。
白衣の機械頭、瘤川教授と覇金紅がモニターを見つめていた。
「スパインテイカーをもってしても……」
瘤川教授がつぶやいた。
スパインテイカーの隣に簡易ベッドがある。そこには巨大な右腕が横たわっていた。鳥の骨を思わせるアルミのベッドフレームは潰れて用をなさなくなっていた。
モニターが白く光った。
「りゃああっ」
ひび割れた音は姫華の気合いによる叫び声だった。正拳突きが決まった。映像に映るのは火花を散らし、スパインテイカーが撃破される瞬間だ。
覇金グループの予算を費やして生み出したカンフーロボの耐久力は戦車の砲弾を凌ぐ。
人の拳で破壊することなど不可能なはずだ。
「如月姫華……」
覇金紅が吐き捨てるように言った。瘤川教授しかいないこの場で、室長の仮面を被る必要はなかった。
「如月博士のカラテチップですな。間違いない」
瘤川教授は自分のメカヘッドを撫でた。無機質なカメラアイをモニターに近づける。ズーム機能があるにも関わらず、瘤川教授は姫華の動きを首を振って追い続けた。
映像内の姫華は正拳突きの瞬間を繰り返す。
覇金紅は拳を握り、腕を伸ばす。同時に腰を捻る。画面に映る女が最後に見た光景をイメージしながら何度も繰り返す。
「〈鋳込〉ですか」
瘤川教授が言った。
〈鋳込〉は、溶けた鉄を鋳型に流し込むように相手の武術を真似て身体に馴染ませる行為だ。
「私は覚えが悪かった。カンフーチップを挿し込んでも父の武術は身につかなかった」
「身についておりますとも。並外れた模倣は本物すら超えます」
「買い被りすぎよ」
紅の整った眉がわずかに歪んだ。痛みを押し込むように体を震わせた後、瘤川教授に笑いかけた。
如月姫華は、歌舞伎町をうろつくホス狂いでしかない。同じ類の人間を、紅も目にしたことがある。父は、ホス狂いたちを大した想像力もなく、経済力に見合わない浪費を続ける養分と断じていた。
「瘤川。私はホス狂いを甘く見積もっていたのかもしれない。彼女たちを動かすものは何?」
「私には計りかねます。並のホス狂いではあり得ません。……ただ、如月博士が頭にいるのが鍵なのは間違いないでしょうな……」
メカヘッドが姫華の戦う姿を解析している。ヘッドからは機械のカシャカシャとシャッターを切る音がしていた。
「あなたが嬉しそうにするなんて珍しいじゃない」
「この身体が博士を忘れることはありません」
小刻みに瘤川教授は肩を揺らした。
「博士にはようやく私の技術力を見せられるのですから」
そう言って瘤川教授は、部屋の中央に視線を移す。鋼鉄のハンガーには一体の戦士が吊り下げられている。船越呂円だ。手足を繋いでいる鎖には血がこびりついていた。
ラフォーレ原宿に現れた呂円とは異なっていた。異様なのは頭と右腕だ。呂円の右半分の顔が金属光を放っている。無機質なクロームに置き換えられ、髪と皮膚は取り除かれている。
「原宿にスパインテイカーがいたのは幸運でした。呂円も誘き寄せることができましたからな」
モニターにはスパインテイカーの首を斬り飛ばす呂円の姿が映っていた。
「捕獲は難航しましたがな。覇金の警備部門は5%も消えてしまいました……」
「何事も痛みは必要よ」
「寛大なお言葉……」
瘤川教授が恭しくお辞儀した。
「以前の改造からさらにパワーアップしました。機械化を進めて瞬発力を上げていますが、腱と神経は自前のものを使っております。これによって空手とカンフーの融合が図れるでしょう」
「他には?」
「これ以上はバランスが崩れます。ホス狂い相手に、今の呂円が負けるはずがありません」
瘤川の機械頭が自身を表すように煌めいた。
「甘い考えね」
紅の脳裏にあるのはモニターの映像だ。路上でのスパインテイカーと姫華の格闘はカンフーロボを見続けてきた紅にとっても初めて見るものだった。
ノイズだらけの映像では姫華の顔は潰れていた。
「瘤川。奴にあって私たちに足りないものは?」
「はて……」
「覚悟よ。鋳込で私は確信した。ポーズをとっただけで、沸る闘志が背骨を焼くようだったわ。奴の向こう見ずな戦闘力は、並でない覚悟が実現している」
「ですが、これ以上は……」
「カンフーチップ用の記憶容量を作るのです。記憶を削りなさい」
紅の言葉に、瘤川教授はたじろいだ。
「記憶の領域は複雑です。どれだけ空手への影響があるか……」
「やりなさい」
瘤川教授はそれ以上の言葉を止めた。
「教授。あなたはやり遂げるために覇金にいる。それに、如月博士だったらどうするか?……と言ったらあなたは怒るかしら」
「……いいでしょう」
長い沈黙の後、瘤川教授は言った。
「そう言ってくれると信じていたわ。せっかくだから、私が目指しているものを教えてあげましょう」
「ええ」
「私は覇金の王座が欲しい」
「……なんと」
「覇金恋一郎はいつまで王でいられると思う」
普段と変わることのない態度で紅は尋ねた。
「今のはお聞きしなかったことにいたしましょう」
「父も人間。私たちはいずれ、お父様が亡くなった後に向き合わなければならない」
「……」
「今はお父様の威光がこのグループを支えている。でも、私たちが越えなければ、覇金グループが続くことはない」
「……呂円に恋一郎さまを超えさせると」
「そう。カンフーと空手、ふたつの龍が組み合わさる時、双龍計画は完成する。頂を見た者の足は、頂を目指す。私たちは父を超えた存在を生み出し、世界に新たな価値を生み出す」
瘤川教授は覇金紅を見つめた。紅の目に揺らぎはない。幼さのあった微笑の中に、不遜なカリスマ性が滲んでいるのが分かった。
瘤川教授は身震いした。
「紅様。記憶を削れば空手の動きに影響が出ます。感情を先に削るのです。電気信号で大脳辺縁系を刺激し、私の眼で活動を見れば確実なパワーアップを計れるでしょう」
「良いでしょう」
紅は頷いた。
呂円に向き直る。瘤川教授の施術が始まった。機械の駆動音が響き渡る。骨を削る不気味な音とメスが柔らかいものを切り刻む音が部屋を満たす。無影灯は静かに惨状を照らし続ける。
研究室に夜が来ることはなかった。
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