地雷拳(ロングバージョン12)
承前
姫華の身体は傷だらけだった。切り傷と痛々しい打撲の痕跡がある。着ている服が血に濡れているものの、致命傷はなかった。腕を振ると、血が地面に飛び散った。傷だらけの姫華が不利なのは変わらない。だが、ラポールは目の前の女が「わざと傷ついた」ように思えてならなかった。
「なんなんだ……お前は」
「いいッ……ねェ……こうでないと」
姫華は歯を食いしばりながら歯茎音をまじりにラポールへと首を向けた。鉄の暗殺者は、姫華の相貌にたじろいだ。
口の中を切ったのか、リップの色が移ったのか、姫華の歯は薄いピンク色に変わっていた。
「同族が相手だったら情が湧くと思った? 言ったろ。あたしはね、自分が一番大嫌いなんだ。ウジみたいにたかる女も、龍斗の真似事をする石ころにもうんざりしてるんだよ。それに……、あんたに狂わされた奴から泣かれても何も響かない」
《姫、華、ゃん……》
姉の声にはノイズが混ざっていた。
「姉とまともに向き合う。でなきゃなんの意味もないんだよ!」
「歪な女め! 傷だらけの身体で何ができる……」
感情の起伏とともに、ラポールの複眼が激しく明滅する。
姫華は「ハッ」と吐き捨てる。
「あたしはさぁ、あんたたちの金、一銭残らずもらうわけ。そしたらなにすると思う? 韓国で整形するの。小鼻を小さくして脚だってもっと長くする。胸も大きくして肌なんか真っ白さ。あんたのいない世界で、あたしは龍斗と高みに行く。傷が増えたって結局変えるんだから関係ないんだよ」
「そんなことのために、マローダーを超えたのか。貴様はホストに恩があるわけでもないだろう?」
「あるよ。頭を撫でてもらったんだ」
姫華が腕を振って構えた。床に赤い地図ができあがった。
ラポールには訳がわからなかった。覇金に忠誠を尽くすのは、得られる報酬が釣り合っているからだ。
まるで姫華には理解が及ばなかった。
「やろう」
「舐めた真似を……!」
ラポールは退がりそうになった足を踏みしめた。傷だらけで血溜まりができている。損得の勘定もできない女に負けるはずがないのだ。ラポールが掌底を突き出す。
だが、姫華の拳はさらに速さを増していた。腹を撃ち抜かんと突き出される。内臓基盤をぶちまける前に、ラポールは身体を逸らす。
「こんなところで死んでたまるものか!」
ラポールが手に取ったのは、人形たちの死骸だ。鋼鉄の爪が衣服を突き破る。内臓が万国旗のごとく引きずり出された。
ラポールは赤黒い臓器を空中に放った。粘液と血の塊は狙いすましたように姫華の打撃がぶつかり、粉々に散った。
一瞬、血の煙が立ちこめる。晴れたときには、機械の戦士の姿はなかった。
代わりに龍斗が立ち上がり、フェンスを登ろうとしていた。
「龍斗ッ!!」
《ラポールのカンフーがかけられてる……!》
龍斗の足がフェンスにかかる。
姫華が床を踏み締める。厚底がコンクリートを抉った。風と見紛う全速力で、龍斗の右足を掴んだ。力任せに思いっきりこちらに姫華は引っ張った。
音を立てて二人は地面に転がる。
「龍ッ!」
龍斗の目はぼんやりとしている。焦点を結んでいない。肩を揺すっても譫言をつぶやくばかりだった。
何度もフェンスを目指そうとしたので、姫華は仕方なく龍斗を平手打ちした。今やカンフーロボと渡り合える姫華の手は金属バットと同等だ。龍斗は伸びてしまった。
《ラポールが向こうに!》
姉が姫華の首をラブホテルに向けさせる。赤い複眼が建物の影に隠れるのを見逃さなかった。
姫華の頭の血管が脈打った。
「待てッ」
フェンスを足にかけ、一番近いネオン看板に飛びついた。マクセンティウスとの戦いで、跳躍力が上昇しているのは分かっていた。屋上に這い上り、ラポールを追跡する。
「待てッ」
「……ッ」
ラポールがこちらを見た。無表情なのは顔面だけだった。
距離の差は大きいはずだった。瞬く間に縮んだのは、姫華の怒りか、ラポールの恐怖ゆえか。
「なぜ俺が……!」
「お前が勝手に越えちゃマズいライン踏み越えてるからだろうがっ」
何度目かの跳躍の後、ラポールの背中に張りついた。姫華は拳を振り抜いた。
鋼鉄の身体は捻りながら、狭い雑居ビルの壁同士にぶつかる。そのまま、ビルの谷底へと落ちていった。
《これでまたひとり……》
「いや、潰れて死ぬ様を見ないと」
自分の担当を手にかけた奴は、この目で死んだことを確認しなければ気がすまなかった。
《絶対死んでる》
「担当殺すってのはさ、あたしから寝取るのと一緒なんだよ」
《行っちゃダメな気がする》
姉は姫華の足を重たくさせた。
「カンフーロボをあたしは殺す」
今の姫華を止めることなどできなかった。
姫華が階下まで降りる。ドブの臭いと生ごみのすえた臭いが鼻をついた。
通りからの光は路地の奥までは届かない。暗い闇は濃さを増している。
そこにラポールの眼は邪悪な星座光を放つ。
「受け身なんて取りやがってダボが……」
姫華が近づいた。すでにこいつに逃げ場はない。それなのに目の前のロボからは諦めを感じない。
「一時はどうなることかと思ったが……」
ラポールは姫華の背後に視線を送っていた。姫華の背筋がぞわぞわと怖気がたった。
通りからわずかに漏れた明かりを覆う影があった。
影としか形容のできない陰気な空気を帯びていた。ライオンやクマと同じ檻に入れられたような絶望感と圧迫感が押し寄せた。ソフト帽を被り、トレンチコートを着た影が近づく。
「来たか。ポモドーロ……!」
ラポールの言葉と同時に、頭の中に凍りついたような恐怖が現れた。姫華が感じたものではない。
《ああ……》
姉の声から恐怖が滲んでいた。
「……知ってるの」
《あの帽子、死人が歩いてるような雰囲気……知ってる。奴は私を殺したカンフーロボ……》
姫華が影をとらえる。無意識に息を止めていた。距離が縮まり、皮膚がちりちりと焦げるような気分だ。
「さあ、やってくれ。覇金に仇なすこの女を始末するんだ」
ラポールは壊れた身体でがなりたてる。恐怖の中、姫華が拳を握りかけたときだった。
音も立てずポモドーロは、姫華の横を通り過ぎた。
「覇金社長の命令だ。悪く思うなよ」
ポモドーロは姫華に背を向けた。ラポールがたじろいだ。
「……!」
ラポールが何か言った。言葉の意味を理解する前に、ぶわっと風が吹いた。生ごみや澱んだ臭気が一気に消し飛ぶ。そんな勢いだった。
爆発音が鼓膜を叩く。
悪魔のカンフーチップ使いは消えていた。
ラポールのいた場所には、何かのコード、歯車、ベルトが散らばっていた。
姫華の目には、ポモドーロが背を向けた途端、勝手に爆ぜたようにしか見えなかった。どんな格闘家でも、技の起こりがある。足の動き、上半身のぶれ、そういったものだ。
ポモドーロには一切ない。何事もなかったかのように彼は床に屈み、黒ずんだカンフーチップを拾った。
姫華には一瞥すらくれなかった。影はふたたび、路地の明かりに混じっていく。
ああ、助かった。そう思っている自分がいた。姉の恐怖が伝播しているのではない。ただ、心の底から助かったと思っただけだった。
去り行くトレンチコートの背中を見送る。身体が動かない。今は戦おうとしても無駄だった。
びたりとポモドーロの動きが止まる。わずかにこちらに振り向いた。
その場から、まんじりとも動かなかった。殺すか生かすか、それを考えてるのかと思った。見えない腕が体を圧している。みじろぎひとつでもすれば命はないように思えた。
「……」
長い時間見つめられていた。通りの明かりに影ができた。
マクセンティウスだった。
「裏切り者を探していたんだろう」
ポモドーロはゆっくりと振り返った。二輪の姿を認めると、一歩ずつ近づいていく。
「姫華。逃げろ。こいつは俺が狙いだ」
マクセンティウスの声は硬い。
「あんたには……」
ポモドーロはマクセンティウスとの距離を縮める。マクセンティウスが車輪を軋ませる。
直感で力量の差がわかった。同じカンフーチップ使いとはいえ、ポモドーロのカンフーは計り知れない。
通りに出て二人は相対した。闘気が二者の間を満たす。
姫華はトレンチコートの肩に手をかけた。
「そいつはあたしのバイクだ……」
恐ろしかった。脳が足をすくませる。傷口に指を突っ込んで無視させた。
揶揄いや蔑みもなかった。
ポモドーロが完全にこちらを向いた瞬間、姫華は右拳を引き絞った。殺意を込めて一撃で終わらせるつもりだった。
「エェエエエエィ!」
恐れを振り払うように拳を握りこむ。
これまでカンフーロボ達を打ち砕いてきた絶対の正拳突き。
これまでと同じく砕くつもりだった。
腰を捻った次の瞬間には、姫華の全身が爆発していた。
「がっ……」
視界が何重にもぶれる。ネオンが狂ったように視界を飛び回る。
《姫華ちゃん》
姉の声が遠くに聞こえる。立っていられずに膝をついた。全身が痛い。喘ぐように息をするのがやっとだった。
ようやく元に戻った視界にはポモドーロが立っていた。クラクションが鳴る。エンジンを轟かせ、ホテル帰りの客の目を引いた。
「……」
ポモドーロがソフト帽越しに黒い機体を見た。
「なんでこの女を助けるかって顔をしてるな。お前には一生わかるまいさ」
マクセンティウスのエンジンが唸りをあげた。タイヤがアスファルトに焦げ付いた。排気筒から白煙が吐き出される。
ポモドーロの視界が覆われる。景色の一部かのごとく彼が動く素振りはなかった。
乳白色の煙の中、エンジンの唸り声が大きくなる。マクセンティウスの影が躍った。
タイヤが悲鳴を上げる。
車線を跨ぎ、速度をあげ、前輪による回転攻撃を繰り出した。ポモドーロの脳天を狙う。煙を使った予測不能の一撃。
ポモドーロは動かない。
衝突する寸前、また突風が巻き起こった。金属が折れる音がこだました。
爆竹じみてマクセンティウスの車輪が弾け飛ぶ。辺りに金属片が撒き散らされた。
車体が吹き飛ぶ。100キロを超える鉄の狼は、割り箸じみてアスファルトに投げ出された。機体が擦り切れて金切り声をあげる。赤い火花が白煙を彩った。
「この程度……」
マクセンティウスが後輪を持ち上げる。破壊された車輪のない前部が不安定に重心を支える。
ポモドーロは首を傾げた。決した勝負を続ける理由が分からないようだった。
「何にもならんさ。やりたいからやる。お前と変わらないよ」
マクセンティウス! 姫華は叫んだつもりだった。実際に出たのは、言葉にもならない唸り声だけだった。
マクセンティウスの走りに本来の力強さはなくなっていた。子供が描くような軌道で這いずりまわっていた。壊れかけた黒い機体はそれでもなお、走ろうとする。よろけたまま、ポモドーロを小突く。マクセンティウスの歪んだフレームが、がりがりと地面を引っ掻く。夜のアスファルトにぎぃぎぃと音が響いた。
ポモドーロはマクセンティウスを片手で止めた。ただ、置いてあったものを取るかのようにカンフーチップを引き抜いた。
ラポールが声を出すことはない。ヘッドライトをチカチカと点滅させるだけだった。チップがなくなった機体は、まだ意思があるかのようにしばらくライトを明滅させた。
姫華は死神を見た。ソフト帽の下、視線が交わることはない。ポモドーロは姫華を相手にしていなかった。手刀が天高く突き上がる。冷たい光を帯びて死のオベリスクと化していた。見下ろすのは殻となったマクセンティウスと姫華だけだった。
姫華がポモドーロを呼ぼうとした時だ。死刑執行人じみてコートの裾がわずかにはためいた。
次の瞬間にマクセンティウスの身体は二つに割かれていた。ヘッドライトは光を失った。金属同士がぶつかり合う轟音が遅れてやってきた。びりびりと空気を振るわせ、街灯が破裂した。
静寂がやってきた。同時に現れたのは機械頭の群れだった。同じ道着を着た同じ規格のカンフーロボたちだった。
ポモドーロはマクセンティウスのハンドルを片手に取る。エンジンの唸りはなく、ヘッドライトが灯ることもなかった。完全に停止していた。ポモドーロはマクセンティウスの死を確認するとハンドルごと放った。
彼の興味が失せるのと同時に足音が近づいた。覇金グループから派遣されたカンフーロボ兵士だ。
機械頭たちの群れの中にポモドーロは消えた。
恐怖心を押さえ込もうと歯を食いしばった。姉の居座る脳は、否が応でも姫華に負の感情を流し込んだ。
なめ腐りやがって……。
姫華は機械頭たちを睨みつける。姫華の意識は遠のいた。最後に聞いたのは鉄の足音だけだった。
【続く】