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地雷拳(ロングバージョン11)

承前

 無料案内所の電飾が毒々しく客を誘う。酔っ払いの怒号が飛び交うなか、路上には酒に潰れた外国人が座っている。
「お姉さん、ホスト興味ない?」
 キャッチの鼻にかかった声を無視して、姫華は歩道を進む。自然と歩速は上がっていた。
 歌舞伎町の人々は、ラフォーレ原宿の壊滅など意に介していないようだ。
「生憎今日は運転してきたから」
 マクセンティウスは駐車場に置いてきた。人探しはバイクよりも徒歩のほうが向いているからだった。
 スマホを見る。時間は0時を示していた。通知がまた増えていた。
 龍斗からだった。短文を連投してきている。謝罪と姫華がどれだけ好きかを言葉を変えて綴っていた。通知は30件以上はありそうだ。龍斗とは数え切れないほど喧嘩した。決まって龍斗が謝って終わるが、今回は違った。龍斗は謝るために場所を指定してきていた。
 姫華は龍斗とのチャット画面を開く。
 「ここで待ってる」の後に、龍斗は写真を送付していた。
 フェンスの向こう側に居酒屋チェーンの看板と風俗の看板が見える。
 姫華はその場所をよく知っていた。気のたったホストやホス狂いが何人も飛び降りたビルだ。
 振り払おうにも最悪の結末が頭をよぎる。
 胸に溜まった不安の塊を吐き出すように、姫華は息を吐いた。
「……ッ!」
 姫華は息を止めた。膨らんだ肺が胸骨を押し上げ、痛んだのだ。老人の拳は強化された身体を持ってしてもダメージを重たく残していた。
《大丈夫……》
 姫華は姉の言葉に黙って頷く。老人について姫華の考えはまとまらなかった。今は龍斗が最優先だ。
 建物の前で潰れた肉の血溜まりを見る自分を想像してしまう。
 胸が潰れそうで心臓が16ビートを刻んでいた。精神安定剤が恋しくなった。
 考えが聞こえていたのか、姉は短く息を吐いた。
《けど……、絶対あやしいって。私もカンフーロボの能力は見当がつかない。龍斗くんはさ、今までこんなことってしたことあるの?》
「いい……、本人に聞けばわかる」
 まだ気を引こうとするキャッチを振り払って姫華は走った。ラブホテルの林立する道を幾度か曲がる。目当ての雑居ビルにたどり着いた。もの言わず暗闇にぼうっと聳えている姿は、巨大な墓石だ。その建物の周りだけ、街の明かりが届いていないようだった。
 立ち入り禁止の看板が地面に倒されている。誰かが入ったのは間違いなかった。
 姫華は、曇り切ったガラス扉を押し開ける。留金が錆びたせいで、扉が悲鳴に似た音を立てた。
《すごい埃。いつからこんな風に?》
「気づいたらこうなってた。ここで飛び降りたら来世で結ばれるとか噂になったんだって」
《死んだら終わりなのに》
「姉が言うことじゃないでしょ……。立て続けに飛び降りてテナントは次々と撤退した」
 階段を上がるたび不安が膨らんでいた。姫華は不安を紛らわせようとした。
 屋上の扉を開ける。風が吹き込んだ。
 2メートルはあろうフェンスが蔦のように黒い影をつくる。見渡しても人影はなかった。目眩がした。最悪の想像が姫華の脳内を埋め尽くす。息が出来なくなった。
 その時、何かを引きずる音がした。目地の細かい布が擦れる音だった。闇の中からスーツに身を包んだ男が現れた。
 龍斗とは歳が近く見える。だが、纏う空気が違った。アクセサリーが大人しい。夜の世界を生きる人間に共通する光を感じない。
 男はズルズルと何かを引きずっている。
 姫華は男の左手を見て、目を見張った。
 それは龍斗だった。黒いシャツの襟首を掴んでいた。同色のジャケットが肩から、ずり落ちていた。
《奴の仕業か》
「あんただな。覇金に喧嘩売ってるのは」
「龍斗になりすましてたのはあんただね」
 姫華が構えようとすると、男は手をかざした。
「まだ聞きたいことがある。お前はどうやってマローダーを殺った」
「敵討ちってわけ」
「……質問に答えるんだ」
 男は襟首を掴む力を強めた。意識がないまま、龍斗は咳き込むだけだった。
「殴って殴ってぶっ壊した」
「三流の嘘だ。全く笑えん。奴がカンフーで負けるはずがない」
 男は静かに目を閉じた。突然、手が銀光をともなって閃いた。トランプのごとく胸ポケットから取り出したのは、カンフーチップだった。
《あれは……悪魔のカンフーチップ……!》
 男がチップをこめかみに差し込む。両目から白い光が放たれた。
「HG-15、ラポール。……やることは変わらない」
 ラポールが床に拳を打つ。鈍い音が空気を揺らした。
 構えていた姫華の頭の中に、ふっと幕が降りた。思考が遮られ、間欠泉のごとく悲しみが湧き上がる。
「……いままでと同じだ。お前は自分の手で死ぬ。このホストを追い詰めたのはお前だ……」
 ラポールは最期を見届けようと姫華を見た。今に姫華は喉を切り裂いて死ぬはずだった。
「……なんだ」
 目の前の女は意に介さず、つかつかと歩いてくる。すぐに拳が届く距離となった。
 ラポールの動きが止まりかける。信じられないものを見た。再び、拳を床に打とうとすると、前蹴りが飛び込んだ。
 姫華には何の影響もないようだった。飽きたように姫華は前蹴りを放った。
「なぜ歩けるのだ! お前の心は罪悪感でボロ布同然のはずだ」
 姫華の足甲を受けながら、ラポールは言った。
「そんなのは今に始まったことじゃないんだよ!」
 姫華は素早く足を戻し、右拳をラポールの顔面に打ち込んだ。オイルが口元から飛ぶ。ラバーの感触が拳に伝わった。仮初の皮膚はぶちぶちと千切れ、中から鋼の輝きが垣間見えた。
「罪悪感で死なそうとしたんだろ。いいことを教えてやる。あたしはね、自分が大嫌いなんだ。自分が嫌で嫌なくせに死ぬ勇気もないダボカスなんだよ。あんたの客じゃないんだ」
 姫華の拳がラポールの胸を打ち、後退させた。
 こいつは拳で人の心を操るカンフーチップなのだ。悪魔という名前からも察しはついた。
「なめやがって……」
 拳を握りしめる、
「そんな馬鹿があってたまるか……!」
 罪悪感とは人並みの自己肯定感があって成り立つ。姫華は自分が嫌いだ。ひどい時は、ドブに落ちた噛みかけのガムに申し訳なく思う。ふとした時に心に空いた空洞が、姫華の劣等感を強めていた。
 着飾った自分を見るのは心地よい。だが、それは一時自分が世界にいて良いと錯覚できるからだった。考えるほど鬱になりそうだ。
 だから、ラポールを睨んだ。無理矢理怒りを燃やす。やり場のない悲しみは八つ当たりで散らすしかないのだ。
「あんたはまともにカンフーするべきだった! 一番相性が悪いやつと戦えたのを悔やむんだな!」
 姫華は考えを打ち消すように吼える。腹が立っていた。龍斗を利用した目の前の機械男を見据えた。狼狽している。
 ラポールが姿勢を崩した。姫華の拳がラポールの鼻っ柱にぶち当たる。硬い感触とともにラバーマスクが剥がれ落ちた。緑色の複眼が、サイコロの六の目のように並んでいた。そのうちのいくつかは、今の衝撃で光を失っていた。
「やってくれたなッ……」
 たちまち複眼が赤色に変化する。
「いいツラしてんね。今から潰す」
「貴様にこの姿を晒すとはッ……!」
 姫華の前蹴りが空気を裂いた。ラポールが打つより早く胸を打った。不意打ちから勝負の趨勢は決したかのように見えた。
 さらに追撃を加えようとしたとき、身体に異変を感じた。身体が石のように動かなくなった。姫華は同じ感覚をどこかで体験していた。
「姉……!」
《う……う……》
 すすり泣くような声が脳内に響く。もはや姫華の身体は姫華だけのものではなかった。
「俺に手を出させるなど……」
 ラポールは素早く姿勢を低くした。足払いが半円を描く。
 病院で会った時だ。姫華の身体を姉が奪った時の感覚だった。
 ラポールの技は姉には効いていたのだ。
「しっかりしてよ!」
《……ごめんなさい。姫華ちゃんに優しくできていれば……》
 姉は譫言のように呟いた。
《スパインテイカーと戦ってるとき、私は何の役にも立てなかった……》
 姉の謝罪には、弾丸を頭に打ち込んだこと、いきなり戦いに姫華を巻き込んだことは出ない。そこが姉らしかった。
「いい、いいって! 気にしてないから」
 姫華がいくら否定しても「でも」「ほんとは」とずっと繕っていた。
「いい姉じゃないか!」
 目の前には、ラポールの拳が迫っていた。
 奥歯を噛み締める。かろうじて動いた首を、拳の進行方向と逆に捻った。
「ぐっ……」
 姫華はラポールの拳の勢いを最小限にとどめた。それでも、鉄人の一撃は殺しきれなかった。姫華の身体は後ろに吹き飛び、床にバウンドした。
「マローダーに勝った? 笑わせてくれる。俺に遅れをとったお前に負けるはずがなかろう」
 ラポールは指を鳴らした。背後にある換気塔の裏側から人影が現れた。姫華が目で追う。さらに人影が増える。屋上に設けられたフェンスを蜘蛛が這うようにして現れた。
「う……ううう……」
 声は人影から発されている。低く唸るようなそれは、異様な登場も相まって絵本の中の鬼を想起させた。人影たちが一歩、また一歩踏み出す。隣ビルの電飾が彼らを照らした。
 ブランド物のスーツの男と、ビスクドールじみた女たちだった。手には包丁、鉄パイプなど得物を持っている。
 ラポールが呼び寄せたのは、ホストやその客たちだった。
「うう……うう……」
 彼らは一様に涙を流していた。姫華をめがけ走ってくる。
「この街は俺のカンフーが覿面に効く奴らばかりだ。手間取るはずはないと思ったのだが……

 虚な表情のホストがナイフを振りかぶる。姫華は足をもつれさせながら避ける。首をナイフの刃先がかすめた。側から見れば、不恰好なダンスを踊っているようにも見えた。
「俺はもう手を出さない……。俺が殺すのではない。お前たち……獲物は、お前たちの世界の人間に殺されるのだ。カンフーロボに殺されるなんて特別はお前たちには贅沢だ」
 背後から鉄パイプが振り抜かれる。姫華の背中を強く打った。
 姫華の身体が前のめりになった。骨に衝撃が響き、身体が思うように動かなかった。
「ううっううっ……」
 ラポールの軍勢は、啜り泣きの合唱をしていた。彼女の進行方向にホス狂いがキッチン包丁を突き出した。
 沼にはまったように姫華の身体は動かなかった。なんとかよろめき、直撃を免れた。銀色の刃が脇腹を掠める。
「……ッ」
 焼けるような痛みが遅れて脇腹に走った。
 姫華は脳内にいる姉のせいで、ろくに動けない。罪悪感で混濁した意識の中、操り人形たちは姫華を殺すまで動きつづける。
 ラポールの人形たちは姫華を取り囲んだ。啜り泣きと、得物同士がぶつかる金属音が歌舞伎町の喧騒をかき消した。
 ラポールの複眼は、その光景を眺めていた。
 どれだけ強くあろうとも、例外なく死は訪れる。マローダーにも訪れた。もっと遅いと思っていたが。
 ラポール自身にもいずれ死神が訪れるのだろう。
 だが、その日ではなかった。
 姫華が同胞に貫かれて死ぬ様を、ラポールは見なければならない。カンフーの勝負ではなく、単なる街の揉め事のひとつとして消える様こそ、この女にはお誂え向きだと思った。
「奴への手向にはなったか……」
 ラポールの眼光が鋭く明滅した。
 視線は足元に集中している。人形のひとり、派手髪の女の首が転がっていた。
「がっ……がっ……」
 啜り泣きの中に、詰まった排水溝に似た声が混じった。
 人形が苦しそうに喉を掻きむしる。口から血が一筋垂れた。喉に穴が開いており、ごぼごぼと唸るばかりだった。
 さらにラポールの聴覚は他の音も感知していた。わずかに聞こえるのは打撃音だ。
 囲んでいた人形たちの頭が震えた。最後の一人が崩れ落ちる。立っていたのは、切り刻まれたはずの姫華だった。
【続く】

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