少し補足をしたい。
今回はこの書いた記事に対して補足をしていきたいと思う。
この記事は主に片側だけの一方通行で書いてしまった記事なので、批判はきていないのだが、自分の記事に自分が批判したい。
まず、親が絶対ということは現実的に考えるとないのではないだろうか。
もちろん苦しい思いをして生まれてきていることに関しては多分事実だろう。
でも、最近のニュースでも良くみる育児放棄などもあるのだ。
少しおさらいでもなければ、新しい情報かも知れないが、考え方や行動原理、習慣など、ほとんどの事象が親を真似して育つということ。
これは親がいた場合に限るので、環境様々な部分は出てきてしまうのだが、幼少期に世話になった人の考え方に似てしまうように人間は育つのだ。
それは何故か。
生まれてから成長していく過程で近しい人からしか情報が追加されないからだ。
もちろん小学生や中学生になると自分の知らない体験をたくさんする。
しかし、その根幹にあるものは環境によるものなのである。
幼い頃に受けた体験や経験というのは計り知れないということだ。
良くない例を挙げてしまうと、子どもをどのように育てるのか管理下に置けるのは身近な人になってしまうため、人を傷つけるのを当たり前として接している環境で育つと子どもは人を傷つけて当たり前と感じるのだろう。
考えようによっては恐ろしいことでもある。
でも、各家族や繋がりによって幸せの形は一つじゃないからこそ正解なんてものは存在しないし、そんな正解みたいなものがあっていいはずもない。
そろそろ本題に触れていきたい。
なぜ、「親が絶対ということはない」のか?
これは、周りの状況や周りの環境を本人が初めて知ったとき、違いに気づいてしまうからだ。
以前の投稿でも話したように、人は他人を比較対象として見る傾向にある。
特に子どもの頃は基本的にないものねだりをすることが多い。
もちろん当たり前だ。何せ自分の知らない世界を知ってしまった時の喜びや悲しみはかなり鮮明のはずだ。
自分が親にされてきた行いと友達の親が友達にしている行いはあくまで比較としか見ないのだ。差があるのはもちろんだ。
だからこそ、反感を買ったり、こうであって欲しいという想いが生まれるのだ。時には殺意に変わることもあるのだろう。
違いがあって当たり前と受け入れるようになるのは、だいぶ先の話だ。
全ての責任が親にあるわけでもない。
親の知らないところで得た知識に関しては自分に責任があると言っても過言ではいのだから。
最終的に言いたいのは、根幹にある部分というのは身近な人で形成されているケースが多いとは思うが、大人になったのであれば物事に対して判断をする責任が出てくるのだ。
何故なら人間は考えることができる脳を持っているのだから。
何かいけなくて何をすることが禁止なのかを知っていくことが社会に適応していく上では重要なのかもしれない。
社会に適応するだけが良いこととも言い切れない部分はあるが、根幹にあるルールは破っちゃいけないということは忘れてはならない。
自分の記事に対して批判するというのも少し面白い。
やはり、思考はその日で変わる。
成長を止めず加速していきたいものだ。