「飲めないんです」
3年間、嘘をつき続けた話をします。
あれは19歳の夏。苦学生だった私は、料亭でアルバイトをはじめました。6月だったかな。
その料亭には、1階と2階にお座敷がありました。らん、桜、梅、竹、芙蓉と、日本人が古くから親しんできた植物の名前が、それぞれの部屋名です。
私の初出勤日は、らん。造船関係のお部屋でした。何も知らない私は、薄いピンクの着物を着せられ、NHKの連ドラの登場人物のような古風な髪型で、お座敷に出ます。
この職場は、自己紹介もオンボーディングも研修も1秒もなく、いきなり現場です。面接のときにお会いした、おかみさん。おかみさんと同年代に見える、存在感のある女性が、お酒の帳簿の前にいる。そして、着物のお座敷係たち。
リーダー格の女性だけ、他の人と違います。準備部屋で、ひとりだけ前髪をくるんと巻いてらっしゃったので、別格と分かりました。
上下関係があるようですが、説明がないので、各人の様子から察するしかありません。私が自己紹介する機会なんて与えられないまま、玄関に正座して並び、お客さんが来るのを待ちます。
そうこうしているうちに、店にお客さんが到着しました。彼らは「顔」のようで、到着するなりおかみさんがすっと出ていき「いらっしゃいませ」と笑顔で話しかけます。らん、のお座敷係は、お部屋に向かいます。私も、らん、の会食情報に筆文字で「ゆう」と書いてあったので、ついていきました。
下っぱは当然、一番下座に座ります。1番出入り口に近いその席に座る理由は、実務のためなのですが、勝手の分からない私は、この席にべたっと座るしかないのでした。
最初はビールから始まります。お客さん同士が乾杯し、それでもぎこちない会話がしばらく続きます。何も知らない私は、このままお客さんのグラスが空いたらお酒をつげばいいんだ。けっこう楽な仕事だと思いました。
ビールはほどなくして、熱燗に変わりました。熱燗。私がこれから3年間、向き合い続けることになる。あの熱燗です。
小ぶりでつやっとした、白い無地のおちょこが各人のお手元にゆきわたり、少し経った頃。1番上座の男性客が、誰にともなくこう言いました。
「さあ。お姉さんたちもどうぞ。」
そのセリフを待っていたかのように、お座敷の中にいたお姉さんたちが、ぱぁーっと笑顔になります。え。あ。ちょっと待って。いや待たないか。あらら。これ、私にもくる流れじゃないか。
「ささ。どうぞ。」
「いいんですかぁ。ありがとうございます。」
色とりどりの着物を着たお姉さんたちに、おちょこが配られます。これを見越してな少し多めにおちょこは運ばれてきていました。きれいなのが偉いお姉さんに回ります。下っぱは、隣の席の男性客の使ったのをお借りします。
「お姉さんも、どうぞ。」
私の手にも、隣の席の男性客のおちょこが渡され、内心あわあわしているうちに、生ぬるくなった日本酒が、なみなみ注がれてしまいました。
さて。なんか乾杯しそうな流れ。どうしよう。
「私、お酒のめないんです。」
と隣の席のお客さんに小さな声で伝えます。
「あ、じゃ無理しなくていいよ。」
と言われました。このお客さんは、やさしかった。しばらく、目立たないようにしれーっと過ごしていました。乾杯は、つづく。
「え、その子のめないの?」
私が酒を飲まないのに気づいたナンバーワンが、めざとくツッコミを入れます。
なんかこれ、まずいよな。初日にして。
「いいのよー。その子はまだ大学生だから。」
おかみさんが、ネタバラシをします。場の空気が冷えるかと思いきや、着物姿の現役女子大生がお座敷にいる状況にお客さんがわき立ちます。おかみさん、さすが。日本はおじいちゃんにも、女子大生ブランドがウケる。
結局その日は、断続的に「乾杯」がおとずれるたび、隣席のお客さんにおちょこを渡して、やり過ごしました。乾杯の回数が10回を超えたら、誰が本当に飲んでいて誰が飲んでいないのか、チェックする人なんていません。酩酊状態の赤ら顔の高齢者率が100%になった頃、カラオケが入り、もう何が何だか分からない感じになっていき、私は無事に、その日の勤務を終えます。
問題は、翌日以降です。
「ちょっといい?」
数日後に、お座敷に入っていたら、中堅どころのお姉さんに肩をトントンされました。出入り口の襖をスーッと開け閉めしてお姉さんの前に立ち、何を言われるのかドキドキして待ちます。
「本当は、飲めるんでしょう?」
私をじっと見つめ、詰めてくる中堅どころのお姉さん。これは一体どういう展開なのか。飲めないと言ったら「本当は?」と言われ、もし飲めると言ったら「やっぱり」とブチギレられるやつじゃないですか。こわ。地獄の二択です。それでも私は、飲めないのです。もう引き返せない。
「はあ。もういいわ。」
会話が何往復かしたのち、諦めて、どこかにいきました。これ、いつまで続くのか。今は19歳だから、未成年で通るが、20歳を超えたあともこの設定を続けなくてはいけない。最寄駅から原付で帰るし。ずっとだ。ここにいる限りは。
中堅どころは、地味に私に強く当たります。自分はこんなに身体を張っているのに何で下っ端のお前は飲まないんだ、という目で酔っぱらいながら睨みつけてきたり。酔っぱらった中堅どころのお姉さんを介抱していたら、つねってきたり。
お座敷がはけたあとに準備部屋に戻り、着物を脱いで普段着に着替えながら、結った髪のピンをはずす時間があります。そのときに、みんなで談笑しますが、私は輪に入れないのでした。なんとなく気まずいので、早く帰る。
はあ。仕事に行くのが、憂鬱。私が憂鬱になると、おかみさんの一存で上がる時給。しばらくハッピー。また憂鬱。また時給上がる。
ちなみに私は、冗談みたいに気がききません。身体能力が低く、それに伴い実務能力も低い。実務型じゃないんです。酒が飲めない、気がきかない。「は?なんでお前、ここにいるの?」と思われていたはずです。ちなみに、のちに、私のポジショニング戦略の肝となる中年純愛エロ小説『愛の流刑地』は、2004年11月1日から日経新聞で連載がはじまります。私は働きはじめた2003年の夏から、この助け舟が現れるまで、なんと1年半「酒が飲めなければ、気もきかない、ただの現役女子大生」として、この料亭で仕事をしていたのでした。つら。
つらいですよね。いや、私じゃないです。いま私は、おかみさんや同僚の気持ちになりました。何この子、と。おかみさんは「いいのよー飲めなくても」と言ってくれるのですが。
自分の武器が何もない。自分が価値発揮できていない自覚がある仕事って、本人は情けなくてつらいんですよね。なまじ時給は普通のアルバイトより高いし、かといってどう価値発揮したらいいのかも分からない。役に立たない私は、気もきかないくせに、きれいな着物姿で廊下と調理場の間をウロウロするばかりでした。
そんなとき、ナンバーワンと二人で、一緒のお座敷に入りました。気高く、存在感バツグンのナンバーワン。彼女のお座敷は、いつもお客さんがみんな、笑顔が多く楽しそうです。満足そうに帰っていく様子をみて、いつも「さすがだな」と思っていました。
宴が進んだころに、ナンバーワンが、私に言いました。
「あのさ。酒が飲めないのはいいよ。そのぶん、私が飲むから。でもさ、お前つまんなそうな顔すんなよ。飲めないなりに、楽しくしてろよ」と。
驚きました。私は、酒を飲む手段をとれないから、自分がこのお座敷を盛り上げるのは無理と、早々に諦めていたのでした。それが態度に出ていたのを、ナンバーワンは敏感に察知したのです。
「かんぱーい」というたび、この日は、このナンバーワンが私の分の酒を飲んでいました。身体を張って飲んでくれている彼女に対して、負担をかけてしまって申し訳ない気持ちで、気まずくて、私は暗い顔をしていたに違いありません。それが、良くないと指摘するのです。
確かにそうだ。飲めない設定は、私がつくったもの。今から変えられない。ただ、そもそも酒を飲むだけが、価値発揮の方法ではありません。私たちお座敷係の役目は「お座敷を盛り上げる」です。
別の方法で、お座敷を盛り上げればいいのです。酒を飲めないなら、飲ませるとか、お話の相手をするとか、ここに来るお客さんの目的を考え、それに貢献できるような動きをするのが、酒を飲めないなりに最低限、必要なことです。
酒を飲む。このシンプルな方法をとれないからこそ、このウソを貫き通すために、私は人一倍、頭を使う必要があるのです。自分が役に立てる方法は、探せばいくらでも出てきます。「飲めなくてすみません」なんて、おもしろくも何ともない。いるだけ、じゃま。こんなの思考停止しているだけです。他人に負担をかけているのに、くさっている場合ではないのです。
まず私は、用事もないのに、お座敷を離れて廊下から調理場までいくのをやめました。それまで、お酒をもう一本とか、小さいお皿を下げるとか、そんな優先度の低い仕事をがんばって見つけては、自分は仕事していることにしていたのです。でも、こんなことは、どうでもいい。というか優先度が超低い。せっかくのきらびやかな着物姿なので、お座敷にいるのは、主たる業務なのです。
お客さんの話を聞く。寂しそうにしているお客さんに話しかける。カラオケで盛り上げる。会話で盛り上げる。酔っぱらったお姉さんに水を飲ませる。介抱する。やることは色々あります。
特に私は、このナンバーワンの仕事人としてのあり方を尊敬していました。別格の存在感がかっこよかった。店の要はこのナンバーワンなので、この人を支えると決め、彼女と一緒のお座敷に入るときは、少しでも彼女が動きやすくなるよう尽力したのでした。
19歳から23歳。価値発揮とは何かを学ぶ、本当にいい経験でした。
ちなみにその後、ひょんなことから、このナンバーワンとお近づきになり、料亭時代の後半戦は、彼女とプライベートでも関わるようになります。その話はまた、今度。