
折り紙と虚無僧🪭
前回、千葉県夷隅郡の虚無僧寺、折紙寺へ『探墓行』しましたが、折紙という名前のお寺なんて珍しい。
と、いうことでまずは地名の事を調べてみた。
全国の地名で探して見ると、青森県の大鰐町に「折紙」という名の集落や河川がある。
大鰐と言えば...、30年前に大鰐温泉行ったことを思い出します。ちょうど真冬の今頃の時期。
当時、舞台会社のアルバイトをしていたが、社員旅行の欠員が出たため急遽私が穴埋めで行くことになり、というかこれがきっかけで社員になったという人生の分かれ道であった大鰐温泉。
津軽鉄道のストーブ列車に乗って、太宰治記念館「斜陽館」に行きました。
印象的な真冬の青森でした...。
いきなり大きく脱線しましたが、汗
あとは山口県下関市にある岬に折紙鼻という名前がある。
本州の北と南の端っこに「折紙」という地名があるのも面白い。
そして、日本の文化であるあの折り紙。
折り紙の歴史は長く、室町時代に礼法として使用されていたのが、江戸時代に入ると紙の生産量も増え、庶民に親しまれるようになったとのこと。
世界で最も古い折り紙の本「秘傅千羽鶴折形」が、寛政9(1797)年に出版されている。
そして折り紙と言えば、「こも僧」いわゆる虚無僧の折り紙があります。
こちらは尺八研究家の故山田悠師作の虚無僧。


山田悠師は谷派の高橋虚白師の直弟子で、尺八研究家であり、虚無僧研究会機関誌『一音成仏』に投稿されたり、新宿法身寺にある虚無僧関連品には、山田文庫所蔵品289点が所属されている。
この折り紙、山田さんが入院されてからお会いした時に頂いたもの。
形見となってしまいました...泣
高木智著『おりがみ 古典にみる折紙』によると、着物柄の見本を示す「雛形本」に虚無僧が見られるという。

雛形本、国会図書館デジタルアーカイブやら他の図書館でも探しているのですが、なかなか虚無僧折紙柄が見つかりません。
雛形本の虚無僧は共通して、奴さん型では無く、切り貼りしたような虚無僧ですね。
奴さんと虚無僧に関しては、面白い記事を見つけました。
折紙研究の第一人者、岡村昌夫氏が書かれたもの。
「こも僧」は、日本の伝承折り紙の代表作の一つということで、
雑誌『小国民』にみる折り紙
‒今と江戸をつないだ明治‒ 岡村昌夫
【奴さんの登場(2)】
江戸時代、1700 年代に入ったとたんに出版物に描かれた折り紙作品の例が、堰を切ったように現れ出しますが、その最初は折り鶴で、ほぼ同時に並んで出てくるのは「船」と「こも僧」でした。「こも僧」は現在の「奴さん」をたてに二つ折りにしたような形で立たせて置く折り紙でした。すり鉢を伏せたような形の編み笠をかぶり、尺八を吹きながら行脚する僧の姿に見立てたもので、筒袖と笠の形が実によく出来ていて、日本の伝承折り紙の代表作の一つですが、「こも僧」と呼ばれていた僧たちの姿が時代とともに変化してしまい、特に笠が円筒型の「天蓋(てんがい)」になったために、折り紙の形と異なってしまいました。漢字で「虚無僧」と書くようになりましたが、読みは「こもそう」のままでした。やがて「こむそう」に変わりましたので、折り紙の方も「こむそう」になりましたが、形も二つ折りにしないで、平らに広げるようになって、立たせて置くことができなくなりましたが、呼び名はずっと「虚無僧」のままで明治期まで伝えられました。現実の「虚無僧」と形が違うことから、折紙の方の名を変えようという動きが、教育界ではあったようで、「ふくら雀」(『幼稚園初歩』飯島半十郎、明治18年)、「人形」(『手工教授法』浅尾重敏、明治24年)、「襦袢」(『手技図形』女高師附属幼稚園、明治39 年)、「弥之助」やじろべえと同じ意味(『手工科教授細目』京都市小学校長会、明治41 年)等がありましたが、普及せず、長い間「こむ僧」が普通でした。この明治27 年11 月の『小国民』21 号に「雀踊り」の名で投稿した少年がいたわけです。これはおそらく、その直前の6月の12号に載った挿絵(図参照)の「雀踊り」を見て素早く反
応した少年読者の投稿だったのでしょうが、これが「こむ僧」から「奴さん」に変身した瞬間でした。
念のために書いておきますが、「雀踊り」は雀が踊るのではなく、奴さんの衣装を着て大勢で踊るものです。編み笠で顔を隠している所が「虚無僧」と共通していますが、すでに廃れていた「虚無僧」よりは,身近だったのかも知れません。『小国民』の挿絵は舌切り雀の雀たちがおじいさんを接待するときに踊っている場面で、これは雀が雀踊りを踊るという洒落た趣向にしたもので、いかにも江戸の名残を感じさせるのですが、この投書者の少年はどう理解していたのか、笠の下に雀の顔を描くように指示しています。江戸時代の雀躍りの例として『北斎漫画』第三編から抜き出しておきました。踊りの振りつけまで想像できるように活写しています。踊る姿が雀の餌をついばむ姿に似ているということですが、また奴凧の飛ぶ姿にも似ていますので、都会的な「雀躍り」を知らない地方の小学生にも分かり易くというのでしょうか、「奴凧」と改称させたのは、明治末以後の小学校手工科教育界の最高権威だった東京高等師範学校の岡山秀吉で、明治34 年の同校附属小の『手工教授細目』以後、何冊も教授資料類を書き、「奴凧」が普及してきましたが、それを単純に「奴」にしたのは、岡山の弟子の阿部七五三吉(しめきち)だったようです。阿部は昭和初期まで手工科教育界の指導的位置にあり、折り紙の権威でもありました。
明治40年6月の『漢文手工教科書』(台湾の小学校用)では、「虚無僧」と書いた阿部が、同年9月の『普通手工提要』では「奴」と書き、これが、明治の折紙の集大成としての名著である木内菊次郎の『折紙と図画』(明治41年5月)に採用され、以後たちまち普及してしまいます。「奴さん」というのは、女性や子どもの間での用語ですから、同時に広まったものでしょう。(次号につづく)
出典元https://www.fujisan.co.jp/product/1281681367/b/951411/
長いですが、簡単にまとめると、1700年代は丸い編笠を被った「こも僧」であった為、この「こも僧」形の折り紙が誕生し、呼び名も「こも僧」として定着。次第に虚無僧の編笠は天蓋になったが、読みも「こも僧」と呼ばれたままでいた。後に「こむそう」になる。やがて、明治になり現実の虚無僧と形が違うため、呼び方を変えようと試行錯誤された結果、奴さんの衣装を着た雀踊りの、編笠部分が虚無僧と共通しているという事と、「奴凧」がその形に似ているということで、「こむ僧」から「奴さん」に変身したとのこと。
元々「こも僧」だったのが、もう誰も知らないし、ってことで最近は「奴さん」になったんですね。
折り紙の虚無僧にも歴史あり、です。
続いてこちらは、
『欄間図式』1734年(享保19年)という欄間のデザイン集に、「こも僧」の折り紙が、鶴などと一緒に描かれている。

「江戸時代の前期・中期には、このように装飾品や着物の柄として折形・折据が描かれることがしばしばあった」とあります。
浮世絵では、西川祐信の絵に折り紙が描かれている。

江島其磧(えじま きせき) 作
西川祐信(にしかわすけのぶ)画
早稲田大学図書館所蔵
二人の少女が折り紙を楽しんでおり、一人が鶴のお腹に息を入れ膨らませており、もう一人が紙を折り始めたところのようだ。
傍らには、折られた「こも僧」が船と一緒に転がっている。

こちらは文章も西川祐信著作。

屏風の前に享保雛二対を飾り、七人の女性や女の子が遊び戯れている。
雛(ひいな)は昔
初春の
玩(もてあそび)なりしに
一年(ひととせ)さることありて
三月(やよい)三日の
かざりとはなりぬ
桃の夭々(わかわか)しきを
さゝけていもせを祈る女の
遊びつきづきくこそ
こちらも先ほどの絵の続きのようで、膨らました折り鶴を棒か何かに刺しており、一人の少女はちょうど折り始めたところである。
「こも僧」はちょうど真ん中に舟と一緒に立っている。

こちらも同じく西川祐信画で、今度は三人で遊んでいる。

Ronin Gallery所蔵
いずれも形としては尺八を吹いていない「こも僧」なので、この頃は編笠被っている人は沢山いたでしょうし、ある時点で普通の「僧侶」としては広まらなかったのか不思議なところです。
仮名手本忠臣蔵も折り紙で再現されています。

赤穂市立歴史博物館所蔵
九段目には、折り紙の虚無僧、本蔵がいます。
木版刷り一枚物2枚に、1枚には11段12景の完成図、他の1枚には紙の切り方と、25人分の人物の折り方途中図が描かれているそう。
虚無僧と折り紙については、國見昌史氏のブログにも詳しくありますので是非↓
折紙寺から折り紙のこも僧、虚無僧へと話が江戸時代まで遡りました。
次回は、金子みすゞの詩「折紙あそび」を参考に、実際に折って見ようと思います♪
できるかな・・・
参考資料
高木智『おりがみ 古典にみる折紙』日本折紙協会発行
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