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虚無僧寺跡を訪ねる★青梅鈴法寺 後編!

前編では、かつての虚無僧寺、鈴法寺の扁額が保存されているという事で、まずはご近所の東禅寺を訪れました。↓


お次は、東禅寺からほど近い鈴法寺跡地へ!といきたいところですが、東禅寺の北東に史跡があるとのことで、お昼休憩も兼ねて見にやってきました。

井戸!


深い!


一日、何回往復したんでしょう…。汗


公園内にボタン園も。
ギリギリセーフで咲いていました。

でかい。



その公園の北にはめちゃめちゃ大きな鳥居。
御岳神社です。

こちらの神社、新町開拓の折、始祖吉野織部之助正清が新町村開拓完成と同時に、元和二年九月二十九日大和国金峯山権現を勧請し御嶽大権現と称し村内鎮守としてお祀りしたのが始まり、とのこと。

吉野織部之助の碑


この吉野織部之介どのは、鈴法寺とも切っても切れない重要人物!

天正18年(1590)、武蔵国埼玉郡忍(現埼玉県行田市)の忍城が秀吉に攻められ、城主成田氏の家臣であった吉野織部之介は、帰農してその後、慶長18年(1613)に霞村かすみむら青梅で開墾を始めた。荒野に村里の線引・地割をして、井戸掘りを頼むため、出張した時、元の同僚、秋山惣右衛門の倅と邂逅した。僧形をしているので話を聞くと、主家滅亡により浪人になったので虚無僧になり、月山養風と云って川越鈴法寺の住職をしているという。それなら旧姓をとって秋山に変更したら如何と聴くと、秋は名月を愛づる故に月山にしたという。織部之介が新田開発の話をすると、是非そちらに移りたいと言うので、お安い御用と引き受けて、屋敷三軒分の土地に草庵を建て、井戸を掘って寄進した。

値賀笋童 著『増補改訂 伝統古典尺八覚え書』

その後の詳しい経緯は、吉野織部之介が日記風に書いた『仁君開村記』という記録にあるそうです。原本も同地の吉野家に現在残っているそうな。尺八に関係ある江戸初期の古文書で、原本が残っているのは極めて珍しいのだそうな。


さてさて、ようやく鈴法寺跡地へ!


やっと着きました。

何故『鈴法寺跡』の塔が、2つある理由はこちら↓


九基並んでいます。
ずらり。
かなり古いです…


一月寺の歴代住職のお墓などの詳細もこちら↓


歴代住職
東京都指定旧跡
普化宗総本山


屋敷三軒分の土地だったということで、かつてはかなり広い場所だったんでしょう。明治政府により、1871年(明治4)に廃寺、1895年(明治28)に焼失したそうです。なんと勿体ない…。


20年近く前にも一度訪れていますが、その時はもっと木々が後ろに茂っていたような…。看板に英語の表記も追加されています。


お参りも済ませたので、今度は吉野織部之介の家に行きたいと思います。


旧吉野家住宅


臨時休館!


なんと、休館!

茅葺き屋根はすでにキレイ。


茅葺きはもう終わったようですね。

見学できないのは残念でしたが、今度愛好会の遠足には見学できそうです。



こちらに間取りなどが掲載されています↓


帰り道々、広い公園もあったりして、

おお、ここで宴会できるな…

なんて遠足計画を密かにたてております。


やっぱり春かな🌸

すでに楽しみ🎵(宴会が。)


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