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初代黒沢琴古の巷説☆根岸鎮衛による雑話集『耳嚢』より

黒沢琴古シリーズ☆其の三


耳袋みみぶくろとは、江戸時代の旗本、根岸ねぎし鎮衛やすもりによって書かれた雑話集。

江戸の珍談・奇談をおよそ1000話集めたという。
その中に黒沢琴古が登場する。


下級旗本出身であった鎮衛は、22歳の時に、同じく旗本の根岸家の養子になり家督を継ぎ、その後中級幕吏となり出世していった人物。


根岸鎮衛ねぎしやすもりとは、

国立公文書館HPに紹介あり↓


国立公文書館HPにもあるように、下級幕吏出身のくだけた人物ということで、大岡越前や遠山の金さんみたく講談で注目を集め、小説・テレビ時代劇で題材とされている。


『耳袋(耳嚢)』は、 佐渡奉行在任中の天明5年(1785年)頃から亡くなる直前の文化11年(1814年)まで30年以上に亘って書き溜めた世間話の随筆集。

同僚や来訪者、古老から聞き取った武士から町人層まで身分を問わず様々な人々についての事柄の珍談・奇談・怪談が記録されている。全10巻1000編の膨大な量に及ぶとのこと。


さて、その中に書かれた黒沢琴古の珍談?とは

伎芸も堪能不朽に伝う事
 京橋辺に琴古とて、尺八の指南をして尺八をひらくこと上手なり。その業をなす者に尋ねしに、琴古がこしらへし竹は、格別音声・調子共宜しき由也。元祖琴古竹吹きて国々を遍歴し、或る在郷の藪にて与風ふと名竹と思ふを見いだせし故、せちに乞い求めて是を竹に拵えけれど、在方なれば唄口へ可入いるべき品もなく、たゞ切りそぎて唄口をこしらえ吹きけるに、その音微妙にして可称しょうすべく、是をもって日本国中を修行せしに、尺八の芸も琴古に続く者なし。長崎にて一圭といへる者、其芸堪能なりしが、是と出会いの上両曲合せけるが、琴古には及ばざる由。今も右の竹は当琴古が重物じゅうもつとして、執心の者には為見みせけるよし。元祖琴古も当時の琴古より二、三代も以前の由。元祖のひらきし竹も今に世に流布し残るとなり。裏穴に際に琴古と、代々名彫りをなすと、人の語りぬ。

〈訳〉
京橋あたりに、琴古という尺八を指南し、製管の上手い人がいる。尺八をやってる人に聞いてみるに、琴古が作った尺八は、格別に音も調子も良いそうだ。初代琴古は、尺八を吹いて国中を遍歴して、とある田舎の竹薮で、これは良い竹だ!という竹を見いだし、懇願し手に入れ尺八に仕立てたのだが、田舎なので唄口に入れる物が無く、ただそれを切り削いで唄口を作って吹いたら、その音は幽遠で素晴らしく、これを持って日本国中を修行した。尺八の演奏も上手で琴古に続く者はいない。長崎に一圭(一計)という、尺八に堪能な人がいて、この人と一緒に曲を吹き合わせたそうだが、琴古には及ばなかったとのこと。今もその竹は琴古当人が大事にして、見たいという人に見せている。初代琴古は、現在の琴古の二、三代前の人。初代琴古の作った尺八は、今でも流通している。裏穴の際に「琴古」と彫ってあると人が話していた。



根岸鎮衛『耳袋2』東洋文庫と『耳嚢(中)』岩波文庫を参考。語尾や助詞が微妙に違います。


珍談?とまではいきませんが、何やら怪しい部分もあり、内容は全て人づてに聞いた噂話のようです。


まず、「京橋辺」とは、『町屋住居尺八指南者姓名並に尺八吹合所名』に、琴古が京橋柳町、家主宇兵衛店に住んだと明記されており、これは二代琴古のこと。


その業をなす者に尋ねしに」とあるのは、根岸鎮衛のまわりに尺八を演奏する者か、製管する人がいたのでしょう。

小菅大徹著『江戸時代における尺八愛好者の記録 細川月翁文献を中心として』によると、『耳袋』のこの琴古の事が書かれた巻が書かれたのは文化二年頃(1805)であると考証されており、初代琴古が歿してから三十四年後、二代琴古五十九歳、三代琴古三十四歳という黒澤家の最も隆盛の時代である、とこのと。江戸には、尺八を習う者も教える者もたくさんいたようです。


「元祖琴古竹吹きて国々を遍歴し、或る在郷の藪にて与風ふと名竹と思ふを見いだせし故、せちに乞い求めて是を竹に拵えけれど、在方なれば唄口へ可入いるべき品もなくたゞ切りそぎて唄口をこしらえ吹きけるに、その音微妙にして可称しょうすべく、是をもって日本国中を修行せしに、尺八の芸も琴古に続く者なし。」


「唄口に入れる品」とは、恐らく歌口に入っている角の事でしょうか。
あってもなくても、尺八だと思うのですが、角入れを考案したという逆の説だったら何となく分かる気もしますが、角入れ無しの尺八にしたらすごい良かった!といった感じです。

そして、最初から元祖琴古は国々を遍歴していて、竹を見つけた後も、日本国中を修行したとあります。

竹を見つけるくだりなんかは、なんだか虚鐸伝記の張伯さんみたくなってる…。
そして諸国巡礼は楠木正勝説に対抗か?!


長崎にて一圭(一計)といへる者、其芸堪能なりしが、是と出会いの上両曲合せけるが、琴古には及ばざる由。」

『琴古手帳』には、琴古は19歳の時に長崎松壽軒の一計より習ったとあり、その前に諸国巡礼をすでにしていたとは思えないので、これは根岸鎮衛の聞きかじった噂話が、時間が前後して伝わったのでは無いかと思います。


前々回のnoteで、初代琴古の紹介文には、「虚無僧となって諸国行脚」と、多くの研究本にあることを書きましたが…、


根岸鎮衛の『耳嚢』に書かれた「元祖琴古竹吹きて国々を遍歴」が発祥である事は、おそらく間違いなさそうです。

実際、琴古は江戸に出てから諸国巡礼したかは、『琴古手帳』を元に推察するしか無いのですが、行ったと思われるのは、

秋田にて」「宇治きうこあんにて」の記述から、秋田、京都。

あとは、虚無僧寺の「京都明暗寺」「清山寺」(千葉)「西向寺」(神奈川)とありますが、「京都明暗寺御門弟」「清山寺御本則」「西向寺御役僧」より、とあるので、江戸もしくはどこかで琴古に会った虚無僧だったのかも知れない。これをもって、諸国巡礼とは言い難い。

些細なことですが、初代琴古の諸国行脚はちと盛り過ぎのようです。


最後に書かれた「元祖のひらきし竹も今に世に流布し残るとなり。裏穴に際に琴古と、代々名彫りをなすと、人の語りぬ。」とありますが、稲垣衣白編『尺八本曲と古管尺八を愛された 浦本浙潮先生』に、初代琴古作の尺八の写真があります。

稲垣衣白編
『尺八本曲と古管尺八を愛された 浦本浙潮先生』
稲垣衣白編
『尺八本曲と古管尺八を愛された 浦本浙潮先生』

個人蔵ですが、今でも幾本か現存するんですね。



今回は、小菅大徹著『江戸時代における尺八愛好者の記録 細川月翁文献を中心として』に、根岸鎮衛の「耳袋」が紹介されており、ここで黒沢琴古の記述を知った次第です。

小菅師は琴古の製管した尺八について考察されており、現存する、琴古の尺八の一覧もあります。その他、内容はとっても濃いです。是非、ご一読を。



歴代琴古 生没年月日 (2024年版)


こちらは尺八研究家の神田可遊師に伺った、歴代琴古の生没年月日です。

初代  
黒澤幸八    
1710年-1771年4月23日歿(享年62歳) 

二代目 
黒澤幸右衛門  
1747-1811年6月12日歿(推定65歳) 
後幸八と改める。弟の名は音次郎。

三代目 
黒澤雅十郎 
?  -1816年6月22日歿。
後幸八と改める。2代目の嫡男。幼名雅次郎。別号初め琴甫。 

四代目 
黒澤音次郎    
?  -1860年歿 


歴代琴古の生年については過去帳に享年が書いていないので不明。ただ初代は享保13年が19歳となっているので生年がわかるが、ほかは「推定」。

二代は『中塚竹禅遺稿』文化8年の項に、
●二代目琴古歿6月12日、葬四谷祥山寺、普聞院言外琴語居士、幼名雅十郎、後幸右エ門後幸八、江戸日本橋本町一丁目住。推定65才。
文化13年の項に、
●6月23日琴古流宗家三代目琴古歿、葬四谷祥山寺、龍淵院睡翁琴甫居士、幼名雅次郎後幸八、別号琴甫。

と、あるそうです。今後、研究される方にご参考までに。


多磨霊園の墓誌には三代まで享年あり。

多磨霊園の墓誌

⚠こちらも神田可遊師のご指摘ですが、三代目の歿年が間違っております。
文化三年→文化十三年(1816)


黒沢琴古歴代の墓は多磨霊園にあります↓



さて、
根岸鎮衛による雑話集『耳嚢』、文学的表現には粗く、当時の社会相を伝えるものとしては虚構がある(『耳嚢(上)』岩波文庫)とありますが、今や黒沢琴古のことを伝え聞く貴重な史料です。噂話でも書き留めてくれて、根岸鎮衛さんにも感謝です🙏



次回もまだまだ黒沢琴古関係続きます♪


ご協力
尺八研究家 神田可遊師

参考文献
小菅大徹『江戸時代における尺八愛好者の記録 細川月翁文献を中心として』
根岸鎮衛『耳袋2』東洋文庫
根岸鎮衛『耳嚢(中)』岩波文庫


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kataha
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